何が好きかより何が嫌いかを語ろう


『魁!クロマティ高校』という漫画のなかに、「プータン」という芸名で活動する着ぐるみを被った芸人のキャラクターが出てくる。いま手元に単行本がないのでうろ覚えになってしまうが、こんなエピソードがあった。プータンがテレビ番組のグルメレポートをするのだが、なにを食べてもグルメレポートらしいことを言わずに、「普通」とか「うまい」と一言呟くだけで済ませてしまうのだ。

 なんてことのないネタであるが、このエピソードは「感想」というものの本質を突いている。美味しい食べ物を食べたときにグルメレポーターは大げさに騒いだり形容詞や比喩を使って美味しさを表現しようとしたりするが(その形容詞や比喩も大概はオリジナリティのない使い回しである)、実際には人は美味しいものを食べたところでさほど感動することはない。頭や心の中に浮かぶ感想は「うまい」とか「思っていたよりも普通だな」とか「大して美味しくもないな」とかいうものが大半だ。普通のグルメレポーターが大げさな感想を言うのは、それが彼らの商売であり、大げさなことを言わなければお金にならないからだ。つまり、彼らは番組構成上の都合とか自分の利益とかのために、自分の頭や心のなかに浮かんだ感想とは異なる言葉を口にするという「嘘」を表現しているのである。

 自分の本心とは異なる感想=嘘を発信することで商売になるのはグルメレポーターに限らない。音楽ライターや映画ライターは大体がそうである。ゲームのレビューが嘘ばっかりなのは有名なところだろう。ワインやウィスキーなどの酒について書かれた文章は格調高い名文が多いが、酔っている人間の頭にそんな名文が浮かぶわけない。そして、書店に並ぶ本の帯には各界の文化人や知識人や「愛読家」たちによる極端な賛辞が並ぶのが付き物だ。わたしは書店内に行くたびに新刊の本の帯(それに書店内に貼られたポスターや店員が書いたポップなど)を目にして、そこに書かれた言葉の軽薄さに悲しくなってしまう。本というものは例えば学術書や実用書であればそこに書かれていることがなにかしらのレベルで事実や真実でなければ意味がないし、フィクションの目的のひとつとは嘘の世界や人物を描写にストーリーや文章のマジックを用いてなにかしらのリアリティを生み出すことである。つまり「本」とは本来は「嘘」に逆らうことを役割とするものであり、浅薄な言葉とは本にとって最大の敵であるはずなのだ。だが、書店に存在する帯やポスターやポップは浅薄な嘘をばら撒いているのだ。

 しかし、商売であれば嘘が発生することは仕方がない。わたしが自分の乏しい社会人生活から学んだことのひとつが、多くの商売では嘘を吐くことが必要とされる、ということだ。とりわけ広告関係はそうだ。広告というものの本質は、価値が存在しないものに価値が存在するかのように偽装して、人々を錯覚させることである。広告を仕事にしている人たちがどれだけ綺麗事を言ったところで、それが事実だ。そして、グルメレポートや本に付いて帯というものも結局は広告の一種なのだから、そこで嘘が表現されることをいちいち問題視する方がおかしいかもしれない。


 だが、SNSやブログやYouTubeなどで誰もが本や音楽や映画や食事の感想を発信できるようになった現在では、人々はそれが自分の商売でもなく自分にとって一銭の利益にもならないのに、グルメレポーターのように大げさに騒いで「感想」を表現するようになっている。使い回しの比喩や定型文、クリシェの多さも目に余るところだ。

 この事態の原因の一つは、素人たちが無償で自由に感想を発信できる時代になったところで、その素人たちが感想を書く際に参照するのは、結局は商業媒体に載っている金銭の発生した文章であることだ。つまり、雑誌などに載っている映画レビューとか書評とかには商売や広告としての要素が混ざっている時点でどこかしらの「嘘」が内包されているのだが、映画や本に関して書かれた文章といえば雑誌の文章しかない、という時代が長らく続いたために「感想というものはこうやって表現するんだ」という認識が人々の間に定着してしまったのだ。映画を観終わった後に感想ブログをまわってみると、いかにもどこぞの批評家の文体を真似たタイプの感想ばかり更新しているブログを発見して涙ぐましい気持ちになったりする。しかし文章の書き方というのは基本的には既に書かれた誰かの文章を真似することで身に付けていくものであり、そしてネット以前に映画について書かれた既存の文章は批評家のものばっかりなのであるから、これは仕方がないところだろう。

 また、「感想」を発信するという行為にはコミュニケーションとしての側面も存在する。これはわたしも経験があるところで、学生時代には月曜日に友人と会ったらまずジャンプの感想をお互いに言い合っていたし、いまでも週末になったら映画についての会話を交わしたりはする。漫画や映画などについての感想を言い合うことはお互いの価値観や性格を理解することにもつながるし、気心の知れた友人と感想を交わすことは漫画を読んだり映画を観たりすることの楽しみのうちの大きな要素となっている。…しかし、ネットにおけるコミュニケーションとは手段と目的が逆転しがちなものであるし、エスカレートしがちなものでもある。Twitterで流れてくる映画感想が白痴的なものになりがちな理由は、「感想を表現することで他人とつながったり、他人からRTやいいねをもらうこと」が目的として映画を観ることの方が手段になっている人が多々いるからだ。そして、より大げさかつクリシェ的な感想の方がわかりやすくて目立つので、よりRTやいいねがもらいやすくなる。だから、なにかを観るたびに「大傑作!」だとか「5億点!」だとかつぶやいたり、あるいは「『ピーター・ラビット』は実質『仁義なき戦い』」だとか「『ミッドサマー』は実質『TRICK』」だとかの面白おかしい個性的な感想表現を目指したりして、ブームに乗って自分もRTやいいねを欲しがる烏合の衆がまたそれにのっかってくる。

