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ヤシャル・ケマル 「İNCE MEMED(やせ細ったメメッド)」英訳版の序文

以下の文章はトルコの国民作家として知られるヤシャル・ケマルのインタビュー記事です。生い立ち、代表作"İnce Memed(やせ細ったメメッド)"のエピソード、小説論、豊かな自然に対する情緒など著者の創作のエッセンスが縦横無尽に語り尽くされます。

訳文については「İNCE MEMED」英訳版(MEMED, MY HAWK -WITH A NEW INTRODUCTION BY THE AUTHOR”, New York Review of Books, 2005)に掲載された"INTRODUCTION"より筆者が転載、訳出を行いました。

(お断り)この翻訳は作家の紹介が目的であり、現時点では著作権者からの翻訳許可は特に取得していません。将来的に出版や本編の翻訳などの機会がありましたら、別途対応する旨予めお断りさせて頂きます。

それでは作家ヤシャル・ケマルの創作の世界観をお楽しみ下さい。

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著者:YASHAR KEMAL

訳者:石井宏樹

序文
 私が南アナトリアの最大都市アダナにある図書館で働いていた頃、その図書館を訪れる人は殆どいませんでした。私の他にその図書館で働いていたのはチーフの図書館長だけだったのです。年齢を重ねている彼は朝早くから仕事に出て来て、煙草を吸いながら、肘掛け椅子で寛いでいるような人物でした。私は上階に部屋を貰っていて、起床してベッドメイクをすると、まずは部屋の掃除をして、近くの朝食店に向かったものです。図書館に戻ると、その日に読む分の本を持って来て、机に腰を下ろしました。最初は政府の古典翻訳局から出版されたものを渉猟し、その後は世界中の文学へと取り組んでいきました。翻訳局から出版されたチェーホフの短編集に私は大いに魅了されたものでした。後に私が初めて首都アンカラを訪れた際に、翻訳者を捕まえて、実に熱っぽくチェーホフを語り、親しい友人になったものでした。当時スタンダールの『赤と黒』に出会い、大いにこの作品を愛しました。

 その後私は徴兵を受け、図書館員を辞めざるを得ませんでした。しかし軍隊時代には殊の外時間を持て余していて、私は余暇にチェーホフを読み続けました。私はこの頃初めて物語や小説を書いたのですが、後にこれらの作品は差し押さえられてしまいました。兵役が終わると私はイスタンブールへと移り住み、日刊紙「リパブリック(共和国)」紙で働き始めました。私は故郷で書き掛けた2つの原稿を持っていました。村の通りの真ん中の机に置いたタイプライターで法廷記録を書いて生計を立てていた頃のものです。その中の一つが「メメッド 我が鷹」でした。
 私が「メメッド 我が鷹」を書き始めた時、オスマン帝国時代のシェイフ・サカルヤの姿が濃厚に私の脳裏に浮かんでいました。私が彼のことを見つけた歴史の本のことは長い間忘れていましたが、シェイフ自身はいまだ鮮やかに私の中で生きていました。私は彼について書かれた多くの記述を読み、資料を取り出さなくても、心の中で彼のことを思い出すことができました。やがて幸運が救いの手を差し伸べてくれました。私が働いていた新聞社の上級コラミストがシェイフのついての短かな記事を書いたのです。それが私の背中を後押ししてくれました。
 「メメッド 我が鷹」を書くのに要したのは3ヶ月ほどでした。1953年のことです。この小説はリパブリック紙でシリーズ化され、やがて本の形で出版されました。この作品はトルコで大きな成功を収め、イギリス、フランス、そしてスカンジナビア諸国でベストセラーになりました。後々には多くの国々の言語へと翻訳されました。
 しかしこの物語はここで終わることはありませんでした。とても長い期間に渡りメメッドは私に平穏を与えてくれることはありませんでした。私は更に3冊のメメッドの物語を世に送り出しました。メメッドのことを書き始めた時、私は25歳にしか過ぎませんでしたが、第4冊を書き終えた時、私は60歳に到達していました。(メメッドは25歳にしか過ぎませんでしたが。)
彼の何が、私にここまでの想像力を掻き立てさせたのでしょう?
 シェイフ・サカルヤに話題を戻します。1538年のこと。当時のオスマン皇帝ムラト4世はバグダッドに向かって親征軍を進めていました。バグダッドを占領するためです。親征軍が皇帝、大宰相、軍提督を先頭に帝都イスタンブールを進発しました。アナトリアを通過する前に親征軍は中部の都市コンヤに入城し、幕営を整えました。大宰相と提督は皇帝と民衆へと問い掛けます。
 「至高なる陛下、我々がバグダットへ兵を進める間に、シェイフ・サカルヤは五千の兵とともに我々の背後に残ることとなります。我々がバグダッドに向かってアナトリアを後にしたら、シェイフはあっという間にイスタンブールを手中に収めるでしょう。我々は二度六万の兵を追討に送りましたが、いずれも本人を捕らえることに失敗しました。今でしたら三万の兵を彼に仕向ける事ができます。」

