第8章 海への想い・海から来るもの

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海への想い

 はじめて海から昇る御来光を拝んだのは、いつのことだっただろうか。

 はっきり記憶に残っているのは、小学校6年生の正月だ。はじめて子供たちだけの初詣を親に許され、大晦日、除夜の鐘が鳴り出した頃に同い年の幼馴染であるジロチョーとデメチャンと待ち合わせ、近くにある小さな諏訪神社へ出かけた。

 篝火が焚かれた参道を通って、三々五々集まってくる近所の人たちに混じって子供たちだけ三人で深夜に歩いていると、少し大人になったような気がした。

 お参りを済ませて、参道を戻る途中、「初日の出見に行くか」と言い出したのは、ぼくだったか、あるいは隣の家に住むジロチョーだったか…その一声にみんなが頷いて、初日の出遠征がその場で決まった。

 いったん帰宅して、2時間あまり仮眠をとってから出かけようと約束したが、子供たちだけで夜の寂しい道を海まで遠征するという「冒険」を想像すると興奮してしまって、結局、一睡もできなかった。夏休みにはラジオ体操の会場になる近所の野原に集まってみると、ジロチョーもデメチャンも眠れなかったようで、三人とも眠い目をこすって欠伸ばかりしていた。

 海まではいくつか谷を越え、人家の絶えた森を抜け、さらに広大なスイカ畑を突っ切って10kmあまりの道のりがある。ぼくたちは、同じ野球帽にマフラー、着膨れしたジャケットに毛糸のミトンといういでたちで、それぞれの自転車にまたがり、月明かりに青白く輝く霜の降りた道を辿りはじめた。凄愴とした月明かりの世界は、人が寝静まった後に息を潜めていた様々なものが蠢きだす鬼太郎たちの世界のように思え、無意識に肩を寄せ合って、団子のようになって進んでいった。

 夏には泥に浸かってどじょうすくいをする小川が流れる谷を越えると、狭い道は、両側から木々がのしかかる森に飲み込まれる。夜道の恐怖はさらに増して、自然にペダルに乗せた足に力が入る。置いてけぼりにされるのが怖くて、競争のようになっていく。

 その森の外れには、何の儀式に使うのか、杉の大木に身の丈3mもある天狗が縛りつけられていた。縄で編まれた胴体に着せられた布は風化して、いつも風にはためき、その上に体長の半分もある大きな木彫りの顔が載せられている。その天狗は子供たちにとっては昼間でも恐ろしい存在で、そばを通るときは、目を背け、大声をあげながら走り抜けた。天狗の場所に近づくと、自転車のスピードが一斉に落ちた。そのとき、誰かが「帰ろうか」とひとこと言えば、ぼくたちの冒険はここであえなく終了しただろう。だが、誰もそれを口にしなかった。そのかわり、この恐怖の場所を一刻も早く駆け抜けようと、誰からともなく焦ってペダルを漕ぎはじめた。

 ちょうど、天狗の前に差し掛かった時、ジロチョーが「ヒャーァッ」と、爆発しそうに膨らんだ肺から情けなく空気が漏れたような悲鳴をあげた。それをスタートの合図とするように、三人は他の二人に遅れまいと、ありったけの力を出して自転車を漕いだ。デメチャンもぼくも、ジロチョーと同じように声にならない悲鳴をあげ、一目散に天狗から遠ざかろうと、心臓が破裂しそうなほど喘ぎながらペダルを漕いだ。最後尾になってしまったら、あの天狗に捕まって、頭からムシャリと食べられてしまうと本気で震えていた。

 三台の自転車が狭い道いっぱいに並んで、息の抜けた悲鳴をあげながら進んでいく姿は、傍から見れば、天狗よりよほど不気味だったはずだ。

 そのまま、ぼくたちは誰も天狗に食われることなく森を抜けた。

<< 後に、この天狗は「大杉様」や「あんば様」と呼ばれる集落の境界に設置される魔除けであることを知った。茨城県稲敷市にある大杉神社の信仰を伝えるもので、『常陸国風土記』にも登場するこの地方の先住民「夜刀神」をモチーフにしているのではないかと思われる >>

