見出し画像

痛みを伴う回顧③

↓前の記事。

そんなわけで抗がん剤治療、BEP療法に係る入院生活の続きとなる。
前の記事でも簡易的に触れているけども、思い出した順に羅列してみようかな。

体調は抗がん剤を入れる量によってわかりやすく変動した。最初こそ平気だったけど後半になるにつれてその影響が大きくなった。
風呂は基本的に入れなかった気がする。ずっと点滴が入ったままで、おしぼりで身体を拭いて終わりだった。背中など届かないので看護師さんに拭いてもらうこともあったが、これがなんとも恥ずかしいというか情けないというか。
まぁ風邪引いたときには坐薬入れてもらうこともあったのでそっちのが恥ずかしいんだけど。
あれ?でもたまに風呂も入れたのかな?あんま覚えてないな。

クールの境目には点滴が外れることがあってものすごい解放感であった。
もちろん風呂にも入れるし、両手を動かしたいように動かせるだけですごく身軽になった気がした。出歩く時にあの点滴の棒をガラガラと引っ張って歩かなくてもよい。点滴で常に水分を入れているととにかく頻尿になるけど、それがないのも快適だった。

確か週3回程度、朝に採血があった。色々な値を見ているんだろう。
でもすごい嫌だった。前の記事でも書いたけど注射は苦手。しかも朝イチに看護師さんが現れるから緊張して早起きしてしまっていた。
抗がん剤治療では自前の免疫力が下がるから、その値などを見て急遽個室に移動することもあった。個室は快適。大部屋はクソ。なにより、お見舞いとかに来てもらえたときになんとなく周りに気を使わないといけないのも嫌だった。

なので「ずっと個室にいたいなぁー」などと思うこともあるんだけど、当然免疫が下がってるのでわけわからないタイミングで風邪を引いたりする。
一回ちょっと免疫が低いときに友達が見舞いに来てくれて、その日の夜に発熱したことがあった。友達が悪いとかじゃなくてシンプルに「自分今ザッコ」って思ったのを覚えてる。

友達や知人、親戚など、久々に会う人も多くお見舞いに来てくれた。これは真面目に長期入院のメリットだなと感じた。
変なところがマメなので手帳に来てくれた人のことをみんなメモっていた。こいつらのことは残りの人生でも大事にしたいなって思ってた。(数人は今や絶縁状態になってるけど。クソワロタ)

これは自己評価ではなくて、マジでわがまま言わない穏やかな患者さんだったらしい。看護師さんにすごい言われた。
結構みんな簡単にナースコールしてくるし、わけわかんないわがまま言われたりとかするらしいんだけど、自分マジでそういうことしなかった。
「抗がん剤しんどいです」ってナースコールして来てもらっても別にしてもらえることないと思ってしまう。仕方ないじゃん。ちょっと風邪ひきました言うても、定期的に看護師さん来てくれるからそんとき伝えればいいじゃん。なんか自分あんまり普段から病院行かないのと同じ感覚で、病院への頼り方よくわかってないんだろう。
そんなわけで看護師さんみんなすごい優しかったし、よく雑談なんかもしてもらえた。それだけで結構助かった。いやほんと優しい子が多かったなあ。(大学病院なので若い人が多かった)

ぶっちゃけほんの少しだけタバコ吸ってた。
あまりにも暇で。日に1本とかだからヤニクラがすごかった。今思うと抗がん剤入れながらタバコ吸ってるのマジで頭おかしい。

そんな感じでなんやかんやとあったんだけど、概ねは暇。気持ち悪いか暇かどっちか。その頃はまだギリギリガラケーを使ってた気がするんだけど、暇つぶしにずっと2chのまとめサイトばっかり見てた。ホントやることない。パソコンはあるけど回線はなかったし。何か集中するほど脳が動いてはなかったから勉強とか作業とかはできなかったんだよね。集中してると気持ち悪くなってしまう。

途中からハゲたわけだけど、今思うともう少し写真撮っておけばよかった。当時なんやかんや言いながらもやっぱりショックはショックでそんな気持ちにはならなかったけど、今になるとあの頃の姿って記録として残しておいてもよかったなって。最初に家族とか彼女に見てもらうのはすごい緊張したな。なんか申し訳ないやら恥ずかしいやらそんな気持ち。抗がん剤後しばらくしてから生え揃ったけど、初回分はなんか髪質が変わっててびっくりした。もともと超直毛なのにウネウネしてて柔らかかった。新鮮だったけど今や元通りです。

