(メモ2024)

7/20
「私の罪は今日ゆるされた」と「義と認められた」

(ゲーテ形態学論集植物篇)
闇の中で生長する植物は、結節から結節まで長く伸びるが、二つの結節のあいだの茎は本来あるべきより長い。側枝はつくられず、植物のメタモルフォーゼは起こらない。 これに反し光は、植物をただちに活動的な状態に移す。植物は緑色になり、交合までの植物のメタモルフォーゼの歩みは間断なく進行する。
7/17
そういやヒルティが積載力試験とか言ってたな。苦か苦難について。
7/15
自分が、克服する という意志を持つ限りにおいて、他者のあやまち(にみえるようなもの)も許されてうる。(投影)


シュタイナーは超感覚的認識として、イマジネーション(霊視)、インスピレーション(霊聴)、インテュイション(霊的合一)の三段階をあげている。

旧約聖書のモーセ五書以下の歴史書と 新約聖書の四つの福音書と使徒行伝がイマジネーション認識によって書かれたもの、

旧約の詩編と新約のパウロ書簡がインスピレーション認識によって書かれたもの、

旧約の預言書と新約のヨハネ黙示録がインテュイション認識によって書かれたものであり、

ヨハネ黙示録そのもののなかに、イマジネーション(七つの封印)、インスピレーション(七つのラッパ)、インテュ イション(七つの怒りの鉢)の三つの要素が含まれている。
7/14

ボニントン


動物は、霊的な母体と結びついたままでいれば、今日の人類にまで進化していたはずなのです。しかし、動物は早く霊的な母体から離れて、 今日の段階にとどまり、人類系の枝の一つとして、没落の途上にあります。人間は古代には獣性をみずからのうちに担っていましたが、その獣性は枝分かれして、分離したのです。動物の形姿はすべて、あまりに早く凝固した個々の人間的な情熱を表わしているものにほかなりません。人間が今日まだ霊的にアストラル体のなかに有しているものを、動物の形姿はそれぞれ物質的に表わしているのです。
(さらに今、人間が内に持っている悪性も、万人の万人に対する闘いの後、悪人種に分離して、押し付けられることになる)

知的になるために、馬の動物形姿を投げ出した。「私たちのまわりに、馬という動物がいなかった ら、人間は決して知性を自分のものにできなかったであろう」というのは事実なのです。→ケンタウロスの芸術作品

7/13
イエス「貧しい人は福音を告げ知らされている」どう伝えたのか?パッケージ


じゃあ、たとえば、パウロとかも今、無に帰しているとしたならば?(復活待ちのね)


(ランボー)
俺が黄金色の滝〈ヴァッサーファル〉に笑いかけると、滝は樅の木越しに髪を振り乱した。銀色に輝く梢に、俺は女神を認めた。 


ランボー(の詩集)見てると、詩は、己でいいのだと思える。
自分の()ものを彫像すること
7/11 
俺って、厳しすぎるんだ。ぁ


(シュタイナー)
霊界と現界との境域を守護するこの霊は、人類進化の過程で、いろいろな仕方で人間の意識 の前に立ち現れました。そのもっとも重要なメッセージは、歴史的事実としてではなく、伝説、 伝承として伝えられてきました。ですから伝説、伝承は、昔、あれこれの人物が境域の守護霊とどのような出会い方をしたのか、どのように境域の守護霊から伝授を受けたのか、どのよう に霊界へ参入し、そこからふたたび物質界へ戻ったのかを示唆しています。



血に餓える必要などない、と学びます。 肉体で生きているときは血を必要としているとしても、肉体の外で生きるときには、血は必要ないのです。

人間は、自分が宇宙的な環境から切り離されている、と感じている限り、エソテリックな進歩をあきらめなければなりません。ですから、私たちの日常生活と私たちの宇宙環境との関係を問わなければなりません。

生活のあらゆる分野の指導者たちは、世界の動きを前にして恐ろしいほどに眠りこんでいるのです。


(「フランシス・ベイコン」)
彼の恐怖の一つはヨーロッ パが突然共産主義者たちに乗っ取られることで、そうな ると個人の自由が奪われると考えていた。日によっては、 ロシア人たちが行進するのが聞こえるようだ、何も彼ら を止められない、軍事力では誰もかなわない、と口走り、 一度など飲み過ぎて記憶が定かでなくなった後、彼の一番の恐怖が実現されてソ連が侵攻に成功したと確信して目覚めたこともあった。

ジャン・ジュネ「だれでも内面に自分だけの傷、他人 のそれとは違う傷を抱えている・・・・・・」

7/8
(ニーチェ)
「最も偉大な出来事。すなわち神は死んだ。ただ人間たちはそのことに気づかず、相続された価値のみを食い尽くしながら生きている。一般的怠惰と浪費。」その、神が、死んだ、トコロで。

(マルクス・アウレリウス)
まもなく土は我々すべてを覆い隠してしまうであろう。つぎに土自身も変化し、更につぎからつぎへと無限に変化して行く。この変化と変形の波の動きとその速さを考えて見る者は、もろもろの死すべきものを軽蔑するに至るであろう(中略)すべて君の見ているものはまもなく消滅してしまい、その消滅するところを見ている人間自身もまもなく消滅してしまう。きわめて高齢に達して死ぬ者も結局は夭折した者と同じことになってしまうであろう。


ヘーゲルが、コレラ菌による下痢に苦しみながら死に至った。


W・B・イエーツ
どんな心も二つに割かれてはじめて 生み出す力を持つ。
7/6
(「ドゥルーズとガタリの哲学とは何かを精読する」)こう考えることができる。最初に唯一前提されるのは、無底、無限定の「内在平面それ自体」であるが、そこから、あるいはそこである「観点」を選択し、ある「思考のイメージ」を選択すると同時にひとつの「内在平面」の創建が開始される。無定、無限定の「内在平面それ自体」は、ほとんど「カオス」と区別ができない。
(神なしの哲学ってことね ? 強度)


人間なんて抑えておかないと危険である。
それは非暴力的な潜性状態においてもそうである。

(W・J・ブライアン)
肉体と精神の弱者は消え去ってもいいという考えは、何と非人間的な教えではないか! これ以上、文明にたいして破壊的な教えがあるだろうか。


(柄谷行人)
 マルクス主義を形成したのは、エンゲルスである。エンゲルスは、マルクスのテクストの文字通り最初の読者であり解釈者だった。問題は、彼が、マルクスとは資質のちがった、ある意味で有能な思想家だったことにある。エンゲルスが「真のマルクス」を歪曲したというのは当たらない。エンゲルスの天才なくして、マルクス主義が実際にあれほどの神話的、宗教的力をもちえたはずがないからである。 それは、キリスト教を創りだしたパウロに似ている。パウロはイエスの死そのものを解釈しなおしたのであり、イエス自身はけっしてキリスト教の創始者たりえないのである。



日本(あるいは現代?、(人間間、社会))に(別意味の)信仰の自由 は無い。

(「中世哲学入門」)passioとは「受動、情念、苦しみ、受難」という意味があるが、
7/4
キリストが地球に結びつき、人に露われるようになったということ。


労働中に思っていたこと。
・貴方(キリスト)のこの真実さに比して、(貴方が)誘いもしない(人もいる)、ということはおそろしいほどの不義ではないのですか?と。
自分で独善的なかすかにほくそ笑むような匂いがしたから深められなかったけど。キリストへの問いかけ。
・あとは新エルサレム的存在者の匂い。
・キリスト存在がはじめからいたのなら、どう介入することを決めていたのか?(若干シュタイナー文脈)
・なぜ、労働中にキリストが異様に強くなるのか。
何となく何かを奪われ、断食、こつじきのような状態にモードが変わるからだ。その中でアッバ的な精神深化と見遣り。?いや、〈感〉がえることがほかにないからだ。?