 皇帝は進言を受けて熟考し、翌 朝二名の者が引き返すことを下命しました。翌朝大宰相と提督が再度皇帝に謁見すると、皇帝は次のことを命令しました。
「サカルヤの山々へと戻り、シェイフを見つけて次のことを伝えよ。我々の陛下は宰相の位階を其方に下賜し、同時に毛皮と劔と名馬を与える。我々はバグダット征討の途上にある。速やかに我々の軍へ馳せ参じよ。その功績は御神のお眼にも叶うだろう。」

 大宰相と提督はサカルヤの山中へと出向き、シェイフを見つけた。彼は黒檀色の髭を蓄えた長身の若者でした。彼は大宰相たちの前に姿を現し、地面に突き刺さる劔のように直立不動したのです。
 大宰相は皇帝の命令書を読み上げました。シェイフの答えは簡単なものでした。

「私には行くことが出来ません。」

「それでは我々は貴様のことをここに放っておくことはできない。この場所は帝都イスタンブールには近すぎるのだ。我々はバグダット征討の為の三十万の精兵をもってこの山を打ち破る。貴様を捕らえた後は、皇帝陛下の幕営のあるコンヤへと移送する。驢馬に逆さに吊るして市内引き回しの上、二肢がえぐれるまで股を開き、身ぐるみ剥がし、眼をくり抜き、無様な死体は獣どもに下れてやろうぞ。」


シェイフはまたしても「私には行くことが出来ません」と答えた。

「なぜだ?」

「私の使命は神に与えられたものなのです。私の使命はそれに従うだけなのです。」


 オスマン軍はサカルヤの山々を襲撃し、シェイフの軍隊と交戦しました。シェイフは遂に捕らえられ、呆気なく殺されてしまったのです。

 預言者ムハンマドの子孫はエフリー・ベイトと呼ばれます。彼の系譜として12人の聖イマームが世を継ぎました。4代目のアリはその継祖であり、アリの息子たちーハッサンとヒュセインーたちが続いていきます。12人の聖イマームたちの内11人は殺されました。そして12番目のマフディーは姿を消しました。イスラムには多くの流派・支流がありますが、その全てが次のような世界観を持っています。世界がもはや人間たちにとって生きる意味を失った時に、聖マフディーが現れ、生き残った善良なる人々の間を回り、世界により良き秩序をもたらすためにともに立ち上がる、というものです。オスマン史は救世主マフディーの名の下に多くの叛乱を経験しました。シェイフ・サカルヤも紛れもない彼らのうちの一人です。

 私はシェイフ・サカルヤについて思慮を巡らすことに多くの時間を費やし、手に取ることの出来る多くのマフディーに関する本に眼を通しました。ちょうどイエス・キリストやチェ・ゲバラのように、彼らは世界中にいる多くの人々のうちの一人に過ぎません。それは、使命や社会の意志の一部となり、革命や反乱を運命付けられている人々です。私はそんな風に確信するようになりました。私は世界というのはこうした革命の作品なのだと思っています。私が「メメッド 我が鷹」でやりたかったのは、他ならぬ、深みのある使命感の世界を探検して見たかったからなのです。

 私はタウルス山脈の山影、チュクロヴァと呼ばれるトルコ南部の都市で生まれ育ちました。1930年代まで多くの山賊がこの山中を闊歩し、私が子供の頃には彼らと実際に出くわすこともありました。また町から町、村から村を歩き回り、キョルオールの物語を語る吟遊詩人たちもまだ多かったものです。盲目の男の息子、という意味のキョルオールは名誉ある山賊です。彼は千人の人々に糧食を提供するためにキャラバンを一つだけ盗む、と言われていました。一人の偉大なクルドの吟遊詩人がおり、彼は同様の物語を語っていました。彼は東アナトリアからトルコ南部へと移住した吟遊詩人たちの一人です。私の家族は彼らと同様のルートを通って地中海にほど近いトルコマン人の村へと移住をしました。私が育ったのはそんな村でした。村に住むクルド族の家族は我々だけで、家庭内ではクルド語を話し、村内のコミュニティではトルコ語を話すという二重言語生活を送っていました。

