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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅰ 十勝の空 編 プロローグ【上陸編】


 すべてを綺麗にした。
 自由を手に入れる為に、多少の不自由を背負込んだ俺は、やっと、長い、長い、長い旅に出た。

 ひ弱なライトが作り出す、ニヤけるほどに“おぼこい”光源と、それによって生み出されてゆく暗闇、標示板の灯りだけを頼りに、ぼんやりとしたオレンジ色が染める辺りを目指す。
 
 今夜乗る船と対面してみれば、逸る気持ちがどれだけそそり立つのだろうかと思っていたが、なぜだか冷めていた。
 喰いたかったソースカツ丼を喰ってみて、それが積み重ねてきた想いには届かなかったせいか、術後覚えた疲れのせいか、それとも、どこのフェリー乗り場にも同じように漂っている寂しさのせいなのか。肉体だけでなく、感情も老いるということなのかもしれない。
 人も疎らなターミナルの受付で、熱意のない、仕事だと割り切った、無味無臭で抑揚のない言葉を放つ女性社員を相手に、無事に乗船手続きを終えた。出港までにはまだ三時間ほどあった。今のうちに買い出しに行くべきだろう。一台もバイクが停まっていない冷え冷えとする待機場から、国道沿いにある遠く離れたコンビニまで向かう。
 本当は出航間近にここに来たかったのだけれども、船に乗り込む前にどうしてもこの地の名物ソースカツ丼を喰いたくて、店の営業時間の都合上、早めにやって来ただけなのだ。
 それにしても、夜にバイクを走らせるのが好きではなくなったのはいつからだろうか?
 子供(ガキ)の頃は一晩中走り回り、黄色い朝日がサングラス越しの瞳の奥、脳味噌の前の方を刺激していた。近頃は、夜を走るのが滅法嫌いになった。とくに夜の田舎道を走るのが嫌いだ。二十年選手の相棒のライトでは心許ないほど、目にも老化がきているということだ。今も嫌な気分のまま走らせている。この辺りは国道でも街灯が無いのだ。
 やっとのことでコンビニの灯に吸い寄せられた。少しホッとするのは、都会に慣れ沁みついた弱さのせいか。店内に入った途端、今買うとビールがぬるくなることに気がついた。棚に並んでいるツマミも住処の近所で手に入るものと同じラインナップだ。酒とツマミは船内で買うことにして、ペットボトルのお茶と明日の三食分のパンとサンドイッチとおにぎりを買い込む。今までの経験上、長距離船の船内で美味い飯を食べられた記憶は、子供頃に乗った小倉行きのフェリーまで遡らないとないのだ。その時食った黄色いエッグスタンドに乗った茹で卵とカリッとフワッとしたバタートースト、無理やり作ってもらったミルクセーキ。それ以後は、陸上なら三ヵ月で潰れる店のように、不味い代物のオンパレ―ドだったのだ。
 灯りのない待機場に戻ってみると、バイクレーンにも数台が停車していた。どれも後部に荷物が満載だ。一台だけ、FRP製のトップ・サイドケースが車体と一体でデザインされた、九州ナンバーの高級バイクが停まっていた。ヘルメットが二つあるので、タンデムであることは間違いない。自分の荷物の量と見比べて、二人で何日間旅するのかは知らないが、よくケース内に荷物が収まるものだと感心した。やることがないので、つい余計なことまで考えてしまう。
 見えているターミナルビルの出入り口では、人の出入りがひっきりなしにあった。建物内は、さっきは開いていなかった売店も開き、さぞや賑わいを見せているのだろう。喧騒に身を置くことはしたくなかった。この暗闇の中、ライトとガイドブックを取り出して予習でもするかと考えてみたものの、荷物を解くことも、そのあとにまた積み込み括りつけることも面倒臭いので、ただ空虚な時を過ごすことに決めた。そして初めて、こんな時間があるのだと気がついた。今まで生きてきた中では考えすらしなかった性質のものだ。乗船時間が来るまで束の間の贅沢を堪能しようと決めた。