 不思議の国のアリスが、スポンッとうさぎ穴から別の世界に飛び出したように、広大な平原にぼくたちは飛び出した。そこは、夏には広大なスイカ畑となる砂地の平原で、海へと向かう道は遮るものの何もないその平原の真ん中を一直線に伸びている。その道が吸い込まれていく先が太平洋で、ちょうどそのあたりの空から白みはじめていた。霜の降りた平原は小さなダイヤモンドを散りばめたように輝き、むき出しの頬が千切れそうに冷たかったが、ぼくたちは爽快な気分で、海に向かって自転車を進めていった。

 当時の鹿島灘は、潮が引くと波打ち際まで100m以上も砂浜が広がった。さらに海岸段丘も広大で、茅で編まれた砂避けの柵が格子に組まれてどこまでも続いていた。ぼくたちは海岸段丘の縁で茅の柵に背をもたれて腰掛け、食い入るように水平線を眺めていた。

 雲ひとつない空の向こうで、水平線の一角を割って太陽が顔を覗かせようとしていた。瞬間、風が止まり、冬の太平洋にしては珍しい凪いだ海に、静かな波音だけが響いていた。ぼくたちは肩を寄せ合って座ったまま、ついに、初日の出と向かい合った。太陽が水平線から昇る瞬間、耳には聞こえない低い音が響いてきて、腹の底をズシンと揺らした気がした。目を見開いたまま、ぼくたちは互いに見交わした。言葉は発しなくても、太陽とともに何かがやって来たと感じたことを三人のその表情が物語っていた。

 夏休みになると毎日のように海に通っていたぼくたちは、この景色を見慣れているつもりだったが、夜明けという荘厳な瞬間にそこにいると、まったく違う世界のようだった。そして、ここで日々同じ光景が繰り返され、太陽が海の彼方から生まれ出てくることが、奇跡であるように思えた。

 ぼくたちは、それまで経験したことのない満足感を味わいながら、空を昇っていく太陽とともに、やってきた道を引き返していった。帰り道では、何故かあの天狗が怖くなくなっていた。

 高校に上がると、ぼくはすぐに二輪の免許を取った。自由な交通手段を手にすると、頻繁に海に出かけるようになった。授業のはじまる前に夜明けの海に行くこともあった。いつも、一人で砂丘に腰を下ろし、飽きることなく海を眺めていた。

 南北80kmにも渡って弓なりの砂浜が続く鹿島灘のちょうど中間あたりが、故郷の大竹海岸になる。ここから海を眺めると、水平線が緩く弧を描き、地球が丸いことを実感できる。小学校の何年生だったか、この海の対岸がアメリカだと習って、そうか丸い地球の上で世界は繋がっているんだと大発見をしたような気分になった。砂浜を散歩していると、どこの言葉かわからない文字の印刷された飲み物の空き瓶や洗剤の入れ物が打ち上がっているのを見つけ、それを拾って世界を想像していた。

 たまに夜の海に出てみると、海に浮かぶ漁火と空の星が渾然一体となって、宇宙を漂っているような気分になった。肉親や親しい友だちを失ったとき、海辺に佇んで広大な景色と向き合い、打ちせよる波音を聞いていると、亡くなってしまった者たちの魂と交感できるような気がした。地球上での肉体は失われてしまったが、変わらない宇宙の中にはどんな形であれ魂が存在していて、それを感じられると思った。

 故郷の海は、ぼくにとって、いつでも無条件に安らぎを与えてくれる存在だった。

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 高校を卒業して東京に出ると、思い立ったらすぐに故郷の海へ足を運ぶということはできなくなってしまったが、帰省したときは必ず一度は海へ行った。 

 その海も年々変わっていってしまった。

 広大な海岸は砂が沖に攫われて痩せ細り、海岸段丘の松林まで侵食されていった。人工物といえば素朴な茅の柵があるだけだったものが、砂の流出を防ぐためのテトラポッドとコンクリートで固められた堤防が続き、狭くなってしまった海岸には大小様々の漂着ゴミが打ち寄せ、そのまま放置されている。

 砂浜が痩せてしまうのは、海岸に砂を補給していた河川の上流にダムが出来て、砂が供給できなくなったり、港湾開発によって沿岸の流れが変わって、戻される砂がなくなってしまったからだと言われる。ゴミは、漁網や産業廃棄物、さらに沖合を航行する船から捨てられたハングルや中国語の書かれた生活ゴミが目立つ。島崎藤村の「やしの実の歌」のように、漂着した空き瓶に記された外国語から遠い海を想像するといった長閑さは、あらゆる生活ゴミが散乱する今は、思い出すことも不可能なほどだ。小学校6年生のあの日に、ぼくたちを優しく迎え入れ、宇宙を実感させてくれた海が、人間のエゴでどんどん汚されていくのはたまらなく悲しい。