7/3
(「シュタイナー秘教講義2」)
意志は、垂直線上に組み込まれて、下で拘束され、上へ解放されようとするのですが、私たちの感情は、宇宙の拡がりの中へ送り出されるのでなければなりません。そうすれば、感情は明るくなり、そして何かが感情を貫いていくのです。何かが私たちを貫きます。ちょうど大気を貫いて太陽が東から西へ移行しながらその光によって周囲を明るく照らすようにです。


(稲垣良典さん)
人間の能力は無限では決してない。しかしパスカルが言った通り「人間は無限に人間を超えており」(『パンセ』434)、そのように無限へと開かれた可能性を有することこそ人間の本質なのである。(いや、それは、キリストのことではないか?(と後出す))


(パース)(プラグマティズムの)「論理的であるためには人々は利己的であってはならない。……英雄的な自己放棄をなしうる者の推論だけが真に論理的である」と言う。


今日われわれは「知は力なり」という近代的原則を過信して環境世界・自然を征服し、利用することに専念してきた過ちの代価を払わされている。それは言いかえると、前述した「知識」を知の全体と見誤った過失の帰結としての行動主義の行き詰まりであろ

「善性」(bonitas)

講談社のKindle unlimited期間終わってる〜。。

7/1
現国家はいかにして正当化、正統化を得ているのか?

創造 という言葉
永遠不滅 のもののソウゾウでなければ =創造とは言えないのではないか(可滅するもののソウゾウ発生は不完全/失敗 と、言えそう ≠創造)
神がいれば、創造、だけ、おこなうのではないか?不滅のものだけを創造せざるを得ないのではないか?

では、、、、、分かんね



(シュタイナー)
魂は自分のからだの中に宇宙の力が生きている、と感じます。この宇宙の力はいたるところにあって、空間の一点であるからだに集中します。しかし、そのときの宇宙の力は、物理上の力となって現れるのではありません。外なる物質の力は重力となり、電力、磁力、熱力、光力 となって現れますが、この諸力が人体の中で働くときは、道徳の力となり、意志の力に変わるのです。

6/30
原初の状態においては「光の世界」と「闇の世界」が対立していたとするグノーシス主義的な神話がある。
マンダ教によれば、前者の中心は
「偉大なる生命(ハイイェー・ルベー)」で、それを囲繞(いにょう)して無数の「豊饒さ(ウトレー)」たちが祈禱をおこなっている。マンダ教の神聖地図にしたがえば、この光たちのあいだを天界のヨルダン川が流れて、そのまま地上のヨルダン川につながっているとされる。彼らが日常的におこなう洗礼儀式において、特にヨルダン川での沐浴が重視される根拠がこれである。

やがて天界では、「偉大なる生命」から順にヨーシャミーン、アバトゥル、プタヒルと呼ばれる三段階の流出がはじまるという。

最後のプタヒルの名称は、エジプト神話の「職人の神」から借用したらしい。他方、「闇の世界」の中心は「闇の主アドナーイ」で、女悪魔ルーハー、七惑星、黄道一二宮、および無数の怪物たちがそれに属していたとされる。

 あるとき、「光の世界」の最下位にいるプタヒルが、自らを造物主だと錯覚し、しかも「闇の世界」に属するルーハーと七惑星、黄道一二宮の助けを借りて、「この世界(ティビル)」を創造した。これが、我々が現在棲んでいるこの世界の起こりである。

ただ、プタヒルは悪なる物質から最初の人間アダムを創造したものの、どうしてもこれを起動させることができない。そこで、動力源として「光の世界」に由来する「内なるアダム=霊魂(アダカス)」を入れてみたところ、アダムは悪なる物質と光の霊魂の二重性を帯びた存在として一気に目覚めた。こうしてアダムは、光と闇が交錯する地点で人間意識を得て、この世界に誕生することになった。ちなみに、こんなものを創ったプタヒルは「光の世界」の最高存在である「偉大なる生命」から咎められ、帰還できなくなってしまう。
6/29 
ナグ・ハマディ文書内容


(「科学vsキリスト教」岡崎勝世)
その宇宙はアリストテレス=プトレマイオス的宇宙に基づくものであったが、しかし、それにはカトリック的世界観が絡みついていた。
第八天までのどの天体も単なる物体ではなく、例えば太陽には聖フランチェスコ、木星にはダビデ等々、一団の諸霊が配置されて固有の徳性を司り、人間の運命に対する影響力を行使している。
地球の中心=宇宙の中心にあるのが地獄、
地上が人間界(月下界)である。
天上界最下位の月は誓いという徳性を、水星は世の栄誉、金星は恋、太陽は賢哲と善知、火星は神の戦士、木星は正義、土星は黙想を司っている。
そして凱旋の諸霊の住む恒星を経て「原動天」(第九天)では、天使たちが宇宙全体に回転運動を与えている。最上位に位置する天堂(至高天)には至聖の人々の霊の居所と神の御座がある。そして彼の宇宙は、アリストテレスやプトレマイオス同様に、これ以上の広がりはなくここで閉じている


(マクルーハン)われわれはいつも王様の古い衣装は見えるが、新しい衣装は見えない

空海において、「四大相触れて音響必ず応ずるを名づけて声という」(『声字実相義』)と言われている
(この文だけでもおもしろい)(空海ほっとんど触れてきてないけど)


「知る者は言わず、言う者は知らず」(老子)
その果てで言うことはたのし ゆえに言う 
(聖霊的動態/加分動態)

(マルキオン派教説)
至高神は、自らとは縁もゆかりもない低劣な創造神が造った、自らとは縁もゆかりもない人類を、純粋な愛のゆえに、低劣な創造神の支配下から救い出して自分のもとに受け入れようとした。そのために至高神は自らの子イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた。

こういう図像もキリストの(ちから的はたらきの)前では無意味のような気もするけど。




……存在しない神は、存在しない世界(?)を、存在しないものから造った。何か種子のようなものを投げ落とし、下に置いたのである。この種は宇宙のあらゆる萌芽を自らの内に秘めていた。
(ヒッポリュトス『全異端反駁』七・二一・四 の中のバシレイデースの教説?)

(重要であるのは、必然以外には、なんら必然は存在しない、ということである(メモ))



6/27
(「宗教からよむアメリカ」)
「第二期目の大統領就任演説」に見られるのと同じように、リンカーンは神の意志は人間の思いをはるかに越えたところにあると考えていた。それは南軍と北軍の両者の思いを越えたところという意味である。 彼はこのように真理は人間の思いを越えて、神にあるのだということを信じることによって、自己絶対化に陥ることをつねに警戒しながら、「独立宣言」に表明された「自由・平等・幸福の追求」という普遍的真理を実現するためには、何をすることが、その時点での相対的善であるかを問い、選びとっていこうとしたのである。
6/26
現代キリスト教
教会

信 知・観 愛/はたらき

(「神とは何か」稲垣良典)
幸福の本質は人間の最高の能力による最高の働きとしての観想である、というのが知恵の教えるところである。(はたらき はまた別)(われわれはアリストテレス傘下か?)


