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焼物探訪記〜唐津、小石原、小鹿田、別府竹細工、工藝風向〜

焼物を見まくろうと九州各地へ出向いた所感、第二弾。
今回の焼物生産地巡りは大枠を把握するための旅でもあり、好きな窯元を見つける!みたいな玄人ではまだ無く、とにかく大枠の各焼物の特性を知るための旅であり、さながら好きな音楽のジャンルを見つけるため、その後にそのジャンルのレーベルやバンドを探すという順序、準備のためである。
自分はどういうものが好きで、愛おしく感じ、痺れるのかという手前の美意識を改めて見つめ直す旅であった。
大体自身がどういった物が好きで、痺れるのかという事は既に解っているつもりであるが、経済的余裕を伴った上で実際に手に入れ(別に高い物を買っているわけではない。)手元に置くというのは長らく味わう事が無かった行為である。
焼物や工藝、骨董など、目利きの力量や知識量は上を見ても、下を見てもキリがない。しかし、人生の残り時間がまだ長い僕にとっては充分に楽しめ、また刺激を得られる数少ない事象の一つなのだ。
そして、それらの工藝や陶器に関して思うのは、物質だけでは無く、この時代や社会を突破する、カウンターを打ち込む可能性を有したものであると感じている。

【唐津】
織部との関係性や茶道具でも有名な唐津はめちゃくちゃ期待していた。期待していた分、失望も大きかった。有名な意匠やデザインを踏襲しているだけで、そこに何一つ感じるものは少なく、協同販売所故の土産物屋的な感覚なのだろうか。しかし、曲がりなりにもそこが多くの客に対してファーストコンタクトの場所である以上、戦略的な視野や美意識を主軸にして魅せなければいけないだろう。
期待していた分、ただ名作をなぞっただけで、しかもそこに何も感じられない模造品のような羅列にはウンザリであった。
そこを後にして近くにあるセレクトショップのような所をいくつか周ったのだが、やはり店主が選び出しただけあり、魅せる物がいくつかあり購入。
金額も1万円以下で買える器も多く、店主によるフィルタリングの賜物だろう。
視野を広くもった野心的な仕掛け人ないし、羅針盤が必要なのではないだろうか。

【小石原】
北九州から小鹿田へ向かう道中、小石原焼の販売所や窯元が多くあり、計3件立ち寄る。
1年近く前から民藝運動に熱烈なる影響を受け、それは僕にとって利休・織部などの茶の湯文化からの影響をアップデートし、より先鋭、運動としての視座を与えてくれるものであった。
柳らに「用の美の極致」と言わしめた小石原焼であるので、民藝運動に耽溺している僕にとっては響く器が多く、そしてやはり価格が安い。たまたま同地各所で行われているセールも相まって、買い漁ってしまった。普段使い、日常遣いに最適な価格帯が多く、柳ら民藝運動との接点で意匠なども更新されているからだろうか、完全に民藝に被れているからだろうか。
民藝運動から早、半世紀以上、このままその遺産に安住していたら未来はなかろうが、とにかく民藝に興味を持っている奴らは販売所の数の多さや見やすさにおいて訪ねて損はない。

【小鹿田】
今回の九州旅行の主目的地である。
柳宗悦に痺れっぱなしの僕にとっては聖地のような場所。小石原からの道は険しく「ほんまにこんな先に窯場が立ち並んでんのか?!柳らの発見でめちゃくちゃ有名な所なのに、道間違えてんちゃうか!?」と戦々恐々しながら、途中の道が封鎖されていた事もあり、山道(2017年の豪雨の被害だろうか、土砂崩れの跡多数)を走ること数十分、そこには確かに小鹿田の集落が広がっていた。陶芸館は休館日であるというポカをやらかしたが、窯元の販売所に立ち寄り、コミュ障の極みな僕は素面では何一つ声をかけたり出来ない中、旅に同行していた先輩の獅子奮迅、コミュ力により、名高い唐臼まで見せていただいた。
窯元に置かれている器群は同じ意匠やデザインであっても釉薬の流れ方や背丈が微妙に違っていたり、これが窯元の販売所で見るという事か!という審美眼を鍛えるためには絶好の機会であり、何度も見比べながら少しの差によって手前にとってはどれがベストなのかと迫り続けるその時間は正に待ち望んでいた至福の時間であった。
柳らの批判として聞いた事がある「あいつらは良い物"だけ"を全て持っていってしまう」というエピソードがあるが、そう嘆かせる目利き、美を見出した柳らの感性にこそ憧れてしまう。
少し欠損がある器をサービスでいただいたりして、愉悦な時間であった。

