「哲学の果てに」

「哲学の果てに」

ドイツの哲学者、カール・ヤスパース氏の著作に、思索の末に、ある種経験される、思想的な「飛躍(Sprung)」について書かれている箇所がある。ヤスパース氏の著作には、神秘主義的な香りが確かにある。一般的な哲学書には、その著者が神の存在に対する確信を持っている場合を除いて、確かな結論を持つことがない、思索の羅列に留まることが多い。「一」なるもの、すなわち「唯一神」の存在に対する確信的な結論をたとえ導くことがあっても、その言説は、読む者に対して、一抹の、満たされなさ、不満を残す。

幼年時代の日々と、思索に沈む青年時代において、決定的に異なることは、青年が、「自己」、「他者」、「思惟」などの概念について、個別に考えを巡らすことであろう。子供達が、このような概念の分裂を、決定的に経験することは稀である。一般的に、哲学書の多くは、このような個々の概念についての詳細な記述に終始する。このような哲学書の対極にあるものが、所謂「日常」であり、労働と報酬、家庭でのくつろぎなどの過程において、人間は、「自己」や「他者」、「思惟」などに関する思索を「一時停止」して、あたかも幼年時代のように、単純に、能動的に生きる。多くの場合、思索が始まるのは、何らかの暇が訪れた瞬間であり、いつも通りに分裂した諸概念を個別に考えながら、日々の生活に流され、再び思索の停止状態に陥る。このような状態にある人々には、職業哲学者たちの仕事は、ある程度興味深いものとなる。しかし、結局は、このような多くの職業哲学者たちも、明確な結論に到達していない、という事実は、これらの哲学書を読んでも、何も得ることはなく、再び日常の渦に投げ込まれる、という事実からも明らかになる。

この対極にあるものが、近代の西欧思想において絶大な影響を持っていたキリスト教を包括する、アブラハムの宗教の伝統である。この宗教において、人間の思索という行為は、全くと言って良いほど意味をなさない。神の存在を自ら証明する、などという人間的労働を超越して、神は自ら、自ら選んだ人間に、多くの場合、その使いとなる者(天使)を下し、自らの存在を教え、その人物に預言者として活動することを求める。そして預言者は、「自ら結論に辿り着いたものではない」、「神によって教えられた」知識を、人々に教える。そうして編纂されたものがトーラであり、福音書であり、クルアーンである。

この預言者として選ばれる者の素質として、最も大切なものは、彼が誠実であり、嘘を言わない人間である、ということに尽きる。何故ならば、預言者の言説の根幹には、実際にあった、神との遭遇について、体験談として語る、という性質があるからだ。「嘘つき・ほら吹き」には、預言者は務まらない、と。

当然のことながら、特に20世紀の西欧哲学に散見される、思索の末に積極的に神の存在を否定するという職業、そしてアマチュア哲学者たちの言説も、大きな説得力を持つことはない。精密な思索が、精密な思索に留まる限り、その結論は、自然科学による理論のように、時代とともに改変されていく運命にあるからだ。

啓示とは、恵みであり、神の人間に対する愛でもある。啓示として齎された知識を教える預言者の周りに人々は集まり、多くの議論を交わす。そして思索が再開する。そして、簡単に言えば、預言者が現れる以前と以後では、思索において考慮される事柄が異なってくる。唯一神の存在について明確に語る預言者たちの言葉を、これまで通りの日常的な思索の順路に加えなければならないからだ。思索者が誠実であるならば、自然科学的心得を持つ者であるならば、預言者の言葉の詳細について検討するだろう。そして、最も大切なことは、このような思索者たちの中から、神の存在について明確に知覚する人々が出てくることである。彼らの口からは、多くの場合、「神が私を導いてくださった」、という体験談が聞かれる、という事実について私たちは知らなければならない。預言者たちのような強烈に直接的な体験を持つものは皆無であっても、何らかの形で、超常的な体験をし、その中で知識を得る、という出来事について語る者たちは少なくない。彼らの言葉から容易に感じ取れるように、このような人々は自らの思索力のようなものを誇ることは無く、知識を与えてくれた唯一神への感謝の中に謙虚になる。

バスラの街を走ったラービア(アダウィーヤ)のものとして伝えられる言葉は、神を愛する者の言葉として、神を直接的に認識している人物の言葉として、実に興味深いものである。詳しい経緯は分からないとしても、彼女のような人物が、生来、非常に理知的で、自然科学的心得を持つ人物であったとしても、何も驚くべきことはない。

激しい思索の末に、唯一神がすべての人を導くのか、それは誰にも明確には言えない。しかし、もしある人物が、知識を与えてくれた唯一神への感謝を示すために、自ら礼拝に勤しむようになったのならば、その人物が、何らかの神秘的な体験を得ている、と考えて大きな間違いはないだろう。知識はその持ち主の行動様式を支配し、形作る。ヤスパース氏が書くように、聖書のような啓示の世界よりはるか以前(längst vor)に、神性の現実的な存在についての確認(Gewißheit von der Wirklichkeit der Gottheit)が存在していた、という事実は、現代においても同様に存在している。それならば、明らかな啓示の体験を持つ預言者の伝統は、これはクルアーンの各所に書かれるように、神が世界の諸民族の上に、ユダヤの民に与えた、非常な恩恵であると言えるだろう。

2023
D.I.

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