なぜなら「神」という名で呼びかけられている存在はわれわれが把握できないだけでなく、近づくことすらできないほど限りなく遠く、高く超越的であると同時に、われわれ自身よりもわれわれに身近で、われわれの存在の内奥に現存する。つまり最高度に超越的であって内在的である、というのが神について深く思索した哲学者たちの一致した見解だからである。


神学という一種の教会


(「宗教からよむアメリカ」森孝一)
政教分離にあたる英語は、Separation of Church and State すなわち、「教会と国家の分離」であり、「政治と宗教の分離」(Separation of Politics and Religion)ではない。 「教会と国家の分離」とは、政府が特定の教会(宗教)に特別の便宜をはからないという意味である。公金を特定の宗教のために使うこと。政府が特定の宗教を宣伝すること。その人の信じる宗教によって、参政権に区別をつけたり、公務員となる場合に差別すること。政府が特定の宗教を国民に強制すること。政府が知りえる情報を、特定の宗教にだけ知らせること。これらのことが、「教会と国家の分離」すなわち政教分離にたいする違反である。
 しかし、特定の宗教が政治に関わること。これは政教分離に違反することではない。このあたりについての理解が、日本においては混乱しているのではないだろうか。


6/25
(「抗争する人間」)
原理的には、社会の絆とは犠牲者の制作であり、それの脱身体化(脱物質化、観念化)による聖別である。(むかつく)

犠牲者は、原父の名を賦与されて秩序の存立場所へと変換される。


われわれはなぜイニシエーション儀礼(あれこれの部族たちのような)を必要としないのか?
(いや、それがあったとしても?)



(「ギリシャ正教 東方の智」久松英二)
ニコライ・カサートキンの宣教の特徴
ニコライの宣教は、真に日本固有の教会の形成を目指していた。彼は日本語と日本の伝統文化を深く尊敬し、初めから聖書、典礼、その他のキリスト教諸文書を日本語に翻訳し、日本語による正教を発展させようとした。事実、ニコライが東京に移ってから典礼は日本語だけで執り行われた。ロシア人宣教師の数を意図的に制限したが、それは日本人にリーダーシップをとらせようとしたからである。



タタールの支配がロシアの教会にもたらしたもの、それは活発な修道運動である。多くの人が、タタールの支配は「神のこらしめ」、罪深き人間に対する懲罰だと考えて、人里離れたところで悔悛と祈りの生活にいそしむようになり、こうして、一三世紀以来北部の森林地帯に荒れ野の修道院(隠修修道院)や修道者群居地(ポスティン)が成立し始めるようになった。(ヤハウェ的なものがまた入り込んだみたいでおもしろい)


アンドレイ・ルブリョフ 至聖三者 
(神(父?)、イエス(キリスト)(子)、聖霊
がどれも人のかたちで


とくにアンティオケイア派の神学者は、この尊称(テオトコス)に否定的であった。同派の神学者であったネストリオスが異議申し立てをするのは自然の成り行きだったといえる。素直に聖書に従えば、マリアは受肉した御子を人間として生んだのであるから、単に「キリストを生んだ者」、ギリシア語で「クリストトコス」と呼ぶべきだと提案した。
(だが、〈テオ〉トコスとなったこと)
6/24
(キリスト教徒論的今日)
俺ら(ニホンジン)学問もないのによくまだ滅びてないよなぁと思った。(それは、逆に、とんでもなく、すごいことだ。)(いや、あるけど、は置いておく) 
キリスト教の心情が打ち込まれたことと、(それとは別のものかもしれない)彼らの理性信仰。
(キリスト教が彼らに打ち込まれたことの残滓のような)彼らのヒューマニティの中にかろうじて(他民族、他人種として)留められていることにより、存在を看過されている。
この先の歴史でなんらかの状況が揃えば、われわれは徹底して排撃されるかもしれない。(特に距離が近くなったり、共生状態になれば)
彼らの、(寛容な?)文明というものに対する(われわれの文明の中に彼ら(他人種)を住まわす、的な)自負。
だが、その、彼らでさえ自身達を救えないのだから、われわれも、

キリストを、心象のうちに見、
その、喜びを、得る者
それをキリスト教徒と名付けよう。(だが、こんな限定を越えての包摂)

(キリストとの)愛の心象球内においては(/焦がれると)、結局、人間の(われの)(/こちら側の)、血を流すことが、最大の、愛になりうること。互いに、(心象内で)同体のようになるならば、その先は、血という(肉が肉化したような)(まさに、ホントの、肉のような)ものを、流す、ことが、さらなる、あかし、のようなものに、ならん、こと。
(「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」)


「あなたがたが、〜しないうち(街を周りきらないうち、だっけ?)にもわたしは来る」が、ずーっと来ないこと。
もっとも救われていないものは誰か?を問われると、キリストを知りもしない者、ということが想像可能。
ほとんど現代においてはいない。(もちろん不可能な制約負っている方々もいる)
→今すぐにでも(来ることが)可能(な、前提は、満たされている)
とキリストと、心象内の速度を同じくする者にとっては、待望、可能



6/23

誰か分かんないんだよなぁ(wahyu tantianaって人の音楽のジャケ)デジタルか?
アンゼルム・キーファー


6/22
「フッサール 起源への哲学」
もし万物が、師(へらくれいとす)の言うとおり、文字どおり「一瞬たりとも」とどまることを知らないものであるとすれば(もとよりヘラクレイトスを師と仰ぐクラテュロスもこの主張に異存はない)、

何かが生成し姿を現わしたその「瞬間」には、それはすでに失われてゆくのであるから、何かが「何か」として姿を現わすということすら、実は成り立たないはずだ、というのである。もし何かが「何か」として姿を現わしているのだとすれば、それは、少なくともその何かが姿を現わしている「間」だけは何ものも過ぎ去っていないことのみを示しているはずだからである。
この事態は、「万物は流転してとどまるところを知らない」というヘラクレイトスの根本思想に、明らかに反している。かくして、この思想に忠実であるかぎり、
そもそも一度たりとも同じ川が同じ川として姿を現わすことすらない、と言わねばならないのである。「あなたは〈一度たりとも〉同じ川に入ることはできない」のである。そしてもし、「同じ川」ということすら「一度たりとも」成り立たないのだとすれば、そもそも何ものも現象しないのである。万物の根底で生じているはずの世界の根本は、そもそも「何ものか」として現象することすらないのである。現にそのように万物の根源の有りようを喝破したのであろう、当のクラテュロスはついには何も語らず、わずかに指の頭を微かに動かすのみであったという。


(ディディ・ユベルマン)
人々の政治的・美的な表象において、さらには、よく起こることであるが、彼らの存在そのものがまさに脅かされているという意味で、人々はさらされている。人々は常に消えていくべくさらし出され剝き出しにされている。この絶えざる脅威の状態において、何をなし、何を考えたらいいのか。人々が、自らが消えていくことにではなく、彼ら自身に対して身をさらすためにはどうすればいいのか。人々が出現し、形を取るためにはどうすればいいのか46。
6/20
(シュタイナー)
神々の語らいは、人間の語らいのように、伝達なのではなく、創造なのです


(斎藤慶典)
或る種の動物が言語という、従来の存在分節とは全く異質の分節機能を身に付けたとき、それは人間と成ったと言った方が正確かもしれない。

(井筒かハイデガー)
「形而上学を存在忘却から救い出し、真にその名に価する存在論としてそれを建て直すためには哲学者は詩人の言葉に聴かなければならない。詩人こそ存在の牧者であり、彼等にあっては詩作することが即ち存在を根源的に思惟することなのである」
6/19
(小室直樹)
日本では、儒教そのものはもう生きていないが、儒教による弊害はますます壮絶を極めている。そして、儒教自体はもはやエトスたりえていないが、官僚制度、受験制度という奇態な行動様式として残っている。

(「社会学史」大澤真幸)
ジャン=フランソワ・リオタール(Jean-François Lyotard,一九二四─九八)は、近代社会の変容を、『ポストモダンの条件』(一九七九年)で、「大きな物語(仏grands récits, 英grand narratives)」の消滅として記述しました。この場合の「大きな」というのは、内容が気宇壮大という意味ではなく、社会的な意味で大きいということです。つまり、大きな物語とは、社会の大多数の人に自明のものとして共有されている価値観や信念体系のことです。
6/17
感じとりなさい。
天の高みで
自己存在が没我的に生きていけるのを。
自己存在が霊を受けて思想の力の
高まりについていこうとするとき、
勇気をもって言葉を聴きとる。
言葉は人間の真の本性の中に
上から恩寵となって響いてくる。
6/16
(「日本人のための宗教原論」小室直樹)
ヨーロッパの近代資本主義、憲法はじめ近代法、代議政体はじめ近代政治制度などは、すべてキリスト教文明が生みだしたものである。ゆえに、近代化を徹底させるためには、イスラムの諸制度をキリスト教化しなければならない。キリスト教が生んだ諸制度と同型(isomorphic)なものに大改造しなければならないのである。
イスラム教国では、諸制度のキリスト教化は途方もなく困難、あるいは不可能である。なぜなら、イスラム教国においては、法律も社会倫理、道徳もすべて宗教に由来する。経済も社会・政治の諸制度も、宗教と分かちがたく絡みあっているのである。



 五世紀の初め、ペラギウス(三六〇頃~四二〇頃)という学者が、人間には意志の自由がある、と主張したところ、アウグスティヌス(三五四~四三〇)は、人間には意志の自由は絶対存在しないと真っ向から否定し、大論争となった。(?)



