京都嘱託殺人事件から考える④~本当の意思とは~


オクラの花が咲き始め、実が成ってきました。
(雑草だらけですが…)
オクラの花、好きなんですよね~。
どんどん取れるオクラの季節。
楽しみです。


今回のテーマは「意思」です。
前回も紹介した船後参議院議員のコメントを再度ご紹介します。
「事件の報道を受けての見解」

この中で
『 全介助で生きるということがどうしても受け入れられず、「死にたい、死にたい」と2年もの間、思っていました。しかし、患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知りました。死に直面して自分の使命を知り、人工呼吸器をつけて生きることを決心したのです。 』
とあります。

「死にたいと本人が言っているんだから本人の意思を尊重することは問題ないのでは」と考える人もいると思いますが私は少し違います。
一つは前回書いた通り、社会的圧力が本人の意思をねじ曲げることが往々にしてあるということ。
もう一つは「死にたい」と思うほど辛い状況は本当に変えられないのだろうか、ということです。

船後議員は全介助となり、自分に価値を見出せなくなったことに苦しまれていたのだと思います。
しかしピアサポートを通じ、全介助でも人の役に立てることを認識できたことで自死願望を乗り越えることができた。

変えられない現実は多くあります。
それでも苦しみの本質が本当に変えられないのか、考えることはとても重要なことだと思います。
自死を考える全ての方の対応に言えることだと思います。

一方でこんな記事を読みました。
『京都ALS患者「安楽死」事件 論点整理と日本にいま必要な議論』

3ページ目の主張が気になったのでをまとめると
『終末期医療など生死に関わる選択について本人の意向を尊重するということが認められている。だとすれば、安楽死を繰り返し望む患者がいた場合、本人の意思は尊重されるべきだ。

 もちろん難病患者や障がい者への支援策充実化は重要であり、その結果「死にたい」希望が無くなるのは好ましい。しかし、本人に判断能力があり、回復の見込みがなく、他によりましな選択肢がない場合「死にたい」という本人の意思が確固たるものであるなら、本人の意思を尊重すべきである。

 逆に、こうした状況においても患者の意思を尊重しないことは、周囲の人間のほうが本人以上に本人の利益をわかっているという理由で個人の自己決定を認めないパターナリズムに陥っていると考えられる。』


正解は無いと思います。
どちらの考えも理解できます。

私の考えとしては最大限のサポートをした上で、時間をかけて作られた個人の意思は尊重されて良いのではないかと思います。
意思は揺らぐものですが、それを前提としつつも個人の意思決定は尊重されるべきなのでは、と考えます。

船後議員は二年間も死にたいと思い続けていました。
もし安楽死が可能であれば、既に実行されていたでしょう。
それでも考えが変わった。
意思とは動くものであり、絶対的なものではありません。
意思は変わることもあり、変わってもよい。

それを前提とした上で、個人の主張は尊重される必要があると思います。
変わる可能性があるからと言って個人の意思がないがしろにされるのは上記記事の通り、パターナリスズムに陥っていると言えます。

私自身、急性期医療の現場で意思が揺れる方や、自分の意思を貫けなかったことを悔いる方を見てきました。
苦しい状況が続く中で冷静な判断をすることは難しさがありますが、私たち1人1人が自分の生き方を見つめることが納得した最期を迎えることにつながると思います。

難しいテーマでも逃げずに冷静に向き合える。
そんな社会にしたいと思います。

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