 そして、昨年。それまでじっと黙っていた海が、3.11に牙を剥いた。

 故郷では津波の被害はほとんどなかったものの、地震の被害は大きく、一週間以上も交通網もインフラも寸断された。ようやく交通網が回復した3月20日に故郷に帰省した。市街地の建物の三分の一が全半壊の被害を受け、間道はまだ復旧できていないところも多く酷いありさまだった。

 翌日、帰省した時のいつもの例に習って、海岸へ日の出を見に出かけた。
 白々と夜の明けはじめた空の下、海岸は黒々とした瓦礫の影で埋め尽くされていた。そして、いつもの爽やかな潮の香りとは違う異様な匂いがたちこめていた。酸化した油、腐りかけた魚の生臭さ、さらに解体された古屋の埃っぽい匂い、まるで激しい戦闘が終わったばかりの戦地に一人取り残されでもしているような気分になった。

 だが、水平線を割って太陽が姿を見せ、海上を真っ直ぐ伝ってきた光に打たれた瞬間、ジロチョーとデメチャンと三人でここへやってきて初日の出を拝んだあの場面が蘇った。

 凪いだ海の上をこちらに向かって光の線を走らせる太陽を見れば、それはあの頃とまったく変わらない。だが、海岸に目を移すと、人間の営みの残滓が無惨に山を成している。そして、この海岸線を北へ辿れば、福島第一原子力発電所のあの瓦礫があり、そこから放出された放射性物質が、ぼくが立つこの海岸にも地震に潰された町にも降り注いでいた(茨城県は1999年のJCO事故の経験から独自のモニタリングポストを設置して放射線監視網を作ったが、このシステムによって3月21日に高線量のブルームが茨城県の海岸部を襲った様子が記録されていた)。

 三人で初日の出を見に行った40年前のあの時から、いったいぼくたち人間はこの地球に対して何をしてきてしまったのだろう。

 過去に大津波を何度か経験し、その教訓を活かした街づくりをしてきた東北の被災地だが、結局、1000年に一度の大津波を想定することはできずに、2万人近い人命を失うことになってしまった。「長い目で見る」という言葉があるが、人間のライフスパンを考えれば、リアリティを持って想像できるのは100年が限界だろう。だが、自然は1000年や1万年というスケールですらほんの一瞬にすぎない。

 朝の海に立ち尽くしていると、脈絡のない様々な思いが心に浮かんでくる。災害の犠牲となった人たちへの鎮魂、人智の及ばない途方もない力を見せつけた自然への畏怖、恵みをもたらす自然への感謝、手に負えないものを作り出し、自然を破壊した報いを受けたことへの悔恨…その瞬間にぼくができたことは、無心に手を合わせることだけだった。

 そのうちに、今まで海で行われた様々な神事の光景が蘇ってきた。

 四方を海に囲まれた日本には、古来、神が海からやってきて上陸したとされる場所が数知れずある。そんな場所には社が祀られたり、独特な神事が行われることが多い。今まで、それは、海がもたらしてくれる恵みへの感謝を象徴したり、あるいは海から上陸してきた先人たちを開闢神として祀り上げるものだと単純に捉えていた。だが、3.11を経験し、その無惨が横たわる海岸を前にして、古来の海への信仰は、津波のような荒ぶる神への祈りも含まれていたことにようやく気づいた。

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海から来るモノ

 海辺にあって、海からやって来るモノを待ち受ける神社は多い。例えば、拙著『レイラインハンター』でも紹介した天孫降臨神話にまつわる伊勢の輿玉神社。輿玉神社が位置する伊勢の二見ヶ浦では夏至の夜明けに太陽を迎える儀式が行われる。

 全国から集まった善男善女が、まだ暗い未明から岸辺の輿玉神社に集まり、茅の輪を潜ってお祓いを受ける。そして東の空が白み始めると、続々と海に入って夫婦岩に差し向かう。まだ冷たい水に胸まで浸かり、祈りを捧げる彼らの前で、太陽は夫婦岩のちょうど真ん中から昇ってくる。これは、日本神話の『天孫降臨』のエピソードをそのまま反映している。