 その最中、あまりにも俺が淋しそうに見えたのだろうか、こんな風体の俺に何人かの旅人が話しかけてきて、俺から束の間の贅沢を奪っていった。何度も似たような質問に真摯に答える。道中何があるのかは誰にもわからない。愛敬を振り撒いておけば、何かの時の助けになるかもしれない。そう、昔の人は言っていた。だが、「向こうに何日いるの?」というお決まりの問い掛けに「いつまでいるのか決めていない。嫌になるか飽きたら青森に渡る」と答えると、皆、瞳の奥に微かな嫉妬を見せたあと、それを小さな敵意か蔑みへ変える。
 やはり面倒なものだ。人間など、必要な時だけ触れ合えればいい。やっと、誰とも関わらずに済む立ち位置を手に入れたのだから当然だ。
 それにしても、どんどんと冷静に、ますますと虚しさが湧いてくる。あれほど思い焦がれた北の大地に、やっと足を踏み入れることが出来るのにだ。幼稚園や小学校の時、遠足前夜に感じたあの高揚感は、これまでに越えてきた様々な経験から、知らぬ間に異質のものへと変化してしまったのだろうか。
 この日を迎えるまでに五ヵ月間、体力強化に勤しんできた。一日無理をすれば二日寝込み、二日無理をすれば三日以上寝込む感じは、五年経ってもそれほど変わらない。背中に抜け出た穴の傷はだいぶとかすれてきたが、胸の傷はあまり代わり映えしない。体力的に少しは向上しているとは感じているのだが、根本的な部分の力が消えて無くなっている感じは拭えない。しかし、もう二度と昔に戻ることはないと決めたのだから、これで良いのかもしれない。
 やっと乗船が始まった。乗下船時はどんな船でもいつも少しだけ緊張する。飛沫で鉄板が濡れていて滑りやすかったり、滑り止めの凹凸が脳髄に響くぐらいに激しかったり、小さな船だと波の影響で思いがけなく揺れたりするからだ。根本的にバイクが楽に乗下船出来る構造にはなっていないのだ。一度なんか、前を行くバイクのライダーが不慣れだったらしく、コケるのじゃないだろうかとうしろで思っていると案の定、やっと前輪が船内に入ったところで気を緩めてしまったのか、急に250ccのバイクだけが右に傾いて、焦るライダーの股の間でゆっくりと倒れていった。途中からはっきりと諦めを背中に見せたライダーは、誘導員が駆け寄ってくるまで茫然自失、大股開きの仁王立ちだ。こっちは距離を開けていたので十分止まれたが、うしろのバイクは勢いがついていた様子で、危うく突っ込まれそうになった。
 無事にバイクを停めて持ち込みの荷物を解く。車両を固定する係りの人と、どこにタイダウンベルトをかければいいかを話し合い、フロントフォークのアンダーブラケット部分と、うしろはショックの根本に決める。
 「お願いします」と言葉を残して客室に向かう。先ずはフロントに行って鍵を貰う。今の自分には眠れないことが一番身体に悪い。
 鍵を開けた先は、船の客室なのに窓から海は見えない。ネットの客室紹介に注意書きされていたとおりだ。かわりに見えるのは、鉄板に緑色が塗られただけの中庭風の空間と、反対側に同じように並ぶ部屋の窓だけだ。個室に荷物を置いたあとすぐに売店に酒とつまみを買いに出た。出航が夜中なので売店の営業時間が短い。
 売店横の自販機には北海道限定のサッポロクラシックが既に並んでいた。北海道で飲もうと思っていたのに堪らず手を出してしまう。500を二本と、売店で北海道産昆布焼酎を一瓶と氷、それにこの船舶会社は太平洋側にもルートを持っているらしく、仙台名物・笹かまぼこと柿ピーをつまみに少し買った。ビニールの袋に余裕が随分とあったから、自販機前で誘惑に負けて、サッポロクラシックをもう一本買ってから部屋に戻った。
 ドアを閉めて堪らずにリングプルを引いた。初めて飲むサッポロクラシックは美味しくて、一本があっという間に喉の奥に消えていった。