【別府竹細工】
小鹿田を後にして別府に逗留した翌日、竹細工伝統産業会館という施設があり、訪ねた。
陶器や磁器ばかり観て廻っているが、目下漆器や竹細工にも興味は募っていたので、良い機会である。
名工の作品の展示を見ていると、竹細工によって生み出される柄や模様にモダニズム、構成主義、モンドリアンやダダ的デザインまで見出してしまえるほど美しい物が多く、それが現代作家になると途端に"現代っぽく"しようという迎合、厭らしさが強まって辟易とする。
如何にデザイン、ディレクションが大事ということを痛感させられる。
しかし、何と竹細工は美しい事だろう。西洋的秀逸なデザインも愛してやまない僕にとってはドンピシャの品が多かった。ショップで品物を購入する段になり、竹の工芸品をどういった場面で使うかと考えると、如何に自分はプラスチック製品などで日常を生きており、竹製品の日用雑貨になると途端に用途が思い浮かばず現代的都市生活者でしかない己を痛感せずにはいられなかった。
茶道具としての用途は想像できても、日常遣いとなると途端にプラスチック笊やタッパー、エコバッグのようなものが過ぎってしまい、全く一から学び直しが必要である。
一目惚れした竹籠や、大根おろし、箸など用途が想像出来た品々を購入。

【工藝風向】
4月下旬に主催した集まるのが大事という勉強会の講師として、弊店のオーナーである高木さんを御招きした縁もあり、福岡へ行った際は必ず訪れようと思っていたお店。
店内の空間、選び抜かれた品々、手に取りやすい価格、当たり前ながら足を運んだ販売所や窯元、現地のショップとは全く違う展示方法で、扱う物への愛がヒシヒシと伝わってきた。
高木さんの著作「わかりすい民藝」を読み、よりムーブメントとしての民藝への理解を深めるきっかけになり、また大いなる刺激を与えていただいた面白き方の店が面白くないわけがない。
高木さんは御不在だったが、スタッフの方に色々説明をしていただきながら、良き品々を購入させていただいた。福岡市内を訪れて美醜に興味のある奴らは訪れて損はない。
己の好みだけでなく、面白き人の好みを知る事もまた研鑽のための重要な行為である。
必ず再訪しよう。


という事で、今僕は帰阪してこの文章を書いている。明日になると購入した品々が自宅へ届く手筈である。
自分が良いと思ったものに囲まれるというのは少し気恥ずかしくもある。己の好みや趣向、美意識があからさまに解られる事ほど小っ恥ずかしい事はない。
そういうジャンクでファストな見立てをされる事は、消費される事でもある。
安易な消費も悦楽も何も生み出しはしないだろう。
とにかく今は自身の美意識により向き合いたかったのだ。どうせ人に話す段になれば抽象的になり、陳腐になる。誰かに解られたい、承認されたい訳ではない。
何かぼんやりと「嗚呼、この人はなるほど。こういう美を信じ殉じていくのか」と或る日軽く知られる程度がちょうどいい。
ここ最近、"良い塩梅"、"バランス"という言葉をよく使う。極端に振れているように見えるかもしれない言動や行動の狙う先は、そういう感覚と雰囲気なのだ。
極端に振れようと七転八倒した上での、良い塩梅と絶妙なバランスは決してオポチュニスト的、自意識過剰的な病魔とは違っていると今のところは信じている。

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