「マタイの福音書」において、イエスは、最大の戒めを問われ、「神と隣人への愛の戒め」と答えている。この愛は、アガペー(agape)と呼ばれ、無価値な人間をも愛する無条件の愛である。神が罪人たる人間に注ぐ、自己犠牲の愛である。



()
「言語についての対話から」において、ハイデッガーは「合図」を「言葉の根本的特性」(Grundzug des Wortes)と規定するとともに、・・

ハイデッガーの「合図」は、「合図は古来神々の言語である」(Winke sind Von Alters her die Sprache der Götter)というヘルダーリンの言葉に由来する。

「合図すること」 (Winken)について、次のように述べている。

根源的な語り (das ursprüngliche Sagen)は、
単に直接開示するのでも、ただ単にまったく隠してしまうのでもない。この語りは、両者が一体になったものであり、この一体のものとして、それは合図することである。
合図することにおいては、言われたことは言われていないことを、言われていないことは言われたことを、そして言われなければならないことを、指し示すのである。


6/13
(「創造と狂気の歴史」)
「ある人物の思想は、彼が傾倒した人物の狂気の影響を受ける」という考え方は、加藤敏が「思想的系譜におけるエピ‐パトグラフィー」と呼んだものです

6/11
(「創造と狂気の歴史」松本卓也)
(ブランショ)
詩人とは、その内部に透明さが生まれ出る者であり、彼の言葉は、それが真正で媒介する言葉であるならば、無限なものをつなぎとめ、限りなく拡張する精神の力を再びひき寄せ包含するものである。なぜならその言葉のうちで媒介者は消滅し、おのれの個別性に終止符をうち、彼がそこから生まれた境位へと、無感の境(l'aorgique)へと還ってゆくのだから。


「転移(Übertragung)」は、精神分析の概念であり、過去(幼少期)における養育者(父親や母親など)と自分との関係が、現在の人間関係のなかで再現されることを指します。


モーリス・ブランショ(一九〇七─二〇〇三年)の『文学空間』(一九五五年)は、「すべてが消えたとき、「すべてが消えた」が現れる」という否定神学的なロジックによって駆動された文学論であり、

(「三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学」)
 東京電力の原発が、同社の電力供給圏外である福島に立地しているのは、端的に言って、首都圏住民が、自分たちの暮らす地域にあることを望まない原発(NIMBY: Not In My Backyard)を、福島に押し付けてきたからである。福島を初めとした地方は、大都市圏内に民主主義を確保するために創出されたその外部、植民地に他ならない。
6/10
(ニーチェ)
人間が考え、熟考し、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を限定することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃めく一条の光が発生することによって初めて、従って、過ぎ去ったものを世界のために用い、また出来事[Geschehen]から歴史[Geschichte]を作り出す力によって初めて、人間は人間となる、ということは正しい。しかし、歴史[Historie]が過剰になると人間は人間であることを再びやめるのであり、あの非歴史的なものの覆い[Hülle des Unhistorischen]がなければ、人間は決して行動を始めることをしなかっただろうし、また、敢えて行動を始めることをしないだろう。

古代ギリシャ著作群の(作用力と似た)ようなヴェーダ・ウパニシャッド群

(「社会学史」大澤真幸)
多くの人が十分に吟味することなく信じている常識に、「人間は、近代化すると豊かになって幸せになる」、つまり近代化は人間の幸福を増進(あるいは実現)するという幸福仮説があります。これは、功利主義的な世界観をもとにした命題です。しかし、その仮説は本当だろうか? 『自殺論』は、この仮説を斥けることをひとつの目的としていたのではないか(日本の社会学者の富永健一さんはそう解釈しています)。


 とすると、(ルソーの)一般意志を導くためには、三つ重要な条件があります。 第一に、一般意志は数学の解答と同じように、必ず存在するということです。たとえば、日本人がまさに日本人という共同体として、何を欲しているか、何を欲しているはずか、ということについての正解が必ずあるのです。自明のように見えるけれど、これが一番重要な条件です。

「原発を廃棄すべきか」について国民投票するとします。たとえば、自分は有力電力会社の社員なので、「おれは原発が欲しい。そのほうが利益につながる」というとき、その欲望をそのまま投票に反映させてはダメです。そうではなく、自分の私的利害とは独立に、「日本人という共同体は原発を欲しているのか、欲すべきなのか」という観点から投票しなくてはならない。すべての人がそういう観点で投票してくれないと、一般意志は導かれず、ただ全体意志がわかるだけです。
6/6
(ヘーゲル)(「ドイツ観念論」村岡晋一)
ことばとは……他者にたいして存在するような自己意識である。ことばは自分自身から切り離された自己であり、純粋な自我=自我として対象化され、この対象化のうちでこの自己としてのみずからを保持しながらも、他者と直接に合流し、他者の自己意識ともなるような自己である。自己はことばにおいてみずからを聞き取ると同時に、他者によって聞き取られる。そして、この聞き取るということ(Vernehmen)が、まさしく存在が自己になるということなのである。
6/4 
「美に感嘆し、真を守り、高貴を尊敬し、善を決意する。
それは人間を、人生のなかで目的へ、行為のなかで正義へ、感情のなかで平和へ、思考のなかで光へと導く。そして、存在するあらゆるもののなか、宇宙のなか、魂の根底で、神の支配を信頼せよ、と教える」
(シュタイナー)
一方、私の思考内容は魂の中の像として立ち現れ、再び姿を消します。思考内容は人間の筋肉や骨よりも無限に価値あるものと感じられていますが、その思考内容は移ろいやすい像にすぎません。それは壁にかけた画像よりも、もっと存在感の薄いものです。画像は素材が崩れてしまうまで、ともかく存在し続けますが、思考像はすぐに消えてしまいます。それは絶えず現れては消えていきます。そのようなものとして存在しているのです。それにもかかわらず、人間の魂の内面は、このような表象像しか持っていません。魂とは移ろいやすい表象像の集まりなのです。
6/3
(「ドイツ観念論」村岡晋一)(フィヒテに関連して)
しかし、自我が「みずからを定立する働き」だとすれば、自我はみずからの真の本質を定立しなければならないが、自我の本質とはみずからを定立する自由な運動である。したがって、自我は必然的にみずからを、〈みずからを定立する自由の運動〉として定立しなければならない。言いかえれば、純粋自我みずからが自分を「見る眼」にならなければならない。
5/21
(河合隼雄(見田宗介対談集「超高層のバベル」))
今スクール・カウンセラーを常勤化する話があるのですが、待遇はいろいろ考えてもらっていいけれども、私は非常勤のほうがいいと思っています。どこかシステムから外れているからこそいいのです。自分の仕事をちゃんとやるのには野にいないとだめで、社会システムの外にいたほうがやりやすい。実際、私自身、何べん大学を辞めようと思ったか分かりません。ところが、臨床心理というのはまだまだ日本の社会の中で認めてもらわなければいけないし、そのためにがんばらなければいけないとなると、システムの中にいないとだめなんです。私の人生からいったら、どちらがよかったか分からないけれども……。
5/11
(「バタイユ」)
その特徴はなにだろうか。それは〈信じる者たちの共同体〉こそがほんとうの愛の共同体となることである。〈共に神を信じる者たち〉同士のあいだでのみ、真の共同性がありうる。一つの同じ信仰のうちに一致し(communier)、 一体化の感情 (communion)に結び合わされた真の共同体 (communauté) が可能なのだ。
(では、おずおずとキリスト・イエスが何か、何者か解らずも内心に掲げる ときがある ような人々のための、地下墳墓(や地下聖堂)でロウソクを灯し よろこび 共に持つ 人々の ーがあってもいいだろう)
4/27
(ステュアート・シム)歴史という概念に終わりがあることは明らかだとしても、歴史が終わることはない、私利私欲に駆られたイデオローグが終焉を宣言したとしても、歴史が終わりを迎えることなどはありえないというデリダの指摘は正しい。


