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「手入れ/Repair」展の覚書

最近、GROUPによって改修された新宿ホワイトハウスで彼らの個展「手入れ/Repair」展をみてきた。

新宿ホワイトハウス、実は筆者は思い入れのある場所だ。まだ建築のけの字も知らなかった大学時代、教授の書籍の執筆を手伝った際、そのレセプションが新宿ホワイトハウスで開かれ、内部を案内して頂いたのでした(当時はカフェアリエという喫茶でした)。新大久保駅を降りて、コマーシャルなピカピカした街路や歓楽街、密集した住宅街、怪しい飲み屋、料理店など、まさにJunkにふさわしい経路を歩いた、純粋な若者(当時の筆者)の感度高い経験は、今も記憶に焼き付いている。

その後上京して、東京の設計事務所、いわゆるアトリエに就職してから、プロジェクトの忙しさを忘れられる場所で、たまに訪れては仲間とよく建築の議論をしたり恋の悩み、将来への不安などなど話題が尽きなかった。そんな若き建築モラトリアム時代(とはいっても3年前くらいの話なのですが)の拠り所だったのだ。

磯崎さんがここで過ごした20代はどんな時代だったのか、考えれば勇気をもらったものでした。常に追われていたことから離れて、新しいことを考えたり実践することは楽しい!という原体験を忘れずに、アクティブに居させてくれる場所だった。

「建築家の個展(建築展)」といえば、嗜好を凝らした展示台に、丁寧に載せられた模型やドローイング、周辺資料によって構成され、鑑賞者を引き込んでいく会場ではないだろうか。しかし、本展は全くその期待を裏切る。

展示室?に入る前に、鑑賞者はまずラフに打ち付けられたイントロダクションと工程表、戯曲集を読み、本展は「工程中の現場でのパフォーマティブな状況」自体だと理解する。

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エントランスから展示空間内部をみる

GROUPによるこの建築への手入れは、「改修」的な庭の設えに続き、個展としての「手入れ」が地続きに進む。それは、彼らの工程表が象徴する「工程中」の状態であり、さらに三野新氏による戯曲によって、時に上演される舞台となる、ということだった。

具体的には、床廻りの手入れを施しているのだが、樹木の根っこが基礎に入り込んだり、地窓の建て付けが悪く、床との取り合いで手が付けられない箇所があったりと建築へのレジリエンスを鑑賞者は体験することが面白い。土台や根太の防腐塗装をし、現状を補強することにも抜かりないが、無造作に置かれたラベリングされた板、仮設的な足場をめぐる会場の構成や工程中の雰囲気が鑑賞者の眺める行為をアフォードする設えが丁寧に為されている。

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2階の踊り場。無造作に置かれたカタログのサンプル

最近、展覧会の会場を構成することや建築設計という立場と地続きに制作することについてテキストを書いた。その時に考えていた、手法化しない空間の観察や介入(言語化すると小難しいですが、、)にとても近い制作的なプラクティスであり、この「手入れ」は建築展なんだと。展示を観た時に、これがどう建築になるんだろう、とずっと考えていた。

テキスト化していた当時、古本市でふと手にとった濱口竜介著の「カメラの前で演じること」を読む機会があった。「ドライブマイカー」(とても良き映画だった、、)を観た直後だったので、より興味が湧いて、あっという間に読んでしまったのだが、本書は「ハッピーアワー」の演技WSについての解説や台本の原稿が記されている。演じる役への尊重やリアルさをより深く理解する意図で、主たる映画のシナリオのテキストとは別に「サブテキスト」を導入していた。

本展の手入れすると演じるは建築としてみれば、このシナリオとサブテキストの関係に似ているのではないかな、と後に改めて考えていた(建物への観察と介入のように)。それは、手入れの工程のなかに差し込まれたサブテキスト(例えば、ギターを弾くとか、あるテキストを音読するなど)によって、空間へより介入するためのフックになるのではないか、と。

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エントランスのブロック塀に置かれた手入れの道具たち

建築家が展示というものをどう捉えるべきなのか、を投げかける非常に有意義な鑑賞体験でした。今日(25日)で最終日になるはずだから、彼らの肉体はサイヤ人のように強固に洗練されているのだろうか。お疲れ様でした。

こうやって感想を書くのは、習慣にしないとなと自戒を込めて次回もゆるりと続けたいです。

(乱筆、乱文、失礼いたしました。加筆などあれば更新する予定です。)

【追記:211226】

「展示とは?」

その後、青木淳研究室による渋谷の一角に在る空きビルの1階での展示をみた。内容は記事がたくさん出ているので割愛するが、その展示が同時期に鑑賞できたことも、良い経験だった。

建築や芸術の運動史を振り返ると、建築の純粋な表現を世に示すせるメディアとして展覧会は作用していた。現代では、様々な表現方法を選択できる中で、建築家によるインディペンデントな展覧会の形式が増えている。それは、建築を表現者としてみる「展示構成」が激減しているし、既存の建築家展(建築展ではなく・・)があまりにもパッケージ化されているからに他ならない。

では、展示も会場も構成してしまおう、というプラクティスが現れていることはとても興味深い。

運動と共に建築が在ることはとても重要なことだ。雑音を排し、自身の表現に集中するそんな時間を過ごしたGROUPのように、今この時の経験を言語化し、表現する術や場所をつくること。そのプラクティスを続けること。

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