第6章 巨石信仰

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花崗岩について

 登山の途中、岩のテラスやテーブル状の岩塊を見つけると、思わずその上に寝転がりたくなる。

 日に照らされて熱を帯びた岩は、その上で横になると、岩の奥深くまで染み込んだ暖かさがじんわりと染み出してきて、それが体に伝わって、全身が弛緩するようなうっとりした気分になる。クライミングで汗をかいた後などは、そのまま小一時間も眠ってしまうこともある。

 こうした、岩に身を委ねる心地良さはいったい何なのだろう。しかも、うっとりした気分になる岩はきまって花崗岩で、何故、花崗岩にはこうした心身の沈静化作用のようなものがあるのかずっと疑問だった。

 ゲーテは『花崗岩について』というエッセイの中で、花崗岩は地球の深部で形成され、地上に露出している部分もその根は地球の中心に繋がっていると記す。そして、花崗岩の上に立てば、地球の意識に触れることができるのだと…。

 「この世界を統べる奥底の上にじかに建てられたこの祭壇で、私は万象の本体のために犠牲を捧げるのだ。われらの存在のもっとも確かな始原の姿に、私は今触れている…」

 ゲーテは20代半ばにワイマール公国の顧問官としてイルメナウ鉱山を視察したのをきっかけに鉱物に興味を持ち、生涯にわたって1万9000点ものサンプルを収集した。彼は詩人、作家としてはもちろん、自然科学にも造詣が深かったことが知られている。植物のメタモルフォーゼや色彩論をテーマにした著作もあり、なかでも鉱物は自然科学者としてのゲーテがいちばん傾倒するテーマであり、花崗岩に対する思い入れは一入だった。

 花崗岩の大岩が形作る天然のテラスの上で恍惚とすると、根源的な何ものかと触れ合っているという感覚とそれに由来する深い安心感を味わう。ゲーテのように精神のメタモルフォーゼがもたらされるほど強烈ではないにしても、ゲーテの表現に共感し、彼が花崗岩を特別視していたことに納得する。

 花崗岩といえば、太古の遺跡は花崗岩を素材としているものが非常に多い。

 その秘密は、ゲーテの言う確かな始原の姿に触れるデバイスを形作る素材として花崗岩がもっとも適しているためだろう。花崗岩が持つ人間の精神に及ぼす作用を太古の人間たちは熟知しており、それを利用して「祭壇」を拵えたと考えられる。

 秋田県の鹿角に、国の特別史跡に指定されている『大湯環状列石』というストーンサークルがある。直径40mの「野中堂遺跡」と直径45mの「万座遺跡」が隣り合う大規模なストーンサークルで、世界的にも他に類をみない規模を誇っている。

 昭和8年に広大な平原の開拓作業中に発見され、これが平原全体に広がる遺跡であることが確認された。その後、一帯が史跡に指定され、発掘が続けられているが、発見から80年近く経過した今でもまだその全容はつかめていない。

 当初、出土した土器や土偶の年代判定から縄文後期に作られたものとされたが、後の地質調査で、縄文後期より以前にストーンサークルは作られていて、土器や土偶を残した人間たちがすでに存在していたこのストーンサークルを祭祀場としていた可能性が浮上した。新たな推定では、ストーンサークル自体は紀元前3000年頃の縄文前期から存在していたとされる。縄文前期といえば、日本では三内丸山が形作られ、世界に目を向けるとストーンヘンジやクフ王のピラミッド造営がこの頃にあたる。

 三内丸山遺跡の周辺では、三内丸山と時代を同じくし、付随する祭祀遺跡とみられるストーンサークルが見つかっている。さらに独立したストーンサークルである青森市の小牧野遺跡、平川市の太師森遺跡も同時代と推定されている。大湯環状列石もまさにその年代のものであり、縄文時代前期に三内丸山に見られる都市型の集落と花崗岩を用いた祭祀文化が一斉に花開いたことになる。世界に目を向ければ、「花崗岩文化」とでもいえるものが地球上の様々な場所で同時発生していた。

 もっとも、縄文前期という時代の括りは大雑把なもので、1000年あまりの幅があり、三内丸山遺跡からは海を隔てて様々なものが交易されていた証拠が見つかっているので、仮に地球の裏側ほどに隔たった場所でも、1000年というスパンの中で花崗岩文化が形を変えながら伝播していったと考えても不思議ではない。

 最も興味を惹かれるのは、ストーンサークルのような花崗岩遺跡で、太古の人間たちは何を何にむかって祈っていたかということだ。

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花崗岩の作用

 冒頭、花崗岩テラスの上で横になっていると恍惚とした気分になると書いた。ゲーテもまたそんな体験から花崗岩を特別な存在とみなしていたとも。だが、花崗岩を素材として作られた遺跡には、逆に人を不安に陥れるような作用をするところも多い。