 しかし、根本的な問題は、素の「感想」とはあまりにもつまらないものであるということだ。映画を観たり本を読んだり音楽を聴いたりおいしいものを食べたところで、大した言葉が頭や心に浮かぶはずがない。洒落た表現も浮かばないし、優れた比喩も浮かばない。たとえば私の頭に浮かぶ感想は以下のような感じだ。「うん」「おお」「まあまあ」「いいね」「うーん」「つまらん」「イライラする」「面白い」「うまいな」「まずい」「うるさい」「お腹すいた」「頭痛い」「つらい」「なるほどね」「びっくりした」「すっきりした」…。などなど。「!」が付くことはまずない。だからこそ、わたしは物事の感想を書くときに特別の意図もなく「!」を付ける人のことはまず信用しないことにしている。凡庸でローテンションな言葉で書かれた感想でなければ、真実と見なせないのだ。


 noteとは別のところで先月から映画感想ブログを書き始めている。しかし、どの映画について感想を書いていても、自分の持っている「感想」のつまらなさに自分でびっくりしてしまう。なるべく自分に嘘を吐かずに、大げさな言葉を使わず、「素」の感想を書こうとしているのだが…それだとあまりに書くことがなくなってしまうのだ。だから、嘘や大げさにならない範囲で他の映画と比較したり背景の事情を調べたりして「批評」や「分析」の真似事をすることでお茶を濁すことも多い。しかし、批評や分析を交えた時点で自分の「感想」からはズレているな、という思いもある。

 そしてわたしが気付いたのは、自分の好きな作品について書くときには筆がノらず、出来上がった記事も大して面白いものにならない一方で、自分の嫌いな作品について書くときには筆がノるし賛否両論あれど多くの人からそれなりに反応のもらえる注目度の高い記事になる、ということである。

 「嫌い」な作品について書くときには、単なる「感想」にとどまらずに「分析」や「批評」をしようという動機が生じる。わたしが見る映画はシネコンで流される洋画が大半であり、基本的には一定以上のクオリティが保証されているものばかりであって、世間にはポジティブな評価の方が多数派の作品ばかりだ。そのような作品を見て「この作品は嫌いだな」とネガティブな思いを抱いたときには、世間に対して自分の感想を知らしめて作品の過大評価を少しでも是正しなくてはならない、という使命感と反骨心が入り混じった感情が湧く。しかし、ただ単純に「この作品は嫌いだ」と書くだけでは誰にも共感されず生産性のない文章になってしまうし、わたしの目的も果たされない。作品についてのネガティブな意見を表明するためには、そのネガティブな意見に至った理由を客観的な方法で表現することで、読者の共感や理解を誘わなければならない。そのために、客観的に作品の問題点を指摘したり作品を解体して分析することを試行することになる(その試みが成功するかどうかはともかく)。…実際、出発点となるネガティヴな感想は主観的なものであっても、それを言語化しようとしたりその感想に至った理由を分析したりするうちに、作品の方に存在する客観的な問題点を「発見」できてしまうことが多い。ネガティブな感想を抱くにはそれ相応の理由があるのだ。

 一方で、「好き」な作品について書くことは難しい。映画の構成が優れていたり俳優の巧みな演技に魅了されたりなどと、その作品に対してポジティブな感想を抱いた理由が自分のなかでも明白なことは多い。だが、わたしがポジティブな感想を抱くような作品には他にも多くの人がポジティブな感想を抱くし、その映画の良さや優れた点についてはすでに他の人が説明している。素人ならまだしも、プロの映画ライターや批評家がすでに解説記事を書いているのならわたしの出る幕はない。そして、大半の映画では公開当初からプロの映画ライターや批評家によるポジティブな記事が世に流れるものなのだ。…かといって大げさで浅薄な「嘘」の感想を書くことだけは絶対にイヤだ。

 そうなると、何が好きかより何が嫌いかを語る方が楽しく生産的で、知的で充実した営みとなるのだ。すくなくとも私にとってはそうだ。そして、多くの人は自分が嫌いなものについて語ることを尻込みしがちであるが、一度やってみることをお勧めしよう。嫌いなものについて語るときには、大げさな言葉や優れた比喩や「5億点!」などの「嘘」を吐かなくてよくなる。「なぜ自分はそれが嫌いなのか」ということを真剣に考えて、素直な言葉で表現するだけでも、なにかしらのオリジナリティがあって意義のあるものとなるだろう。

 それに、広告というものが存在するために、あらゆるコンテンツに対するポジティブな言葉は放っておいても勝手に増殖して街中やネットに溢れかえる。有名人やインフルエンサーやSNS漫画たちがポジティブな感想を表現するときには大概はお金が発生しているだろうし、そうでなくても仕事やコネなどの利害が関わっていることだろう。だとしたら、そこには多かれ少なかれ「嘘」が混ざっている。……私たちが広告や有名人の後追いをしながら「何が好きか」を語ったところで、それが何になるだろうか?「何が嫌いか」を語った方が、嘘にまみれた「感想」の世界に一矢を報いることができるかもしれない。


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