 天照大御神の命を受けた瓊瓊杵尊(ニニギノミコト=天皇家の皇祖神)は、地上を支配するために天から降臨する。その際、国津神(元々地上を支配していた神)である猿田彦命が瓊瓊杵尊を途中まで出迎えに行く。二見ヶ浦にある輿玉神社の祭神がその猿田彦命で、夫婦岩の間から昇った夏至の朝日は、真っ直ぐ輿玉神社の中心に射しこんでくる形になっている。さらに、今では空気が汚れて目視できなくなってしまったが、かつては、富士山の後ろ側からこの夏至の朝日が昇ってくる光景が見られた。富士山は女神木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)の山であり、木花咲耶姫命は瓊瓊杵尊の妻だから、ここには夫婦で地上に降臨し、それを猿田彦命が迎えに行くという構図が正確に描かれているわけだ。夏至の太陽の光は、輿玉神社の中心を通って、真っ直ぐ伊勢内宮へと導かれていく。

 茨城県の鹿島神宮には、本殿から北東へ3.7km離れた海岸に、東一の鳥居がある。ここは鹿島神宮の祭神武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が上陸したと伝えられている場所だ。武甕槌命は天照大御神の命を受け、地上を支配していた国津神の首領である出雲の大国主神に地上を譲るように迫った神で、日本神話の『国譲り』のエピソードに登場する。大国主神は武甕槌命の要求に従って、自らが開闢した地上を天照大御神の一族である天孫に譲ることに同意するが、大国主神の次男である建御名方命(タケミナカタノミコト)は反対し、武甕槌命と戦いになる。だが、建御名方命は戦いに破れて、敗走先の諏訪に落ち着くことになる。

 その後、瓊瓊杵尊の天孫降臨へと繋がる。武甕槌命は国譲りの交渉を済ませると、今度は東北の荒ぶる神々の鎮圧を命じられて、天下るが、天から直接鹿島神宮に下ったのではなく、海からやって来たことになっている。

 ちなみに、鹿島神宮の参道は真っ直ぐ西へ伸びているが、その延長上には建御名方命が諏訪で最初に落ち着いたとされる諏訪大社上社前宮がある。東西の同じ緯度にあるということは、真東から太陽が昇る春分と秋分の日には、鹿島神宮の参道を真っ直ぐ駆け抜けた朝日が諏訪まで伸びていくことになる。武甕槌命はいまだに建御名方命を春分と秋分の朝日が結ぶ線上から睨み据えているわけだ。

 3.11の震災では、鹿島神宮の西を向いた参道の入口にあったコンクリート製の大鳥居がバッタリと倒れてしまった。それからちょうど一ヶ月経った4月11日、鹿島神宮の東一の鳥居の近くに諏訪大社の御札が流れ着いた。それは、幅20cm、高さ130cmの立派な木製の札で、「諏訪大明神祈祷神璽」の文字が墨書されていた。大鳥居の倒壊と考え合わせると、まるで国譲り神話の雪辱戦が始まったようで、地元ではけっこうな騒ぎとなった。発見されてから10日後、諏訪大社の御札は鹿島神宮の神職によって丁重に運ばれ、諏訪大社に納められた。

 武甕槌命は東国征伐のために鹿島に落ち着いたわけだが、それを象徴するように、鹿島神宮は蝦夷の土地である東国を睨み据えるように、北を向いている。そして、西に諏訪大社が位置していたように、本殿が向いた先を見ると、大洗磯前神社が30kmあまり先にあり、さらにその北5kmの場所に酒匂磯前神社がある。いずれの磯前神社も祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)。大己貴命とは大国主神の別名だが、この神も海からやってきて、上陸したと伝えられている。

 さらに、この二社の以北にも太平洋沿岸では、大国主神=大己貴命を海から上陸してきた開闢神とする神社が多く存在する。そして、津軽海峡から日本海側に回りこんで南に下り、能登半島の袂にある氣多大社あたりまで続く。これは、大国主神を祭神とする出雲族が、遥か西南に位置する出雲を出発し、日本海を北上しながらところどころに上陸して拠点を作り、その足跡が津軽海峡を越えて太平洋沿岸にまで達したことを表している。東北では、さらにこれが東北の土着神であるアラハバキ神と習合するケースも多く見られる。

 大国主神が大己貴命と名乗る際には、少彦名命(スクナビコナノミコト)とセットで語られることが多い。少彦名命は、出雲で盛んであったたたら製鉄の際に炉から立ち上る火の粉が神格化した神であるとされる。大己貴命と少彦名命が上陸したという伝説は、古代製鉄の技術を持った出雲族がその地に上陸し、技術を伝えたことを物語り、彼らが神格化されて祀られていると解釈できる。