共産主義の支配が終わった後(ロシアの場合、その期間は七〇年を超えた)、旧ソ連内であれほど急速に資本主義が復活した経緯について考えてみればよい。まるで、資本主義という亡霊がきちんと悪魔祓いされていなかったかのようだ。


4/27
Qioさんまた進化してるw



ボッティチェルリ


4/26
(シュタイナー)
『途上の光』の最初の言葉、「眼が見ることのできる前に、涙を流すのをやめなければならない」を取り上げて下さい。この言葉を今日も明日も、繰り返して取り上げて下さい。そうすれ ば言葉が生命を帯び始めます。そして、皆さんがその中に混ざり込もうとする雑念を排除するなら、この言葉が皆さんの存在の中心になって生き始めます。そして、その中心が自分の中からいろいろな思考内容を生み出して、限りなく生産的になるのです。そのとき初めて皆さんは、 何を克服しなければならないのかが分かってきます。いたるところで混ざり込んでくる正しくない思考を克服しなければならない、ということがです。

記憶は人生全体に重大な影響を及ぼします。皆さん、自分の過去の行為をふり返って見るとき、利己主義的な後悔の念にかられてはなりません。皆さんが思い出す事柄は、皆さんにとって、事柄をもっとよく行なえるようにするためにあるのでなければなりません。
大切なのは過去から学ぶことです。自分の魂によりよい能力を与えるために、記憶を用いるのです。私たちが想起するとき、受け身で回想するのではなく、一見まったくどうでもいいような事柄でも、それを想起することで学習するのです。そうすることができたとき、私たちは自分の魂の背骨を強化するのです。




既視感は、マルクス主義が凋落しはじめる「発端」の段階でも すでに存在しているというわけだ。凋落の源は、はるか前から存在するのだから。


平安時代にすでに使われていた最高の褒め言葉「いまめく」は、「モダンな趣をそなえている」という意味であった。

この、質 を剥ぎ取ったようなものはなんだ



〈メタボリズム〉?


4/21

ムンク 家系樹



ムンク
ジャコメッティの


4/14


フィリッポ・リッピ(洗礼者ヨハネの感覚)
フィリッポ・リッピ(聖母戴冠)
顔の密集群による天国での顔のような効果
フラ(僧)・アンジェリコ(天使のような)

4/13
ゲーテの方はシラーをどう見てたのか。
(シラーの方はゲーテを全面的で調和の取れた人間にして詩人と見ていた のは書かれてるけど。)


(りょうこさんの詩)(重体験すべきと感じていた詩)
それはとても暑く息苦しい船底
粗末な汚れたローブ
導かれそこへ来たと思った
暑い国をゆく船
苦難を喜びと変えよ!((私注:熱の重々しさが伝わる)

(しかし暑くて苦しい
そう
私はこのままここで死ぬのだろう
この嫌な匂いのする
息苦しい場所で
何もかも
腐るように死ぬのだろう)((このまま治らなかった時に向かう先))

わたしは恋焦がれていた
ふるさとの
小さな可憐な花たちが咲く
きらめく光に満ちた
ひんやりとした春((光の感度から一気に肌に突き刺さる冷気))

小鳥たちがさえずり
虫たちも忙しそうに飛び回っている
ときおり山から吹き下ろす
冷たい空気が
春の陽に温められたけだるさを
一掃する((これもまた心象が急転換される))

それは単なる断片だ((?何だろう))


私は熱を出した
苦しい二日を過ぎ
熱の下がったひんやりした朝

満開の花桃を見ようと
窓ガラスへ近づいた

そのときあの男がそこに写っていた((りょうこさんの中で何者なのか))
(アーモンド型の目をして
うつろにそこにいる。
断片のまま)((謎の断片という語))

窓を開けると

突然 春の命が
私を満たした。

私は驚いて
立ち尽くした

そして私は嗚咽した((満たされた情景とまた、嗚咽という生々しい身体性の落差))

あのアーモンド型の目をした男と
いっしょに
嗚咽した((誰だ))


わたしは 
ふるさとへ帰ってきたのだ

そしてその瞬間
男の苦しみは癒やされた

霊の力が花を咲かせているのを
共に見たからだ。((この男とはどういう関係性が結ばれているのだろうか))

わたしたちは
この時のないスペースに
存在しているのだ。

((追体験して自分の中に留めて、無意識の内に咀嚼させるべき作品だと思いました。それが何か自分に作用をおよぼしそうな感じ))


4/11
(イングリット・フェテル・リー)
なぜなら豊かさとは、ものを蓄積することではなく、感覚を活性化す るさまざまな質感の中に身を置くことなのだから。

(シュタイナー)
そして物質存在から離れたときの思考は、遠く恒星のところにまで飛翔し、恒星そのものの中で安らいでいるかのようです。境域の彼方にまで達したその思考は、恒星の中で安らぎます。そして私たちの感情は惑星の中で動き、私たちの意志は地球の働きにみずからを組み込みます。こうして思考、感情、意志は、宇宙の中で別々に分けられるのです。


ブルクハルトが、芸術、宗教、国家、〜(経済?)と拮抗したり、どれかが優勢になる形で、それぞれの時代や世界史の見方を動的に捉えた意味。

チマーブエ
これが、よかれとなる感性の違いを感じる。
時代と、ヨーロッパ人?の?


ジョット
単純に美しい


4/6

ロベルト・マッタ
マックス・エルンスト 
未来時の記憶を刻んでるかのよう


4/5
「イリュミナシオン」を再び開いたときだった、僕が恐怖を覚えたのは。精神の無秩序を『聖なるもの」などとはもう思えなくなった。ある題材に幾つも想念をもりこむこと、多数のイメージの中から選択すること、こういった文学の手法の行き着く果てのところで僕の心は動揺するようになってしまった。この極限のところに詩の独創性は宿っている。『ぼくの健康は脅かされた。恐怖がやってきた。こうランボーは書いている。サン・ディジェでの新たな体験(精神科インターンでの患者達の狂気の傾向、突然の粗暴さ、奇矯な叫び、化け物のように醜い顔、といった暗黒面)に衝撃を受けて、今まさに僕はこれと同じ精神の動揺を知ったところだ。〔略〕僕は、自分の詩の野心に反して、彼ら精神病者たちから遠ざかりつつある。そしてわかるだろう、僕は、こうした反応が詩を処刑するのではないかと恐れているんだ。
(一九一六年八月、テオドール・フラエンケル宛てのブルトンの手紙)
(一個の精神が動いている)