我が家は父側の祖父母と絶縁状態にあるんだけど、どう伝わったのか婆さまが見舞いにきた。何を話したのかもどう思ったのかも覚えていない。(なんなら一度外泊許可が降りて実家に帰ったときも婆さまがいた気がする。)
親と祖父母の問題なので自分はあまりそのへんのイザコザに噛んでいないんだけど長い間絶縁関係にあると、自分の関心からも薄れていくんだなと思う。マジで会話ひとつも思い出せない。見舞いに来たことだけが衝撃的で覚えてる。
家にみんながいるときのなんとも言えない空気感。はよ帰れやとさえ思った。なんでせっかくの外泊でちょっと気疲れせんといかんねん。退院してから挨拶くらい行くわ。(実際に行ったかは覚えてない。)

その日だったかわからないけど、ただの外泊だったのに親はとても喜んでくれていた。
病院に戻らないといけない日。食卓も賑やかだったと思う。上等な肉まで出てきた気がする。単純に子供として愛されているなと思ったし、その気持ちが嬉しくあった。
お腹いっぱい食べて
病院に戻って吐いた。笑
すごい気持ち悪くなってトイレに行ったら急激な吐き気に襲われて全部吐いた。変な罪悪感があった。
よくよく考えればずっと寝たきりでカロリーの低い病院食を食べているのに、いきなり高カロリー高脂質なものをたらふく食べればそりゃお腹も耐えられないよなと。

将来への不安とかはあまり考えてなかった。むしろ考えても仕方ないというか今は直近の病気を治すことが最優先事項であって、未来の話はまた別途といった具合だった。だからのほほんと過ごしていた部分もある。
社会人になってから新卒で入った会社をすぐ辞めて二社目は病気で半年で辞めた。自重気味に「人生おわてるじゃん」とか思ってたし言ってた。笑い話にはしていたけど多分思ったより気にしていたしその後の強い劣等感にも繋がっている。これ病気治っても地獄じゃね?って。何ができるのよ。こんな人間に。仕事も上手くいかなきゃ身体的にも弱い。仕舞いには精神的にも少し参ってる。

この病気になる前から「普通の大人」にものすごい妬ましい気持ちや劣等感を抱いていた。
土曜は基本出勤だったのだけど、隣を走っている車では夫婦と子供が複数人乗っていておそらくこれから小さなお出かけにでもいくんだろう。
それをすごいことだと思った。きっと平日は一生懸命仕事をして辛いこともいっぱいあってでも成果も上げていて、プライベートでは奥さんと関係も良好で子宝にも恵まれている。自分がたまに思う理想の、もしくは上手くいっている人生が隣を走っている。
きっとそのとき既に心が破損しかけていたんだろう。そんな車を見て運転をしながら泣いていた。
このままではきっと結婚もできないし子供だって作れない。彼女だっていつまでも付き合ってはくれない。休日は死んだような感情と体調で寝込んでいるだけだ。あんなに幸せそうな笑顔で土曜の朝イチからお出かけしようなんて一生思えることなんてない。
そんな呪いの感情は、しばらく自分を苦しめ続けることになった。

今思えばその頃は「うつ状態」であったと思うんだけど、強制的に環境を剥がされて思考力も奪われたことはその点だけを見れば数少ない良い点だったと思う。あのまま働けてても別の病気になってた気がする。マジで。

ただ生きるためだけの約3ヶ月を終えて退院することとなった。
何故か今でも退院した日の服装は覚えてる。
HurleyのTシャツと真っ白なエアジョーダン1。少しチャラついたジーンズ。退院の日に親に持ってきてもらった。
長くいた病院から帰る際、当然ながらの開放感と、なんだか向き合うべき現実がたくさん視野に入ってくる不安感が入り混じったスッキリとしない感情であった。

BEP療法としては投与すべき量を投与した。
これで体内に残存している癌細胞?癌成分?が弱く小さくなって、あとはしばらく時間を置いてから再度手術でそれらも取り除く。
そんな予定だった。

治療のメイン工程は終わったのだろうけどまだ完了していない。
2012年の夏頃だと思われる。
次の入院手術は冬頃だった。
それまでは就活するわけにも行かないし暇すぎるのも嫌なので色々と細かい活動をしていくことになる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?