 若狭を開闢した若狭彦・若狭姫の二神は、少年少女の姿のままずっと変わらず、不老不死であったといい伝えられている。若狭は、かつて朝鮮半島や大陸からの玄関口として、多くの僧や亡国の民が渡来した。若狭に近い丹後半島には、秦の始皇帝の命により、東の国へ不老不死の妙薬を求めて派遣された徐福の伝説も残る。若狭に渡来した僧たちは、中国古来の錬丹術を身につけていた。錬丹術は、その最終的な目的である不老不死を実現することはできなかったが、不老不死の妙薬を求める過程で、今でいう漢方処方のトライアルを重ね、生薬処方や生薬の栽培についてのノウハウを確立していた。そうした薬効体系のノウハウを持った渡来民たちは、地元の人間からすれば神に見えただろう。

 2003年の春、茨城県の北部沿岸から内陸を舞台に『金砂磯出大田楽』という祭りが開催された。72年に一度、内陸の山の中にある東金砂神社、西金砂神社それぞれの神社からご神体を入れた神輿が担ぎだされ、海へと運ばれて新しいご神体と入れ替えられて、再び本社に帰するという神事で、500人を越える行幸の列が1週間かけて本社と海の間を往復する。

 一生に一度しか見られない祭りとして、全国から100万人以上もの観光客が訪れて、この行幸を見物した。

 東西金砂神社のご神体は、九つの穴を持つ黄金の鮑と伝えられる。鮑が黄金であり、それが山奥の神社に安置されていることは、鉱物資源を連想させる。一方、九という数字は不老不死を連想させる。中国では、古代の地理書『山海経』に始まり、数々の歴史書に九尾の狐が登場する。一万年も生きた狐が妖狐となり、九つの尾がその証になるのだという。そんなことから、九というマジクナンバーを属性として備える生物は、不老不死であるとみなされる。中国では瑞獣とされ、それが日本に伝えられると九尾の狐が絶世の美女に化けた「玉藻の前」の逸話のように変化する。金砂神社のご神体である黄金の九穴鮑は、たたら製鉄の技術とその原料を発見して掘り出す鉱山技術に長けた出雲族がここに上陸し、有力な鉱山を発見したこと、そして大陸渡来の不老不死の思想がそこに混入していることを端的に表している。

 ご神体の鮑が今の日立市の田楽鼻と呼ばれる海岸まで運ばれると、そこで田楽が奉納される。そして、その夜、神職の手によって神輿から出された鮑は人の目に触れないように白幕で囲われたまま、海の中に運ばれ、ここで新しいご神体と入れ替えられる。この祭りのクライマックスといえるこの場面では肝心のご神体は限られた神職以外見ることは許されない。それ以外の者が見ると祟に触れ、その者は盲目となってしまうと伝えられている。

 古代のたたら製鉄では、フイゴを踏み続ける職人が間近で熱い火を見続けるため、その側の目を盲いることが多かったという。ご神体の鮑を見ると盲いてしまうという言い伝えは、たたらにまつわるそんな話にも符合しているように思える。ちなみに、たたらの職人は、片足だけでフイゴを踏み続けるためにその足を故障してしまうことも多かったという。たたら製鉄はかつては許されたものだけに伝承される秘技で、人里離れた山の中で行われた。たまたま山中で目と足を故障したたたら職人と出くわした里人が、片目片足の妖怪だと思ったことから「一つ目小僧」というお化けが生まれたともされている。

 海から神がやって来たという伝承を残す神社は、ここで挙げた以外にもまだまだある。それぞれに、掘り下げると日本とアジアの深層に繋がる歴史が秘められているのだが、ここではこれくらいにしておこう。

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 3.11を経験したぼくたちは、海からは、こうした新しい技術や知識を持った人間たちがやって来るだけでなく、禍をももたらすことを痛烈に思い知らされた。

 かつては、そうした荒ぶる海の神を鎮めるために人身御供が差し出されることがあった。弁天様で有名な江の島の対岸には、龍ノ口と呼ばれる場所がある。ここはかつて、五つの頭を持つ龍が海からやってきて、沿岸を荒らすので、それを鎮めるために村の若い娘を差し出したという伝説が残る。