 部屋にはTVがあったが映りが悪かった。PCを取り出して松山千春をかけた。そうして気持ちを北海道にして、何度も何度も読み耽ったガイドブックと地図を取り出し、明日の夜に着く苫小牧周辺の予習を始めた。未だに、この広い大地をどう周ろうか決めていない。函館だけは最後にしなければ青森に渡れない。稚内まで行くにはまだ少し寒い気がする。明日の夜、初めて迎える北海道の夜。苫小牧の夜を満喫しながら、西に行くか東に進むか、はたまた北に走るのか。今までに何度も考えた愚問だ。全部天気次第、風任せにするしかないのだ。
 千春が終わりドリカムに変える。グーグルで予習していると無料Wi-Fiはあっという間に時間切れ、PCは音を出すものになった。
 この旅に出るにあたってやると決めたことが一つだけあった。それは、せっかくの時間制限のない旅だから、北海道内179全市町村を走り、記念としてすべてのカントリーサインをカメラに収めることだった。
 雨の日はカッパを着てまでは走らない。夜は走らない。というのは、当たり前の話だ。勿論、天気の急変に対応するためや、どうしても宿が無い場合の移動時のために、合羽は工具と共に積んでいる。だが、何処を走っているかも判然としない、変わらない中を走る、そんなものは愚の骨頂だ。そう思っている。
 しかし、いきなり北の大地では夜に走ることになる。到着する苫小牧東港は、苫小牧東とは名ばかりで、苫小牧市の隣の厚真町にあり、何もない場所だった。念のためと出発前に宿をとった苫小牧のホテルまで、23キロ以上を走らなければならない。初っ端からルールを曲げることになる。いや、出航前にもう曲げてしまった。生きている以上、オールOKは無いのだ。それでも気分は上がってくる。三本目のサッポロクラシックも消えて、昆布焼酎に手を出した。……ん?出汁だ。一杯目は良かったが、二杯目以降は、これしかないから飲むって感じだった。
 ドリカムを聞き終えサザンに変えて、そのまま酔いに任せて眠りについた。いくら遅く目が覚めても、まだまだ海の上だ。眠る寸前にかかっていたのは「女呼んでブギ」だったような、なかったような。

 目覚めて部屋のシャワーを浴びても、音楽を聴くか読書以外することがなかった。出発前に徳永から「餞別だ。持ってけ」と言われて渡された『梶井基次郎・檸檬』を開けて少し読んでみた。「えたいの知れない不吉な塊が……」で船酔いになりそうだったので断念すると、音楽を聴くこと一択になった。音を聴くのにも飽きたので、船内をブラついた。まだシーズンオフだからか、二等客室も広々としていた。遊戯室には何年も昔のパチンコとスロットが置いてあった。何故、金にならないのに打つのだろう?必死に台と向き合っている人の背中で、俺は首を傾げた。
 津軽海峡に入ったと放送を聞いてデッキに出た。頭の中では石川さゆりが歌っている。しかし、津軽海峡には冬景色が良いらしい。船尾のデッキで見るから左が青森で右が北海道。いつも船から見る景色は過去しか見えない。そのせいか、『ほーっ』という感じしかなかった。ただ、海の深い色は綺麗だと思った。
 ドキドキしていない自分がいることに戸惑いを感じながら、苫小牧東港に着くまで普段と変わらぬ時間を、ゆっくりと部屋でやり過ごした。
 「……現地の天候は曇り……」下船案内の放送に従って荷造りして部屋を出る。昆布のおにぎりが一つ残っていた。タンクバッグにおにぎりの入ったコンビニ袋を入れて、シーシーバーに荷物を括りつけ終えると暇になった。作業員が扉の辺りで動き出した。ずっと夢見てきた北の大地の初見をこの眼に焼きつけようと、バイクから離れて扉の見える所に移動した。
 10分ほど待つと扉は、ホワイトベースの格納庫が開く時もこんな音が鳴るのかな?と思えるサイレン音と機械音を奏でながら、ゆっくりと横に動き、その先に広がる暗闇を見せ始めた。そして可動橋が下がり出すと眩しいほどの港湾のオレンジ色が広がった。それがずっと夢見て憧れてきた北の大地の初見だった。
 感慨にふけるでもなくオレンジ色に染まったコンクリートに降り立った。風だけが北を感じさせた。
 船をバックに相棒を入れて、北海道上陸記念の写真を撮った。