 大湯環状列石一帯は、ゴルフのフェアウェイのように短く刈りこまれた草地が広がり、晴れた夏の日なら気持ちよくピクニックが楽しめそうな場所だ。林立する花崗岩の石柱も違和感はあるが、見慣れてしまえば心地よい風景として受け入れられる。その上に寝そべられるほど大きな岩はないので、岩の上で恍惚となることはないが、岩の林の中にいると、なぜか心地よく、いつまでもそこに居たいような気分になる。

 問題はストーンサークルから方位角47°(北東)方向に2000m離れた場所にそびえる黒又山だ。

 大湯環状列石を構成する二つのストーンサークルのうちの大規模なほう、万座遺跡のサークルの南西に立ち、そこからサークルの中央に立つキーストーンと向かい合うと、その向こうの整った円錐形の山が奇妙な存在感を持って目に飛び込んでくる。それが黒又山だ。地元では古くから「クロマンタ」と呼ばれ、アイヌ語が語源で「神の山」の意味だとも言われるが定かではない。

 面白いことに、万座遺跡のキーストーンと黒又山の頂上が重なるように仰ぎ見ると、その先の彼方に横たわる山の端の頂上にも重なりあう。万座遺跡のキーストーン、黒又山の頂上、その先の北上山地の端に位置する山並みの頂上の三点が並び、あたかも更に先の天空に存在する特別な星座に照準を合わせているかのように見える。

 オックスフォード大学工学部のアレクサンダー・トムは、1934年から20年間にわたりイギリスのストーンヘンジを中心にヨーロッパの巨石遺構の配置について調査し、それらが、太陽と月の軌道を正確に予測するように配置されており、さらに日食の日時を算出できる遺跡もあることを突き止めた。エジプトの大ピラミッドは、ピラミッド創建当時のオリオン座の配置を地に写しとったもので、玄室から伸びる通路は特定の日のシリウスを捉えるものだとする説もある。

 先に黒又山を円錐形と書いたが、正確には三辺の底辺を持つ三角錐形をしている。その三角錐の南西に伸びる尾根を延長していくと万座遺跡のキーストーンに到達する。その尾根の麓には鳥居があり、それを潜ると頂上までの唯一の登山道が尾根筋につけられている。頂上には本宮神社の社があって、これも万座遺跡の中心を向いている。そうしたことを考え合わせると、大湯環状列石と黒又山も天空の星の動きを観測するための巨大な装置だったといえるかもしれない。遺跡天文学的ともいえる考察はここでは深めないが、いずれそれだけをテーマに取り上げて一つにまとめたいと思っている。

 万座遺跡の中に立つと否が応でも黒又山に引きつけられてしまうのは、この二つが意図的に結ばれていること…言い方を変えれば、万座遺跡と黒又山は一対の祭祀場であるからと言えるだろう。太古の人間たちの明確な意志は、現代のぼくたちの意識に訴えかけてくる何かをいまだに秘めているといえる。

 黒又山は1992年に大規模な学術調査が行われ、頂上の本宮神社の地下25m付近までが人工の石積み構造になっていることが確認された。石は階段状に積み重ねられ、その中に古墳の石室のような構造物とストーンサークルがある。精密な超音波探査によってその正確な構造が捉えられている。また、探査の際に採取された石は、黒又山の北東を流れる安久谷川の河原から切りだされたもので、これは大湯環状列石を構成する花崗岩とまったく同じであることも確認された。大湯環状列石のすぐ北には大湯川が流れ、そこでも花崗岩を採取することができるのに、あえてかなり遠い場所になる安久谷川付近を選んだのは、花崗岩の組成にこだわったためだろう。

 黒又山の麓はのどかな畑と住居が点在するごく普通の農村風景が広がる。北東北の農村は一件あたりの単位耕作面積が広く、また牧畜農家も多いので広くゆったりした風景が多いが、この周辺もその北東北の典型的な農村風景だ。その中に、ピラミッド型の黒々した山が鎮座している様子はとても奇妙に感じられる。

 さらに入り口にある鳥居を潜って、一歩登山道に足を踏み入れると、奇妙な感じがさらに濃くなる。鳥居の外側の長閑で開放的な田園の雰囲気とは対照的に、空気がよどみ、何かが重くのしかかって動作を鈍くするような感覚と、白日夢の中にいるような実在感のなさが同時に襲いかかってくる。鳥の声は消え、生き物の気配も感じられず、異次元の世界に足を踏み入れたような感覚……一言で表現すれば、「冥界へ降りていく」ような感覚。

