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チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.0


この地上には初めは何も存在しなかった

国造りの神は
天の中心に立っていたチキサニ(ハルニレ)から鍬を作り
それを持って地上へやってきた

その鋤を使い
国造りの神は
森や川や山や海や動物を作った

そして
天上に帰るときに
その鍬を忘れていった

それが根を下ろし
立派なチキサニになった

ある日
そこへ疱瘡の神が通りかかる
彼は
ひと目でチキサニを見初めた

そして
チキサニと疱瘡の神との間に
アイヌの祖先のアイヌラックルが生まれた

(アイヌ創生神話)

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あれから20年が経った。
この20年、ずっと考えてきた。

現実とはいったいなんだろうと。
今、ここにあるものは、はたして現実なのだろうかと。

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 暗いラボの片隅に、軽自動車ほどの卵型カプセルが据えられている。

 のっぺりしたシェルにつけられたノブを引くと、乾いた音とともにハッチが開いた。

 一瞬のタイムラグの後、装置内の照明が点灯する。
(よし、電気は生きている)

 カプセルの中には、いかにも座り心地が良さそうなリクライニングチェアが設置されている。そのヘッドレストにはジェット戦闘機のパイロットが被るようなバイザー付きのヘルメットが掛けられており、椅子の周りに据えられた様々なデバイスから伸びたケーブルが、一つに束ねられてその後頭部に結線されている。

 ぼくは、装置に潜り込み、ハッチを閉めた。

 シュッという独特の音とともに気密ロックがかかる。内部に人間がいることを感知するセンサーが働いているらしく、ライトは点灯したままだ。

 椅子に腰を降ろす。

 体が深々と埋まり、仰向けにリラックスした姿勢でオートロッキングした。それは、今までに経験したことがないようなすわり心地の椅子で、まるで、親鳥にやさしく抱かれる卵にでもなったような安心感に包まれた。

 ヘッドレストに手を伸ばし、ヘルメットを外して頭に被った。カーボンファイバーかなにか、とても軽い素材でできていて、後頭部のやや上で結線されているケーブルに吊り下げられるような形になっているせいもあり、ほとんど装着している感じがない。椅子にしろ、ヘルメットにしろ、プレイヤーがなるべく自然にリラックスできるように、考え抜かれている。

 ディスクドライブは右の肘掛けにビルトインされていた。

 胸ポケットからNo4のディスクを取り出し、そのスロットに差しこむ。

 容量20TBの多層DVDは、独特の摺動音をあげて回転し始めた。

 すぐに、まわりのデバイスが呼応して作動しはじめ、高周波ノイズがカプセルの中の空気を微かに震動させる。心なしか、内部の気温が上がり始めたように感じた。

 ほどなくすると、ヘルメットのバイザーが自動的に下がり、それと連動して装置内部の照明が消えた。思わず唾を飲み込むと、その音が洞窟の中で石を投げたように頭の中で大きく響いた。

 眼前は漆黒の闇、まさに夜の洞窟だ。

「シナプス反射を解析します。赤い点を見つめてください」

 無機質な合成音が耳に響くと同時に、真っ黒な視界の真中に、赤いレーザードットが浮かびあがった。

 視界の中にはそれしかないので、意識しなくても凝視する。すると、その赤いドットは、脳の深層まで触手を伸ばして探査する生物ででもあるかのように、大きくなり、小さくなり(それが感覚としては、遠ざかったり、近づいたりしているように見える)、蛍のように光を増したり暗くなったりする。催眠術に掛かりかけたように、意識が怪しくなっていく。

 そのまま、深い眠りに落ちてしまうように思われたとき、唐突に、光がしぼんで、漆黒の闇が戻った。

 そして、再び乾いた合成音。
「シナプス反射解析完了……プログラムを作動します」

 言葉が途切れると、一瞬、奇妙な静寂に包まれた。

 なぜか、デバイスの高周波ハウリングも止んで、真空の中に放り出されたように思えた。

 自分の心臓の高鳴りだけが、異様に大きく響く。

 と、突然、地震の前触れのような鈍い振動に包まれた。

「今ならまだ後戻りできる……」
 どこからか声がした……ように思えた。

 一瞬、肘掛に仕込まれたエスケープキーを押して、シークエンスを終了させようかという気になりかけた。だが、ぼくの胸の中にある大きな期待は、それをさせなかった。どんなリスクがあるかはわかっている。それが、すべての「終わり」を意味するかもしれないことも。でも、それに引き換えても、続きを知りたいという気持ちが勝っていた。