 しっかりとタンカースジャケットのジッパーを引き上げて、暗闇に走り始めた。
 それにしても闇だ、暗闇だ。これもが北海道なのか。まったくウキウキとしない。
 後から下船してきた車の流れに乗って進むと国道235号の標示板が現れた。
 『←札幌 苫小牧』『浦河→』
 文字だけが北海道だ。左折して浦河国道を暫く走っていると、大粒の雫が落ち始めた。
 「曇りとは違うのか」と、シールドの中で罵った。向かう先の空には星が見えた。勿論、合羽は着たくない。
 雫は滝となり、この旅で初めてヘルメットにつけたシールドを、いいものじゃぁないかと誇らしく感じた。
 前の車が跳ね上げる飛沫を避けるように車列の最後尾に着くと、そのうち闇の中にポツンと取り残された。雨の勢いと暗過ぎるのとで何処が道だかわからない。頭上に矢印が見えた。知らぬ間に中央ラインを跨いでいたのかと、矢印の左側を走るとアスファルトがなくなり、コンクリートの舗装、そして歩道の縁石が近付いてきた。上陸してすぐに旅を終わらせてなるものかと右に過重をかけて、アスファルトとの段差で崩したバランスを力任せに立て直し、一息吐いたところで思い出した。北海道の道には、積雪で車道がわからなくなっても、ここまでが道だとわかるように、道の両端に矢印が示されていることを。
 苫小牧の市街に近づくにつれて、雨は小康状態になり、早来国道を折れる頃に雨は止んだ。ファーストコンタクトになるはずの苫小牧市のカントリーサインは、暗闇と豪雨に隠されて出会えなかった。
 酷い洗礼だと思った。けれど、これで厄は払った、大丈夫だ。何故だか、そう確信した。
 大阪、いや名古屋以上に広く感じる直線道路を進んで行くと、左手に予約したホテルが現れた。駐車場の隅に相棒を停めて荷物を下ろす。ドライバッグにしてよかった。濡れネズミのままチェックインを済ませ、部屋に入るなりエアコンを30度にして着ていた上下を脱ぎながらそのまま部屋中に干すと、裸になったついでにサッとシャワーを浴びた。下船前に浴びた時には、今宵もう一度シャワーを浴びることになるとは想像などしなかった。
 充分に温まり、着替えを済ませると22時を随分と過ぎていた。
 部屋のエアコンはそのままに、フロントに行ってこの時間に旨いものを喰わせる店はないか訊いた。
 「今からですか。今日は日曜だから開いてる店は限られるのですが……」
 フロントマンの言葉にショックを受けながらも、休みかもしれないがと勧めてくれた何軒かを、俺は貰った地図上に印を付けた。
 雨が降ったせいか、曜日のせいか、街には人がいなかった。
 勧められた四軒のうち、二軒が休みで、一軒は誰も客がいなくて、もう一軒は入る気がしなかった。屋台通りなる所は、何軒か店に灯があったが、人通りは皆無だった。
 一時間程歩き回っても入りたいと思う店には出会えなかった。日曜日なのと時間が遅いせいだと諦めて、北海道初飯はコンビニで買うことになった。それも『セコマ』ではなくセブンイレブンだ。店内をぐるりと回り、北海道にしか売っていないもの、食べられないものを探した。見て回っているうちに歩き疲れたのか空腹が度を越したのか、甘い大きな豆の入ったピンク色した赤飯のおにぎり一つと、唐揚げにエビスビールの500を二缶買って宿に戻った。無論、コンビニを出た瞬間にプシュッと開けて、一気に半分ほど流し込んだところで、いつもの癖がそうさせたことを悔やんだ。もう北海道ではサッポロクラシック以外飲まないぞと強く思った。
 ホテルの部屋で明日の行先を探しながら、唐揚げ(ザンギではない)をおかずに昨日の残りの昆布のおにぎりと赤飯のおにぎりを頬張った。甘い豆の赤飯は、思っていた以上に美味だった。塩味と甘味のバランスがいい。
 明日のメインは吉田牧場に行って、俺のヒーローの墓参りだ。冒険の始まり前夜は、それだけ決めて眠りについた。


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