 従って私はトルコ語でもクルド語でも新奇な話題に触れることが出来ました。東アナトリアへと戻ると、母方の祖父や叔父、兄妹たちはみな地元の吟遊詩人として活躍していました。私は母親から吟遊詩人たちの冒険を耳にすることもあれば、町の詩人たちが自分たちについて歌い上げる詩歌に耳を傾けることも出来ました。人は、人生を歩む事によって高められるのです。山賊やヤクザ者たちの世界は私の人生を高めてくれました。私が「メメッド 我が鷹」を書いてのにはこの様な伏線も存在していました。

 一方で個人の成長を物語の形式で語りたいのならば、我々は主人公たちを空の高みに昇華することがあってはいけません。登場人物たちはあくまで、彼ら自身の足で大地を踏みしめていないといけません。人は蜘蛛の糸の様な関係性、特別な社会秩序、そしてローカルな文化の中にどっぷりと浸かって生きているからです。個人というのは彼ら自身の特定の状況が生み出す産物なのです。彼らが考えていることを分解しようとする時に、彼らの置かれた状況を無視することはできないのです。さもなくば、特定の状況が存在しているのにも関わらず、全く事実と異なった描写をせざるを得なくなってしまいます。
 私はヒーローという存在を信じたことはありません。反乱や革命をテーマにした作品を書いている時でさえ、私はあくまで事実に焦点を当てようと努めてきました。それは我々が英雄と呼ぶ者たちが、実際には周囲の人々によって振り回される楽器の様なものに過ぎないからです。人びとはこうした道具を作り出し、守り、味方し、一緒に姿を消していきます。人々は、いわゆる「使命の人」を敏感に察知するか、そうでなければしつこく見つけ出すのではないのでしょうか。どうにかしてでも、彼らは英雄を見つけ出し、自分自身の英雄を作り上げるのです。すべての人間には反乱の遺伝子があるのです。それは想像力と一緒にあるもので、使命の人を作り出すのはこの反抗心なのです。どうして貧しき人々はメメッドを離すことをしなかったのでしょう?彼はうらぶれた父親イブラーヒムの息子に過ぎないのです。千人の地主を殺してもまた千人の悪辣な地主たちが姿を現すに過ぎないことを知っていながら、メメッドは絶望的な戦いを続けました。最後の最後になってもメメッドは貧しい農夫たちの呪縛から逃れることは出来ませんでした。
 私にとって、「メメッド 我が鷹」を書くことは小説を書く以上の意味がありました。新しい世界が開き、新たな想像の世界をもたらしてくれる経験でした。私が生涯をかけて書き続けてきた文章の中に通底する「人間らしさ」の在り方とでもいうべきものをも見つけたのです。人は人生の交がり角に立った時、心の中にやがて訪れる死の苦痛を感じとった時、姿を隠すことの出来る神話の世界を作り上げがちだということです。神話を作り上げ、夢の世界を昇華することによって、人は世界の大いなる苦痛に耐え、愛や友情、美しさ、そしておそらく永遠の生を得ることができるのではないでしょうか?
 我々は暗闇の中から出てきて、別の暗闇の中を旅するように人生を送ります。古代ギリシャのホメロスはイリアスの中で、「あらゆる生物の中で最も苦しみながら生きるのは人間である」と言いました。人間というのは唯一死を自覚して発展してきた生物です。ドストエフスキーは『愛国者』の中で「一歩で落ちる崖の端まで人を追い込んでみなさい。人間は豪雨の中でも息果てるような酷寒の中でも、空腹の苦しみや収奪される恐怖に襲われることがあっても決して死に屈服することはない。」と言っています。しかし飢餓や収奪、搾取、惨めさ、羞恥の中でも人間性というものは生き残ってきたのです。それでは、どうして我々はこの世界にしがみついているのでしょう?その理由とは何なのでしょう?この現実こそが私が掴み続けようと必死に努力し続けてきたことなのです。人々の中に宿る喜びとは一体何なのでしょうか?
 私は喜びの歌を唄います。全ての時代において、数多の人間たちが経てきた冒険、人々によって作り出された音楽、紡がれた唄、いかなる苦しみがあろうとも、俺たちはやったんだ!そんな達成感に満ちた感情があるのです。それが私の歌う喜びの歌です。生かしてくれる神よ、ありがとう。もし私たちが存在しなかったら、私という世界は一体どうなっていたのか、存在すらしていなかったのではないか?(私の2冊目の小説「平原からの風」はこんな台詞で終わります。「俺たちはやったんだぜ、そうだろう…?」)私はこの震え上がるほどの喜びを捉えたかったのです。つまり生きていることの喜びです。私が追求しているのはこの生きている喜びとは何なのかを追い求める旅なのです。どうして人々は神話を紡ぎ、夢を膨らませ、そして現実から逃避をするのか?彼らは喜びや楽しさを得続け、生きて行く上での重荷に耐える為に、彼らは新しい神話の世界を作り出し、夢を見続けるのです。しかし我々の住んでいるこの世界は決してその様にはなりません。苦しみ、病、死の恐怖、破壊、、、そんなもので溢れています。けれども人は抵抗し続けるのです。そして恐怖も決してなくなることはありません。最大の恐怖とは死の恐怖に他ならないでしょう。