 ぼくは、自分の心臓の高鳴りだけを聞きながら、闇を見つめ続けた。

 突然、視野に光が満ちた。

 そして、乱れたテレビ画面のようなホワイトノイズ……そこから立ち上がってくる極彩色のフラクタル……渦と渦が重なり合う、目のくらむようなカオス……そして……急激な相転移……はじめはゆっくりと、それが徐々にスピードを増していく。そして、しまいにはそれを目では追えないほど加速していった。

 激しい目眩とともに、吐き気を覚える。だが、その瞬間、すべては止まり、はじめのホワイトノイズに戻る。すると、うそのように目眩も吐き気も消え失せている。

「相転移から自己組織化の過程で、バーチャルとシナプスが融合されるんだよ。そこまではすごく不快かもしれない。だけど、自己組織化が完了すれば、うそみたいに気持ちよくなる」
 そんな言葉が、自分の内の中から聞こえた。しかし、それは自分の声でもなく、自分の意識から発せられた言葉でもなかった。

 今度は、ホワイトノイズが、その中心に向かって急速に収斂していく。その中に、自分の意識も吸引されていく。収斂は果てしなく無へと向かっていく。

 また目眩に襲われそうになり、目を閉じる。

 しかし、吸引されている感覚はますます強くなり、まるで自らの内の中心にある無へ向かって爆縮されていくようだ。焼け付くような熱さと意識そのもののが圧縮されていくのを感じる。

 そして、不意にあらゆる力が開放された。

 目を開くと、ぼくは深い霧に包まれていた。

 ふいに、遠くから風の音が迫ってきた。その風が届くのを身体で感じた瞬間、深い霧が晴れた。

 そこは……あの懐かしい森だった。太古から人の手に触れずにきた針葉樹の森だ。ぼくは、原始の森にたった一人佇んでいる。

 針葉樹の巨木の下は、クマザサが埋め尽くしている。その葉をリズミカルに鳴らしながら、風が吹き渡ってくる。その風はしっとりして、火照ったぼくの肌から優しく熱を奪って吹きすぎていく。

「こっち……」
 風に乗って声が運ばれてきたような気がした。

「……?」
 耳を澄ます。

「こっちよ」
 今度ははっきりと聞こえた。

 声のほうに顔を向けるが、鬱蒼とした下生えに遮られて、視界が利かない。

「こっちよ、いらっしゃい」

 クマザサをかき分けて、声のした方向に踏み出す。

 こういった藪は、普通なら歩きにくいはずだが、意外なほど柔らかいクマザサの茎は、ぼくがかき分けると、おとなしく道を開く。その下生えに絡みついた露が、ぼくの体に吸い込まれ、それに洗われるように、意識が透明になっていく。

 先へ進むほど、森が濃くなっていく。ぼくは、深海にダイビングしていくように、森の深みに落ちていく。

 そして、いつのまにか森の底にたどり着いた。

 そこは、すり鉢の底のような場所で、針葉樹の巨木が何者をも拒むかのように、縁をかためている。底は、下生えもなく、搗いて固めたような黒土が剥き出しになっている。その中心に、天上から一筋の光が射しこんでいる。

「こっちよ」
 その光の中に、微かな人影が浮かび上がった。

「ずっとあなたを待っていたのよ」
 そう言うと、彼女は手を差しだした。

 ぼくは、彼女に吸い寄せられ、光の中から差し出された細くしなやかな手を握った。

 彼女の手に触れた瞬間、すべての細胞が打ち震えた。そして、心地よい坩堝で体も心も煮溶かされるように、すべてが分解し、昇華していった。

 ぼくは、彼女とともに光となり、森の魂となった。そして、光の筋を辿って飛翔していった。

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