 龍ノ口には、日蓮宗の名刹として知られる龍口寺があるが、ここはかつて刑場だった。「立正安国論」を著し、鎌倉幕府にそれを奏上した日蓮は、その過激論が幕府の逆鱗に触れ、龍ノ口で危うく処刑されそうになる。そのとき、沖合から光の玉が飛んできて、処刑人たちを驚愕させて中止になったと伝えられる。これを日蓮宗では「龍ノ口法難」と呼ぶが、この故事に因んで龍ノ口に創建されたのが龍口寺だ。

 そもそもがこの場所は荒ぶる海の神を沈めるための人身御供を行う場所で、それが後に刑場に姿を変えたものと思われる。荒ぶる海の神は、たぶん津波のことだろう。

 同じ湘南の茅ヶ崎や平塚では、近隣の神社から神輿を繰り出し、その神輿を担いだまま海に浸かって、波にぶつける「浜降祭」と呼ばれる奇祭がある。同じような祭りは外房の上総一ノ宮玉前神社とその分社末社の神輿が集まる上総十二社祭り(こちらも通称『浜降祭』と呼ばれる)や、九州などにもある。かつての浜降祭は、集まった神輿をぶつけあう勇壮な祭りで、それは、海からやって来る禍を再現して思い出し、荒ぶる神に奉納するという意味をもっていたのだろう。

 3.11を経験する以前は、正直言って、海に人身御供を捧げる儀礼や浜降祭の意味について、あまりリアリティが感じられなかった。迷信とは思わなかったが、台風の高波や漁の安全祈願にしては、あまりに大げさな儀式だという印象があった。だが、3.11のあの大津波の光景を目の当たりにしてしまうと、昔の人達が恐れていた海の禍がどれほどのものだったかわかり、それを回避しようと必死だったその気持ちも理解できた。

 2011年9月、太平洋を挟んだ向こう側のペルー沿岸で、奇妙な墓が見つかった。ペルー北部の漁村、ワンチャキートの海岸の砂丘にあったその墓には、42人の子供の骨が埋葬されていた。まだ生々しい髪や皮膚の残る遺体は、身につけていた衣服のデザインから12世紀から16世紀に栄えたチムー王国の時代に生贄にされた子供たちと断定された。子供たちのうちの10体は、肋骨を手斧のようなもので折られ、心臓が取り出された跡があった。チムー王国の後を継いだインカ帝国でも、生贄の風習があり、もっとも霊的な力が強いとされた心臓が神に捧げられた。ペルーの太平洋沿岸もしばしば津波に洗われるところで、荒ぶる海の神を鎮め、豊かな恵みをもたらしてくれることを祈るためにチムー王国の子供たちは生贄にされたと考えられている。

 『ナショナル・ジオグラフィック』に公開されている写真では、その子供たちは胎児や幼児ではなく、すくなくとも5、6歳を過ぎているように見える。いつの時代でも、子供は未来を担う大切な存在だ。慈しみながら育てたその子供たちを42人も一度に生贄に捧げるほどの災厄とは、やはり3.11のあの津波くらいの規模だったろう。

 海は豊かな恵みをもたらし、様々な土地の人々を結びつけてもくれる。だが、海は時として人間社会に対して残酷な牙を剝く。そのことを、先人たちは様々な祭りや儀礼を通して我々に伝えようとしていたとも思える。

 2012年の春、久しぶりに茨城の実家に帰省し、大洗磯前神社にお参りに出かけた。ここには、海岸の磯の上に海に向かって建てられた神磯の鳥居がある。この日は海は穏やかに凪ぎ、鳥居に額縁のように切り取られた風景を見ると平穏そのものだった。

 以前、荒天の最中に同じ場所に立ったことがあった。そのときは、山のように盛り上がった白波が次々に押し寄せ、鳥居の建つ岩にぶつかって砕け散っていた。波が岩で砕ける度に、低い爆音が空間を揺るがし、足元から振動が這い上ってくる。その時、酔狂を起こして鳥居に近づき、鳥居越しに砕ける波と向かい合った。離れて眺めるのとは桁違いの迫力だった。波が砕ける度によろめきそうなほどの振動が起こり、飛沫が滝のように降り注ぐ。鳥居が切り取った風景は、その画面一杯に波が逆巻き、実際の何十倍もの迫力だった。慌てて岸へ逃げたが、その時、海の本当の恐ろしさを垣間見たような気がした。