 すべての時代にはそれぞれの神話を作り上げる方法というものがあります。古代エジプトにも独自の神話があり、シュメールやアッシリア、キリスト教徒、イスラム教徒、南北の人間も同様でした。神話の作り上げられ方にはありとあらゆる方法があるのです。今日の混沌とした空気の中では避難シェルターとしてどの様な神話が作られているのでしょう?きっと人類最期の日まで人はこうしたシェルターを作り続けるでしょう。人が暗闇の中を移動していこうとするときに、他にどんな方法があるでしょう?こんなにもたくさんのものを奪われながら。人は夢を見続ける限り人でありつづけるでしょう。我々が愛と呼ぶ、至上の祝福でさえ、それは夢であり、神話に過ぎないのではないでしょうか?それは人々が求める英雄についても言えることです。もしそれが違うというのなら、スペインのセルバンテスが作り出したドン・キホーテはどうして400年間も我々の図書館でウロウロしているのでしょう?
 もしも自分自身を作家の端くれとして考えるのであれば、私は意識的に人間が置かれる現実と神話や夢というものをうまく統合してきたのだということが言えると思います。物事の有り様というものに恐怖を感じるものの我々はきっと古代の神話というものに逃げこんでしまうのでしょう。剥き出しの現実に痛ぶられ、時代の厄災にぶち当たり、我々がまだ適切に理解することさえできない危険に遭遇したとしても、ちょうど私たちの先祖がしていた様に恐怖の神話を作り出すだけなのでしょう。我々は逃げ込むことの出来るシェルターを探し求め、神話の中にそれを見出すのでしょう。その神話の中では風と太陽、雄鶏と牡牛、月と地球、母なる自然が主人公です。
 最近、自分が書く小説やインタビュー、対談などで特に意識をしていることがあるのです。「本質的にはどんな物質、どんな物体にも固有のアイデンティティというものがある」ということです。すべての植物やすべての花にはそれぞれ特有の個性というものがあるのだということです。自然の中の最も小さな分子でさえ、アイデンティティや豊かなパーソナリティーを持っているのだということです。これをパーソナリティという言葉で表現しようとすると何だかまだ手が届いていない気がします。もし私が何かに戸惑っている様に見えるとしたら、それは単に私がこれに対する適切な言葉を見つけていないからなのです。いつの日か科学者や著述家たち、そして人間の理性がふさわしい名前を見つけてくれるでしょう。
 私はタウルス山脈の山中で、自然の本質的な美しさというものを見つけました。「メメッド 我が鷹」を書く前のことです。サブルン川は数多ある小川の中の一つで、二つの河川がタウルスの嶺からチュクロヴァ平野に注ぎ込みます。もし私がサブルンの流れに出会うことがなかったら、私は自分の中に存在していた自然というものをこんなにも強く感じ取ることはできなかったでしょう。何年もの間、サブルンの流れに沿って山並みを歩いていたので、まるで自然の元に住んでいたかのように感じたものです。若い頃稲作用の水田で水利管理の仕事をしていたことがありました。全てのものが同じではない、そういったことに気が付き始めたのはこの頃でした。木の枝に咲く花、牧草、蟻の巣の一匹一匹の蟻たち、タウルスの山並みからチュクロヴァ平野へと注ぎ込む一つ一つの流れが、一つとして全く同じものはないのだということに気がつきました。
 サブルンのせせらぎは私をとても多様な自然の世界へと私を導いてくれました。出来うる限りそして私が最後の息をするその瞬間まで、自然と人間のその輪の中にあり、世界とそして宇宙とともに栄えきらん。私は自然の中に一体になり、そして添い遂げたい。私は好奇心をかき立てるような自然の秘密の世界を探求したい。
 もしも私が現代文学に出会わなかったら、私は町や村を渡り歩き叙事詩を唄う詩人になったでしょう。私は道端に座っている少年に過ぎませんでした。しかし近くの村の小学校へと通い、ロシアやフランス、イギリス、そして東西の小説を読みました。そして私はスタンダールやチェーホフ、そしてチャーリー・チャップリンの様な師匠たちを持つようになったのです。

以上

MEMED, MY HAWK -WITH A NEW INTRODUCTION BY THE AUTHOR”
New York Review of Books, 2005 より訳出

Introduction copyright © 2005 by Yashar Kemal



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