マッソン


4/2
LGBTQや環境活動も資本主義内における顚倒活動

聖フランチェスコ的なやり方、あり方、抗

(マルクス)
「人間は、まさしく対象的世界の加工形成のなかではじめて現実的に、一つの類的存在としての実を示す。この生産は人間の、仕事をしている活動的な類的生活である。この生産をつうじて自然は、人間のした仕事および人間の現実として現われる。したがって労働の対象は、人間の類的生活の対象化〔されたもの〕である。というのは、人間は自分を、意識のなかでのようにただ知的にだけでなく、仕事的、現実的に二重化するからであり、したがって、自分によって創造された世界のなかで自分をまのあたり見るからである。」
3/30
(何も生み出さぬ欠片)
働きかけについて
最大的には独裁者、全体主義者、王、神権的、〜、〜
一人のものに許すべきか?
否。皆が権力なしにそうなってほしい。 
→民主主義としてもう実現されて(しまって)いる
この 結果後の たゆたい

われわれは独善的権力(の発揮)を許していない(内心)
愛や真性や美があるもの以外(これも独善かは置いておいて)
人的体制はととのっている
(直近現代の良い部分 そういう人たちの存在)(全時代そうといわれれば、、、)


3/28
(「西洋哲学史」昭和堂 著者複数)
ベーメは、靴屋の職人であったが、銀の器に太陽の光があたって輝くのを見て、ひとつの発見をした。す なわち、神はそれが自己を現わすためには自己以外のものを必要とするということ、言い換えれば、神が自己の本質を現わすためには否定的な原理(悪)を必要とする、というのがそれである。


ソフィスト中の最大の人はプロタゴラス (Protagoras, B.C.480 頃-410頃)である。彼は「人間は万物の尺度である。 あるものについてはあるということの、ないものについてはないということの」ということばによって有名である


トラシュマコス (Thrasymachos, B.C.430 頃アテナイに来る)はプラトンの『国家」に登場し、「正義とは強者の利益に他ならない」と主張した人物としておなじみである。


(ソクラテスについて)
彼にはまた所かまわず自失して立ちつくす性癖があった。短いときは数分であったが、長いときは一昼夜立ちつくすこともあったという。その間は誰が呼んでも叫んでもびくともせず、忘我のまま硬直して立っているのであった。


3/27
(シュタイナー (金曜日のための)木曜日の詩)
偉大にして広大無辺なる霊よ、 あなたの命の内で私は地球での生を営む
あなたの内に私はいる。 あなたは存在する。
私はあなたの内にいる
案内人は私をあなたへと導いた 私はあなたの内に生きる あなたの霊性は 私自身の存在の原像である
あなたは存在する 霊は広大無辺な霊となった
神の至福は広がる 新たな世界創造へと あなたは存在する。私がいる。あなたがいる
3/19
労働を終えると裁く側か裁かれる側に?


海外の人間の漸時流入 
3/18
(シュタイナー)
 「おお自然よ、お前は私の肉体を破滅させるだけだ。私はお前と何の結びつきもない」
「思考と感情と意志にもかかわらず、私の内部では何かが現れては消える。私の本当の存在はお前とは何の関わりもない」。
この二つの思考内容は私たちの中に宇宙の謎を生じさせ、そして新しい見方を教えます。私たちは今、宇宙との結びつきを感じ始めるのです。そして自分を宇宙の中にあって、宇宙の過程に組み込まれている生命存在であると感じ始めます。

3/16
(バルデュス)
克服された時間、たぶんこれが芸術の定義として最良なのではないだろうか?
3/15


(イタリアン・セオリー 岡田温司さん)
ニュンフの「マニア」(mania)とは、記憶のマニアのことである。それはおそらくもっとも根源的な「マニア」である。というのも、この語の語根は、熱狂、錯乱した高揚、陶酔といったことを示すものではまったくなくて、むしろ「思考すること」、「思考しつつ想起すること」 それ自体(サンスクリットのmanyate、ゾロアスター教の聖典集アヴェスターのmainyeite はまさに思考を意味する)を指しているからである。「狂乱」(mainomai)と「思い出すこと」(mimnesko)「マニア」とムネモシュネとのあいだには、深い関連性があるのだ。


145


ベッティーニは、マルセル・モースの「贈与論」を手がかりに、それを解釈しようと試みる。このフランスの偉大な人類学者は、異なる文化や言語にまたがり、地理的にも遠く離れた場所を結びつける「ク ラ交換」や、神への贈与の必要性について論じたのだった。「クラ」がいったん第三者の手を経なければならないように、極北の供物にも第三者の手が介在している。


3/13
(シュタイナー)
人間の超感覚的な意識は、エーテル体の内部に或る種の像を生み出す力を見てとることができる。その力は、エーテル体が古太陽紀において、霊的本性たちの行為を通して最初の素質を得したときのことを像として表わすことができる。この最初の素質は、月紀と地球紀を通じて発達していく。


(アラン・ヴィルコンドレ「バルデュス、自身を語る」)シュールレアリスムで重要な点は、加入することより出ることだった。


私がイタリアを訪れたのは青春時代でした。一九一五年です。母がリルケと一緒に私に会いにきました。とても強烈で感動的な思い出です。リルケは子供たちとすぐに親しくなれる何かを持っていました。私たちはひそかな好意で結ばれていました。彼は私をヴァレーにある邸宅に迎えてくれたのですが、まわりの手つかずの風景はプッサンの絵のようで、おそらくそこで私は十七世紀のこの巨匠プッサンを偏愛するようになったのだと思います。

3/12
(ラース・スヴェンセン「退屈の小さな哲学」)
アリストテレス〔前三八四—前三三二〕が強調したように、僕たちはすべての主題において同じ水準の正確さに到達することはできず、主題自体が許す範囲の正確さで満足しなければならない

3/11
(シュタイナー)私たちの時代にふさわしい見霊体験は、まず自分の衝動、欲望などを個人的な関心から一般的、世界的な関心にまで高めるというやり方で、自分の道徳上の進歩をはかるという課題に応えることを求めています


その第一は思考の集中です。自分の作り出した思考内容に集中する行です。次は、意志に主導権を与える行、さらに快と不快のバランスをとる行、世の中との関わりの中で肯定的な態度に徹する行、偏見を排する行と続きます。

3/10
現代人の魂は、超感覚世界を理解することなしに、人生とのぎりぎりの関係を取り結ぶことができなくなっているからである。

3/8
(マルクス・ガブリエル)
「真理と方法」でガダマーが示してみせるのは、芸術作品の解釈も、およそ人間的な世界を理解することも、自然を理解するのとはまったく違った類いのものだということです。方法がなくても、人間的な真理を探求することはできるからです。
3/5
(リルケ)
いつでも被造物のほうに向けられて、
わたしたちがそこに観るのは、自由なものの鏡映にすぎない。
わたしたちに暗まされた鏡映だけ。あるいは一個の動物の、
もの言わぬ動物の見上げる眼が、どこまでも静かにわたしたちを貫いていること。
これが運命というものだ――対峙しているということ。
2/28

カルロス・シュヴァーべ エリュシオンの野


2/26
(絵画案)
1/28
「真剣な(/過ぎる)者の気持ち悪さ」
「信仰 の色動態」
1/29
「わたしたちと、わたしたちの自由を留保する愛の子の対比」
「星月夜とにんげん」
1/30
「ガイスト」
「原罪にも関わらずのその果ての」
「労働の軋み」
2/3
「応身的」
2/8
「暗闇の荒波と遠くに見える光」
「生きているキリスト」
「経験の織物の網目」

2/9
「人類のためにおぼろげに聳えている聖杯」
2/10
「一人の人間の現在状況を一幅の絵画に、その背後に、宇宙的な変化の様相を入れ子構造的に絵画で拡大的に重ねて」
「睡眠時に世界から開放されていることの幸せ」
2/16
「消失を願って、十字形に丘で手を広げる人間」
「エロヒム的キリスト」
「内なるナイフ」
「針」
「家魔」
「マグマ の描写」
「願われるヒトビト」
「小さな違和感という芽のカタチ」