 じつはこれとまったく同じ感覚に包まれる場所をいくつか挙げることができる。

 茨城県北部にある堅割山山頂遺跡群、長野県白馬の城山遺跡、徳島県忌部の白人神社遺構、岐阜県揖斐にある古い祭祀遺跡である朝鳥明神など。これらの場所はいずれも黒又山と同じように、花崗岩を並べたり積み上げたりした構造の遺構だ。さらにこれらの場所には、鬱蒼とした森に包まれていることや、森の木々が遺構のそばになればなるほど螺旋状に捻れたりありえない方向に曲がっていくこと、空間全体が歪んでいるように感じ、中心に近づけば近づくほど冥界へ降りてゆくような恐怖にとりつかれるといった共通点がある。

 何故、同じ花崗岩に囲まれながら、一方では心地良く感じ、一方では気分が不安定になりそこから離れたいという気持ちになるのだろう。

 その答えは、花崗岩が持つ特質にあるのかもしれない。

 花崗岩に多く含まれる水晶(石英)は「圧電効果」と呼ばれる特殊な性質を持っている。圧電効果とは、外部から圧力がかかった際に電圧を生じるもので、さらに電圧が加わると特定の周波数を発信する現象で、身近なところではクォーツ時計に利用されている。クォーツ(水晶)時計は、水晶の薄片を発振子として、これに電圧をかけることで水晶が発する32,768HZの振動を1HZ(1秒間に1回)の針のステップやデジタル表示に変換して、正確な時の表示を行う仕組みになっている。水晶を多く含む花崗岩では、この圧電効果によってごく微弱な電圧と振動が生まれる。また、花崗岩の中にはラドンを多く含むものがあって、これらは強い自然放射線を発することも知られている。

 風による揺らぎや太陽光線による膨張は、一枚岩の花崗岩に圧電作用を起こす物理効果として十分な強度を持っているだろう。それによって水晶が発する一定の振動は、ときには耳には聞こえないが身体を通して優しい囁きとして感知されるかもしれない。逆に、圧電効果によって生まれる電気が周囲の磁場を撹乱したり、ラドンの発する放射線が、人間に不快な感じを誘発したり樹木の成長を歪めているのかもしれない。

 こうした花崗岩が持つ特質を太古の人間たちが理解し、積極的に利用していたとしたら、どうして気持ちよく感じる場所ばかりでなく、反対に黒又山などのように人を不安な気持ちにさせたり、冥界に降りていくような感覚を持つ場所をも聖地としたのだろうか。

 それを考えるにはまず今の自分たちの善悪の価値観について見なおしてみる必要がある。

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二項対立の宗教が圧殺したもの

 キリスト教に代表される現代の世界宗教の原理は、善である神=キリストと悪であるデーモンという二項対立から成っている。ときとしてデーモンは他の宗教や文明世界にすりかえられる。

 ローマ帝国によってキリスト教が国教化され、そのローマがヨーロッパ全域を支配する過程で、辺境の民族たちの土着信仰の神々は、善悪二項対立の悪の側に位置づけられ、地獄という地下世界に押し込められていった。

 二項対立の一神教が世界を席巻する以前の古い信仰は、「アニミズム」として人間が感覚的に自然の営みの中から紡ぎ出してきたものであり、アルカイックな時代からの長い歴史を持っている。それは、人間精神の根源的な部分に繋がっているものだから、後づけの一神教の神がすべて抑えきれるものではない。

 キリスト教世界ではハロウィンやクリスマスのように、キリスト教原理からは本来受け入れられないはずの風習が見られるが、これは、いったん地下世界に押し込めたはずの古い信仰が噴出してきていることの現れといえる。ハロウィンは本来がケルトの祭りだし、クリスマスは冬至に死ぬ太陽の再生を願う典型的な太陽信仰の冬至祭りだ。ほかにも、古代の地母神を祀る黒マリア信仰や、古代ローマのルベルカリア祭がセント・バレンタインデーに姿を変えたり、古代ローマのヒラリア祭(カーニバル)が受胎告知の祝日になるなど、キリスト教社会の中に古い信仰の残滓が残っている。

 キリスト教内部からも積極的に古代の信仰に目を向ける運動が時々現れてきた。たとえば、中世のカタリ派のようにグノーシス主義(物質主義に否定的で霊性に重きを置く)に傾倒したり、テンプル騎士団のようにイスラム神秘主義と接近し、その教義を取り込んで、「古い神」への復帰を計ったような例もある。そして、カタリ派もテンプル騎士団も古い信仰を自ら復活させたため、異端として凄惨な粛清を受けることになった。

