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本屋が失われていく

丸善ジュンク堂の名古屋・京都からの撤退は衝撃的なニュースだった。名古屋や京都の人たちは、書店で実際に手にとって本を読んだり、たまたま目についた本と出合うセレンディピティの一つの場を失うことになる。

本好きとして、最近はとにかく世知辛い。とにかく本が買いにくくなっている。昔は躊躇せずに購入できた本が、値段を見て買うのをやめることが多くなった。今では新書が800円ぐらいないと買えない。1000円超えの新書も増えてきている。文庫ですら、海外翻訳ものでは1000円越えは当たり前になりつつある。むしろ文庫よりも単行本の方が値段が安かったりする。

ワンコインランチ2回分ぐらいのお金がないと、新刊本が買えない。もちろん物価の上昇率を考慮に入れても、本が確実に奢侈財になってしまったというのは肌感覚でわかる。刊行点数が増えていることもまた、厳選して買うという行動につながっているのではないだろうか。

紙の本をたくさん所持し、積読することは、贅沢の極みになってしまうのかもしれない。これまで購入してきた大量の本の処分の問題と発生する。詳しくは小説家の紀田順一郎さんが蔵書の処分に関するエッセイ(蔵書一代―なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか)を書かれていたが、紀田氏のレベルでも本を処分せざるを得ない日本の現状がある。本棚を置くスペースや場所が必要になるので、それなりの大きさの書庫を確保しない限りは難しい。つまり本の保有・維持にはお金がかかる。すると、本当に本が好きでなければ保有しないでよいだろう。

本保有のコスト以外にも、本を取り巻く環境は厳しい。小生もまた、本の置き場に苦しみ、家族からは常に「どーなってるの?」と言われながら本を買っている状況にある。職業柄なんとか本を保有できているものの、亡き後はただの処分で終わるだろう。例えば司馬遼太郎のような著名人の書庫からは、当人の興味関心を書籍から見てとれ、どのような知識を得て、活用してきたのかがわかる。しかしながら、本の所有自体が厳しい現状では、自分ライブラリをアーカイブ化するのは、市井のわれわれには難しい。

スマートフォンが普及する前は、皆週刊誌や本を読んだりしている光景が電車の中で見られいたが、今はスマートフォンでゲーム、動画、SNSをやっている光景が多くみられる。あるいは電子書籍・漫画という形の読書に移行しており、紙の本にこだわる必要がなくなったというのが大きい。無料で楽しめ、あるいは紙の本よりもサブスクリプションサービスなどで安い値段で楽しめるのであればそちらを選択するのは合理的であろう。

本に囲まれて生活している身としては、紙の本が厄介者扱いされている現状に嘆きを感じる。様々な人たちが学んだ知の結晶が集約された本を読むことは、未来につながる道を見つけることにつながる。本から学ぶことによって新たな知見を得られるかもしれない。それが本の効用であり、娯楽でもある。知を支える書籍文化の一環が崩れたように思えて(経営上の問題とは言え)、小生はとても悲しい。

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