 海の近くにある神社には、鹿島神宮の東一の鳥居やこの神磯鳥居のように、海に向かってポツネンと建つ鳥居がある。それは、海からやって来た神の上陸地点を表すランドマークであると同時に、海が見せる様々な表情をデフォルメして伝えるスクリーンという意味合いもあったのかもしれない。

 震災直後に東北沿岸をオフロードバイクで走り、丹念に被害状況を調査した冒険ライダーの賀曽利隆さんと会ったとき、周囲は津波によってほとんど流されているのに、まったく無傷だった神社がかなりあるのに驚いたという話をされていた。例えば、塩竈市の鹽竈神社や気仙沼市内にあった秋葉神社などで、それらは長い過去の経験から安全な場所としてランドマークされて、いざというときにはそこを避難場所にするように設計されていたのだろう。

 このシリーズの第一章で触れたように、神道の儀礼の際に唱えられる『大祓詞(おおはらいののりと)』では、この世に生を受けて存在することによって必然的に溜まってしまう穢れを、具体的な自然観を示して、そこに流し、解消していくプロセスが物語られる。

 人が穢れを祓いに社に行けば、その社におわす神が受け取る。そして、社の神は川の神へとその穢れを手渡す。川の神はそれを海の神へと手渡す。海の神は、大きな口でそれを飲み込み、広大な海底へと沈めてしまう。その海底から、地下の国の入り口にいる神に手渡され、さらに地下の国の神が飲み込んで、広大無辺な宇宙に解き放つことによって、穢れは雲散霧消してしまう。

 大祓詞の世界観は、リアルな自然のエコシステムである陸、川、海をそのまま表している。海から先は観念世界であり、実質的には海という広大な空間が汚れを受け止め、拡散してくれる具体的なイメージで語られる。

 大津波により全てを攫われてしまった三陸の漁師が、「海が悪いわけではねぇ。海は津波も起こすけど、おらたちに恵みを与えてくれる。海なしではおらたちは生きていげねえ。海を恨んでもしかたねぇ。態勢を建て直して、また海に出るさ」と、残骸が散乱する港を見ながら語っていたのが印象的だった。

 3.11で悔しいのは、原発の事故だ。「海のチェルノブイリ」とも言われる今回の事故が、いったいどれほど海を穢してしまったのか。祝詞がイメージする世界観を覆してしまうような汚染を引き起こして、これをどう収拾していけばいいのか…。

 小学校6年生のあの小さな冒険で海と向き合ったとき、無垢な子供の心は、自分たちが宇宙に含まれているということをまったく当たり前に感じ取った。今、必要なのは、みんなが子供時代に立ち返って、自然と向きあったときの感動を味わいなおすことではないだろうか。

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■参考■

●二見輿玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)
 国津神である猿田彦命を祭神とする。ご神体は神社の目の前にある夫婦岩から沖合に700mの海底に沈む興玉神石で、猿田彦命の化身とされる。古くは、伊勢参宮の際には、まず興玉神社に参拝し、二見ヶ浦で身を清める「浜参宮」を行ったとされる。
・交通
 伊勢参宮線二見浦駅より徒歩15分

●鹿島神宮
 記紀神話の「国譲り」で大国主命に葦原中国を譲るように迫った武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が祭神。鹿島神宮の南東にある息栖神社と南西にある香取神宮とともに「東国三社」と呼ばれる。息栖神社の祭神は天鳥船命(アメノトリフネノミコト)で、武甕槌命が降臨する際に乗った舟が神格化したとされ、香取神宮の祭神は武甕槌命が帯同した刀が神格化したとされる。「鹿島大明神」として「香取大明神」とともに柔道や剣道の道場に、よく祀られている。
 西から入る参道と北向きの本殿は他に類をみない。西の本殿周辺と東の奥宮周辺では、別な神域を形成し、奥宮は古い土着信仰のご神体である「要石」遥拝所となっている。
・交通
 JR鹿島神宮駅から徒歩10分

●大洗磯前神社(おおあらいいそざきじんじゃ)
 大己貴命(大国主命)と少彦名命という出雲系の開闢神の一つの典型であるセットを祭神とする。本文でも触れたように、天孫系の武甕槌命を祀る鹿島神宮と対峙するような位置関係となっている。昔は、隣接する海洋博物館に、シロナガスクジラのペニスが展示されていたが、今はどうなったか…。
・交通
 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線大洗駅より徒歩30分

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