 仏教や神道などの東洋思想は単純な二項対立ではなく陰と陽が混ざり合った世界観を持っているが、西洋文明化されたアジア世界では、自分たちが本来持っていたそうした世界観は旧習として追いやられてしまっている。そして、現代は、金融資本主義が「神」の座に居すわっている。

 黒又山などの「冥界に降りていく」感覚を抱かせる遺跡は、二項対立の世界観を持つ宗教では悪魔として排除された古い土着の神への信仰を体現しているともいえる。そして、暗くおどろおどろしいものという先入観が我々に植えつけられているために、そこを不気味に感じてしまうのかもしれない。

 キリスト教が古い信仰の息の根を止めたかったのは、古い信仰が冥界へと人間を導き、人間の根源的な意識が自然=宇宙と繋がっているということを自覚させてしまうからだ。人それぞれがアプリオリに神と繋がっていることを自覚してしまえば、作り物の「神」などは信仰しない。唯一神を信じず、みんながみんな自分の中に神を持っていることを感じて満足してしまえば、作り物の「神」の代理人である教会は必要とされなくなってしまう。

 キリスト教もそのルーツのユダヤ教も、同じアブラハムの兄弟であるイスラム教も、本来は、祈りによって個人が神とダイレクトに結びつき、精神的に満たされることを善として説いた。その意味では古代の自然信仰となんら変わるところはない。その神と人間との間に教会が介入してきたために、人と神は分離され、教会という世俗権力を通じてしかコンタクトできないとされてしまった。死後の魂が天国に迎え入れられ、そこで永遠の至福を約束されるためには、「神の意志」を代弁する教会に従わなければならない。そう民衆に摺り込むことによって、教会は民衆の依存を生み出し、収奪機関として富を蓄積していく。そして、そのシステムを効率良く運営するためには、邪魔となる古い信仰を抹殺しなければならなかった。

 「富」が「神」に変わった現代では、人間が自らの本質などを考えず、絶えず消費する機械として動いていることが望ましい。その意味で、やはり物質的なものではなく精神的なものに価値を置き、自己へと沈潜していく古い信仰は邪魔者である。知らず知らずのうちにコンシューマーマシンとして洗脳されてしまった我々は、深く考えることを止め、自分の内面深くに導いてくれるものを、不気味であり歪んだものであると自分から排斥するような精神構造を植えつけられているのだ。

深層意識に降りていく装置

 黒又山を含め、名前を挙げた遺跡は、いずれも中世から近代にかけて修験の道場とされていた形跡がある。修験道では自然そのものを修行の場とするが、黒又山のような場所では、修験者が一人隔絶されて瞑想し、自身の心の内へ深く沈潜していく修行が行われた。言い伝えでは、このような場所での修行中に発狂してしまった修験者も数多いという。

 この歪んだように感じる空間に身を置き、恐怖や不安を克服し、冥界の底へと降りていった修験者は、その底で根源的なるものとの繋がりをはっきり感じて、再び戻ってくる。無事この世に戻った修験者の精神は大きな変容を遂げている。このことで超常的な力を獲得し「仙人」の域に到達した者もあったかもしれない。修験者たちは縄文時代の人間が残した精神世界へ深く沈潜していくシステムを受け継ぎ、縄文人の精神生活を追体験しているのだといえる。

 縄文時代の精神生活を象徴する土偶や火焔土器などは、現代の我々からすると異様で、不気味な造形として映る。前章で触れたように、ぼくは石徹白の大杉と対面した時に、火焔土器が単に炎を写実したのではなく、大地の力がメラメラと湧き上がる様を表現したものだと直感したが、それは自分が修験者としての感覚から得たインスピレーションだった。既成の美醜の感覚を捨てて、それが表しているものは何かと、自分の内側の感覚に問えば、縄文人がその造形に託したものが見えてくるはずだ。

 福井県の若狭町に、文化人類学者の梅原猛が総合プロデュースした「縄文博物館」がある。ここは、地上部分は古墳のように盛土され、地下の展示スペースへ降りていく形になっている。照明を落とした冷たいコンクリートのトンネルを下って行くと、風の音とも地響きとも知れぬくぐもった音が漂い出し、正面のスポットライトに光が入って、そこに土偶が浮かび上がる。まさに冥界に降りていくように演出されている。さらに、スパイラル状に下降していく通路を進んで行くと、巨木が立ち並ぶ縄文の森に出くわし、さらに独特の文様を描く代表的な土器が仏像のように展示された部屋となる。