2/26
「埋葬の埋葬の埋葬の埋葬の埋葬の」


2/10
やっぱりaiに自作の詩ポエトリーリーディングさせるのとか面白い(Qioさん)
VR空間(ARとかMRでもいいけど(現実空間寄りでも))の世界内に、キャラクター配置させて、そこに辿り着いて、キャラクタークリックすると朗読してくれる出会いとか面白そう。(近未来世界に対して、そういった形で残しておくのもいいかも)


(シュタイナー)
なぜなら、進化の理想に感動する力そのものが、
すでに進化の持つ浄福感を感じているのですから。


もしもその人たちが本当に思考を信用していないのなら、こういう疑問や謎に苦しんだりはしない であろう。なんと言っても、こういう疑問や謎そのものが、思考の所産でしかないのだから。 自分の中に思考に対する信頼感を育てることのできる人は、その信頼感の中に、人間の魂の力を 感じとっているだけでなく、その感情から、というか、自分の魂からも独立した、ひとつの宇宙的 本性をも感じとっている

2/6
人生は善と悪、美と醜などの間を行き来しています。人生は矛盾を孕んでいます。しかし、 私たちがどちらかに立ちどまらないでいるときにのみ、霊的であることの意味が分かるのです。


そのときの私たちは、矛盾にぶつかるのではなく、矛盾こそが人生であることを理解します。


重要な言葉があります。
「私は自分より上にいる人からも多くを学んだ。私は 自分と同等の人からも多くを学んだ。しかし自分の下にいる人からは一番多くを学んだ」。


思考内容が私たちに働きかける力 となって、私たちを取り巻いていることにも気づいています。私たちは、私たちが互いにどれほど憎しみや好意の思考内容を送り合っていたかに気づかされます。そのような思考内容が心の中に入っていったり、跳ね返されたりしていたのです。

2/4
(シュタイナー)
世界を豊かに感受することによって、心魂が事物のなか、世界のなかに導き出されるのに、私たちは気づきます。私たちの心は身体の内にあるのではなく、宇宙に属してい る、と気づきます。




Qioさんの自動作曲いいと思う。
ことばが音楽化されるのってやっぱ強い。

図書館に本返却してまた借りた。
結局前回のは、シュタイナーの「ゲーテ的世界観の認識論要綱」しか読み切らなかった。
今回は
「シュタイナー 社会の未来 講演録」 
「シュタイナーの美しい生活 建築、服飾、言語」(西川隆範)
「シュタイナー宇宙的人間論」
「トランスパーソナル心理技法」(諸富祥彦・トランスパーソナル心理学会)
「パンセ」(今だに本屋パラ読みで読んだことなかった)
2週間で若干以上図書館の蔵書が入れ替わってるの面白い。どう選定してくんだろうね、内部の人は。
前回無かったシュタイナーの本が3冊あったのは誰かが返したやつなのかなんなのか。

2/3
ヒルティが言ってた、父母に尽くす(ここまでの表現ではなかったと思うが)(じゃなくて愛す、だな。尽くす位なら俺だって形式的にはやっているのだから)者には生涯特別な祝福が伴うだろう。っていうのはほんとうだと思う。
自分ですらすぐ判るようにあからさまにみたいに訪れる。(小さい頃の何も無さ、半ば崩壊してた所を経ると、本当に数年に一回位、やるぐらいに限られるのだけど(あるいはただの心理的システムとして(祝福に感じられるものが)発生するのかもしれないけど。))(あと、ダビデの、ヤハウェに対して罪をおかし、あなたは御顔を隠したままですとかいう発言らへんの心理的イメージも関係していると思われ)


努力の為の場所
感情の居場所
思考の記憶力


1/30
(シュタイナー 秘教講義1 高橋巌さん訳)
そうなのです。良心の声は、高次の本性に由来するのです。良心の声は本来、ケルビームの 世界に生きているのです。良心の声は、ケルビームの世界から人間本性の中へ作用します。人間本性の深みから漠然と響いてくるのです。しかし、私たちの直観がケルビームの世界、良心の働いているその世界と出会うとき、その出会いはまさに圧倒的なものになります。それは私たちの人格にとっての最大の発見であるとも言えます。


1/29
(シュタイナー「ゲーテ的世界観の認識論要綱」)
人間の内には彼の人間的な個だけではなく、彼が属する民族の個も息づいている。彼の行為とは、彼の力によるものであると同時に、民族の力によるものでもある。自分の使命を果たすことによって、同時に民族共同体の使命の一部をも果たす。

その際重要なのは、彼の民族内における位置が、彼 の個体性からの力を十全に発揮しうるものであるという点である。これが可能なのは、民族有機体の中で、一人ひとりが自分のテコの支点を置ける場所を見出せるときだけである。彼がその場所を見つけられるか否かが、偶然に委ねられてはならない。


1/27
カルマの方が力強く働いている のかな?
意志と理解についてと魔術 リガルディ


(シ)
私たちの魂が身体なしにも、つまり霊的宇宙の中でも知覚できるようになったとき、まさに逆の意識が私たちに現れてきます。そのときの私たちは、太陽に向かって、これは私の心臓だ、 と語ります。月に向かっては、これが私の姿をつくったのだ、と語ります。雲に向かっては、 地上の私たちが自分の髪の毛に向かって語るのと、ほぼ同じように語ります。そのときの私たちは、地上の人間から見ると宇宙の万象であるものを、自分たちの生体と呼ぶのです。

(シュタイナー)
特に黄道十二宮にはっきりとした文字となって現れている恒星たちから「おお、人間よ、汝自身を知れ」、という宇宙の言葉が響いてきます。この恒星たちは、一団となって特定の形をとることで、この偉大な言葉を宇宙文字に表しているのです。(?)

経済や政治の問題なのか、それとも私(たち)の弱さ、心的状態の問題なのか、(投影、比率)(となんとなしの超越状態で)
1/26
要求されているのは真剣さと誠実さ(だけ?)
思考をしっかり保つことから→すべてのもの(、出来事・事象)への畏敬へ


思考はしっかり形づくることor保つこと
感情は畏敬に力強くあること
意志は勇気に〜 or調和的穏やかさに
だろうか?

絵画案
1/8
「私という死体を引きずって歩く私」
「ダイヤモンドが欠け、」
1/10
自分で建てた巨大な細い塔のようなものを自分でハンマーで壊そうとしている瞬間
1/19
「自由への内的動線と色味」
1/22
「神に剥奪され、追い詰められる人」
「明日を覆ってほしいもの」
「死と死と死と死と死と死と堆積」
「デグノホウゴーレム」
「神の生命海と単純な海」
「天の板に指を掛ける」
1/26
「「すべて善きものは神からくる」と言って片腕を挙げている洗礼者ヨハネ(の遠景)」

1/25
アストラル的なものを乱すもの。
情報もそうだろう。あと自分で消化、洞察、関連付けられない哲学的知識で、何とかなると思い彷徨うこと。ただ行き当たりばったりになるくらいなら、なしで済まして、醸成していく方が長期的にはわれわれにとっても、神や霊界を仮定する宇宙にとっても好ましく、目的に適っているのかもしれない。