 この冥界に降りていくような仕掛けは、縄文時代についての予備知識がなくても、縄文人の精神生活の一端を感じさせてくれる。

 人間の深層心理の追求といえば、近現代ではユングがその筆頭だが、ユングがその深層心理の探求の過程で出会った世界を自筆の絵画とカリグラフィで表現した大著「赤の書」が近年出版された。この「赤の書」を紐解くと、目眩のするようなイメージがこれでもかこれでもかと現れる。あるページでは、大地の底に潜む極彩色のドラゴンが地上に向けて火を吐き、別なページでは真っ青な海と天が繋がった境目のない風景の中に、後に英雄となる小さな男がちっぽけな舟で漕ぎ出していく。いずれもそれを見る者に言い知れない根源的な共感を呼び覚ますイメージで埋め尽くされている。それは、いまだにアルカイックな意識と世界観を保持するネイティヴアメリカンやアボリジナル、アイヌなどの民族の神話世界とも奇妙に合致している。

 大湯環状列石と黒又山から、キリスト教世界観やユング、マイノリティたちの神話と、ずいぶん話が飛躍してしまったように感じられるかも知れないが、これは、人の意識、祈りの本質といった部分で一続きになっている。

 日本の縄文人や同時代の「石の文明」を開花させた太古の人間たちは、花崗岩という素材をうまく使い、これで人間の精神を高揚させたり、深層意識へと降下していくシステムを作り出していた。それらはいつしか忘れ去られ、陰陽の混じり合った土着神の世界が生まれた。そして、太古のイメージの断片が後々まで神話や伝説として伝えられた。

 キリスト教に代表される二項対立の世界観によって支配されるようになると、深層意識へと向かう太古の信仰は敵とみなされ、抹殺されていく。

 ところが、人間の精神の根源に根付く深層意識を根絶やしにすることは不可能で、それはキリスト教社会の中にも噴出し、さらにはユングなどによって、再び光が当てられるようになる。

 さて、最後に、大湯環状列石と黒又山の話に戻ろう。

 至近にあるこの二つの遺跡を見るとき、ぼくはごく自然に、これが「神社」であると連想する。明るく和やかな雰囲気が溢れる和御魂を祀る本殿と、逆に暗く沈んだような雰囲気の荒御魂を祀った奥宮。神社は本殿と奥宮で一対であり、それは陰と陽が渾然一体となった世界観を表している。

 大湯環状列石と黒又山を一対としてみれば、その雰囲気の違いはまさに神社の本殿と奥宮の構造に合致する。神道もそのルーツは自然信仰=アニミズムに辿り着く。アルカイックな我々の祖先たちは、人智を越えた自然の営みに畏怖し、自分たちをその一部とみなして、調和していく道を探した。

 目に見える世界を観察するだけではなく、目に見えない荒御魂の意志に接近するために、今の我々から見るとネガティヴな構造を持った黒又山のようなシステムを創りだした。そして、ユングや修験者たちが行ったように、自身の内面に深く下降していくことで、ついには「個」を突き抜けて、むき出しの自然の意志に通じたのかもしれない。


■参考■

●大湯環状列石
 大湯環状列石は、本文中に紹介した黒又山との関係以外にも、周囲のランドマークであるいくつかの山頂との間に、太古の暦であることを裏付ける位置関係が確認されている。また、広く三内丸山や十和田湖、さらに竹内文書の記述をもとに酒井勝軍が古代ピラミッドと比定した大石上ピラミッドなどとの位置関係も面白い。そのあたりは、拙著『レイラインハンター』(アールズ出版)に詳述したので参考にされたい。
 北海道南部から北東北にかけて発見されている環状列石(ストーンサークル)を中心として、三内丸山遺跡なども含めて、ユネスコの世界遺産登録を目指す運動が進められている。
・交通
 JR花輪線鹿角花輪駅からバス25分、環状列石前下車

●若狭三方縄文博物館
 若狭神宮寺の「お水送り」儀式への参加や、「若狭不老不死伝説ツアー」などで若狭を訪れたときは必ず立ち寄るところ。常設展示は変わらないが、古墳の内部にいるような不思議に落ち着いた気分に浸れ、何時間も過ごしたくなる。
 縄文時代前期に当たる6000年前から晩期に当たる3000年前までにかけて集落が営まれていた鳥浜遺跡が至近にあり、それを記念して設置された。梅原猛氏の音と光の演出はどこか秘儀的な雰囲気があって、それだけで縄文の土器や土偶の意匠に込められた意味を受け取れる気分になれる。
・交通
 JR小浜線三方駅からバスまたはタクシー

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