しかしまた、私たちは次のことを自覚していなければなりません。――私たちが深く結びついている大地は、その表面がどんなに美しく崇高に現れていようとも、私たち人間を同時に非人間的なところへ引き下ろそうとしているのです。(私たちはこれらのことをすべて思考しますが、私たちの内部にも衝動、本能、欲望、情熱が 生きているのだとは考えません。私たちの内部に低次の人間本性がすべて生きているとは考えないのです。そしてそれが大地に属しているとは考えないのです。)このことを正直に告白することで、私たちは自分を真の人間存在にまで発展させるのです。そうできたとき、そうできたときの私たちは、眼を下へ向けて、人間的な発達を考えるだけでなく 、眼を等身大の高さに遠く彼方へ向け、いわば地球を取り巻いて、私たち人間存在を輪 の中に受け容れてくれるすべてを眺めるようになるでしょう。そのとき、すでに物質の次元で、引き下ろそうとする大地の深層の力に加えて、私たちを引き上げてくれる力の働きも始まっています。(日々じぶんの限界を迎えることも内面作業の過程としては似ている)

日の光であれ、星の光であれ、地上に送られてくる光を愛せることを、私たちはいつも意識しているわけではありません。いつも意識しているわけではありませんが、日の光を友のよう に熱く愛せることを意識するとき、神々が光をまとって地球の周りを回転していることが分かってきます。そして日の光がただ地上を照らすだけだとは思えなくなります。日の光が神々の衣裳になるのです。神々が輝く衣裳をまとって地上をさすらうのです。私たちの光の体験が叡 智になるのです。そのとき、神々は叡智を私たちの心に、私たちの魂に送ってくれるのです。 そして、私たちは感情の差異に気づくことによって、実際に上昇したのです。


日本人(というかイシキ)って時間は無いという感覚でいるのではないだろうか?(だがそれが何だというのだ)(→(シュタイナー ゲーテ的世界観の認識論要項))〈さらに現象という語では、単純に、空間内あるいは時間内に現われる知覚可能な事物、あるいは出来事を表現する〉
1/22
窒息死の利点


そろそろ自分の詩集を出しといてもいいのではないか?シンタイから切り離された別の人間として。(コレはボクじゃない、と)


オイルパステル?

(シュタイナー)
ここで、当時の私の内的な格闘を思い起こしてみよう。私は当時の諸哲学の思考過程を越えたが、それは容易ではなかった。しかしいかなるときも、ある事実を完全に自分自身から認めていたことが導きの星となった。つまり、身体とは無関係な 精神的存在としての自分が、純粋な精神世界に立つ姿を人間は 内的に見ることができるという事実である。
(でさえ自分の認識のために格闘していたということ。現代の、短絡的な、ハイ、上がり とは違ったものがみられる)


十数年ぶりに図書館で本を借りる。
「ゲーテ的世界観の認識論要項」(シュタイナー)
「心の哲学」(サール)
「ラカンの哲学」(荒谷大輔)
「魔法 その歴史と正体」(セリグマン)
「シャドウ・エフェクト」(チョプラ)
あまりにも身体的怠惰過ぎて言語によって細胞を循環させたい欲求。

1/21
サヴォナローラやウィクリフ・フスの生涯をまだ詳しく調べていない。あと背教者ユリアヌスも。(たぶんやっておくべき)

1/19
圧迫も長期に度が過ぎれば、道徳的水準の大幅な低下の正当性をもたらす。反逆さえ、、

1/18
不幸や絶望の利点


自殺への欲望、死への欲望、不安、恐怖の一人歩き
病のように人間に取り憑いている。
むしろそれが人間を(何かへの)対のように稼働させている。
生に擬態させられた何か
自我?ワタシ?イシキ?は寝起きと共にその強烈な明るさ(元気とかの意味じゃない)によってそれを隠し、沈めている。なおかつそれ(ワタシ)が永遠のものだと、時間意識とともに展開し始める。(この辺の出来事、仕組みはよく分からない)
恐怖しているにもかかわらず、しかるべくして死ぬ。それが目的であったかのように。私が引き寄せたかったかのように。私がそれ(死)であったかのように。私がそれ(死)を生み出したかったかのように。

死への欲望とエゴシステムの分離。意識の内実の/である死。
言葉をつかうことと死 無時間性
なぜ他者が!?!!!開かれに拓かれる生と他者の命 なんで!!!?
何かが顚倒シテイルヨウダガ それが人間にとっては貴重なものであるというようにみえること。

もっと死と親しめ。いや、これは、ワタシが語ってしまっていること。覆い隠していること。彼の声(覆い隠されてしまっている死)ではない。






1/17
単純にもう惨めだから働こうかな?
1/16
松村潔 氏

無職なら、そろそろ武道かスポーツでも毎日2時間位やった方がいいのではないか?
と、同一視された身体と思考にへばりついていない時に考えてみる。おそらく、それどころではない、と彼等は考えるだろう(明日の身体と思考は)

1/8
(ヤハウェ的心象の処分の必要性?)(まずいか?)
(あれは単純に人を地に留まらせ続けるようなもの)(ヤハウェ的神の心象的重し)
ワタシノシンショウヲカエヨ ?
(いつかは取り除かれる必要がある?)
(キリストは良い)(心象内で対象化(分かたれ)されてもほとんど害がない が そこにはまだ)



単純にうちの家族の問題は、相互信頼と愛のなさ。
別にどんな状況であろうとこれとかがあれば、乗り越えられる。
が、もちろん自分が持っていない。家系?
受動性と傍観、主体性のなさ。日本人的。待ち。


日本人に特有の心理的構造課題

怒り
存在を邪魔されているという心象


絵画案
11/22

まったくの小さい枯木に燦然と照らしている光


12/1

魔に足が捕らえられ、浸ること

手を組んだ死体(身体)に捉えられた霧のようなもの

球体のところどころに破れがあり、そこからつながっているイメージ


12/3

開かれ

思考を線で描く

おもての顔

火と水の対立

神の魂

12/9(土)

敗者

12/10

十字架形 掌と頭を上に挙げた人間

破綻と立て直し

12/17

,ある意味の勝利

掌を挙げこちらに向ける人

われわれの天使

地球交通

12/20

イエスの死体

12//24

螺旋の上と下の地平と色、様相

12/28

人生のつらい時 時期

神のような波

12/30

左半身が苛烈さに変わる自人物像

12/31

1枚の羽根か翼

ある一人の子が生まれる時の祝福

1/2

「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか?」とユダの顎下にそっと右手を添えるイエス(ユダ視点)(漫画チックすぎるか?)

「歪んだ薔薇と射し込む光」

「あなたに借りがある人の怯える目」

1/5

「神の愛」

「聖神という文字が人間に入ってくる像」

「悪霊 悪竜」

「薔薇の花のように空にかざす手」

「昇天」

「昇天するキリストの下を覆っている頭蓋骨に落ちてくる光の流体粒」

「神というやはらかい重し」

1/6

「ある壁の向こうに行けない人」

「外部の火」

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「切り取られ移植される草」

「赤ん坊の口にパンを入れる手」

「卵型宇宙について」
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イエスよあなたの素晴らしさも、あなたの素晴らしさも教えて下さい。神の御名よ。

イエスの名によりて生活したいもの

フィロカリア

(シオラン)
自分の病弱や不具に、私たちの存在は腐蝕される。そこから生ずる空虚を充たすのは、意識の現存だ。――いや、冗談ではない、この空虚こそが意識であるのだ。

あまりに美しすぎる土地に滞在すると、精神が退化してしまう。自我は、楽園と接触してい るうちに溶け去ってゆくのだ。
最初の人間が、周知のような選択を行ったのは、おそらくこの危険を避けるためであった。

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もうこんなん全部終わらせなきゃいけないのに終わらせ方が分からない。。
神よ、もう私の全てを終わらせて下さい(病気とかはなしでお願いします)(やむにやまれぬ祈り)

あなたは「神」の贈り物です。

()思い煩っていることは「神」にお任せすれば良いのです。なぜなら、「神」はあなたのことを心にかけていてくださるからです。


(奇跡のコース)
罪悪感をもたないマインドが苦しむことは不可能です。

わ〜い!😄