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キリスト教最大発行部数の月刊誌『信徒の友』の連載「聖なる光と祈りの空間」
執筆日:2023年11月25日(土)
更新日:2023年12月01日(金)
オフィシャルサイト(ポートフォリオサイト)
連載「聖なる光と祈りの空間」のはじまり
多摩美術大学大学院の博士号取得して修了した後にすぐに始まった仕事は、創刊50周年を迎えるキリスト教の最大の発行部数を誇る『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)での2年間の連載でした。連載「聖なる光と祈りの空間」は、聖書の学びや信仰の養いなどの基本を大切にすると共に、時代の変化の中で生まれてくる課題を信仰的にどのように受け止めたら良いのかという視点で大切にしてきた誌面の中、B5誌面で見開き2頁カラーにモノクロ写真とテキストで、聖なるものを知覚する場所とは何か?世界各地の祈りの場を写真と建築が専門の美術家が聖なる光を通して捉えるものでした。
この月刊誌の雑誌は、1964年4月に創刊されて以来、福音宣教の媒体であると同時に信仰の養いを目的として出版され、キリスト教会の信徒の必読書として成長したもので、日本基督教団に属するプロテスタント教会やミッション系の学校・病院・福祉施設などで購読されています。幼少期から都内の教会に連れて行かれたときには、どの教会にも置いてあり、よく目にしていました。幼いときは、聖書物語の間違い探しなどを楽しんでいました。有名な歴代の執筆者は、三浦綾子、加賀乙彦、木崎さと子などのクリスチャン作家や、日野原重明医師、料理研究家小林カツ代といった名を連ねています。つい最近、三浦綾子原作小説を実写化したドラマ『氷点2001 』を観て、いろいろ考えさせられました。
隠れた信仰生活
那須トラピスト修道院
![那須トラピスト修道院](https://assets.st-note.com/img/1700940102182-XTPtm8u09F.jpg?width=1200)
![那須トラピスト修道院](https://assets.st-note.com/img/1700940126972-UeDhxHTPPx.jpg?width=1200)
![那須トラピスト修道院](https://assets.st-note.com/img/1700940147919-5tDSBFTi3K.jpg?width=1200)
栃木県と福島県の境界に位置する那須山の裾野で隠世共住修道生活をしている修道女たちがいる。隠世修道生活の歴史は、主イエス・キリストに従うため世間から離れ、砂漠に退いた修道生活の父である聖アントニウス(251頃~356年)や聖ベネディクト(480頃~547年頃)をはじめとする修道者によるものである。清貧・貞潔・従順のうちに生きる修道生活は、那須トラピスト修道院(厳律シトー会)でも厳格に受け継がれている。シトー会の「聖ベネディクトの戒律」の根本精神は、主イエス・キリストの模範に倣う謙遜と従順であり、世間から離れ、祈りと労働による霊的な共同生活を営むことである。
修道女たちは、神にすべてを捧げ、隠れた貧しい生活を営むことで神の存在を証ししている。彼女たちの宣教は、神だけを求め、神にだけ向かって人々のために祈りを捧げる宣教であり、自己の存在で神を証ししているのである。つまり、隠れた信仰生活は、徹底して神への賛美に自己を捧げる「聖なる生活」であるといえる。
白い修道服を着た修道女たちは、今も祈り・労働・沈黙のうちに神を賛美している。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2014年4月号](https://assets.st-note.com/img/1700762237316-UWXiXvNQfm.jpg)
坐禅と沈黙
瑞峯院
![瑞峯院](https://assets.st-note.com/img/1700940238691-LJbRfPhNst.jpg?width=1200)
![瑞峯院](https://assets.st-note.com/img/1700940262211-dPYOfVYINk.jpg?width=1200)
![瑞峯院](https://assets.st-note.com/img/1700940279693-9yBNE0ltzb.jpg?width=1200)
フランシスコ・ザビエルから洗礼を受けた九州の戦国大名大友宗(1530~1587)は、細川ガラシャの墓(高桐院)があることでも有名な京都市北区の臨済宗の禅寺・大徳寺に瑞峯院を建てた。
まだ肌寒い春先の朝5時30分、瑞峯院の本堂である方丈では坐禅が行われていた。禅の修行の根本である坐禅は「調身、調息、調心」の三要素から成る。姿勢(所作)が整うと呼吸が整い、呼吸が整うと心が整・てくることから、「三位一体」のなせる業とも言える。
坐禅は私たちキリスト者が日々実践している祈りの所作の一つであ沈黙と関連しているのではないだろうか。沈黙は黙祷、黙想、観想なの物音のない状態や静かに落ち着いている態度である。沈黙は、「耳預けてわたしの言うことを聞け。沈黙せよ、わたしに語らせよ」(=233.31)、「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」(詩編37・7)とるように、神に向かう態度としての所作である。
祈りは沈黙に始まり、沈黙に終わる。沈黙を通して、祈りの言葉がえられ、祈りが豊かにされるのである。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2014年5月号](https://assets.st-note.com/img/1700762286177-NCNBjYmFdx.jpg)
信仰のよりどころバスチャン屋敷
次兵衛岩
![次兵衛岩](https://assets.st-note.com/img/1700940370294-7yOT6osvl4.jpg?width=1200)
![次兵衛岩](https://assets.st-note.com/img/1700940434938-tjH9RovInz.jpg?width=1200)
![次兵衛岩](https://assets.st-note.com/img/1700940387930-wwdn9GNKPS.jpg?width=1200)
![次兵衛岩](https://assets.st-note.com/img/1700940405982-dG36i8gOTO.jpg?width=1200)
日本で最初のキリシタン大名大村純忠(1533〜1587)が治めていた長崎県外海(そとめ)地方では、キリシタンたちは徳川幕府が発布したキリシタン禁教令による1614年の長崎の教会弾圧にもめげず、根強く潜伏し、信仰生活を守り続けてきた。
日本人伝道士バスチャンは外国人宣教師ジワン神父の弟子となり、長崎から外海まで伝道したと伝えられている。外海地方には今日でもキリシタンの信仰を強める「バスチャンの暦」(カトリックの教会暦と日本の陰暦を組み合わせたもの)などが伝承されているほか、バスチャンが追っ手を逃れるために隠れていた「バスチャン屋敷跡」がある。
また、日本人司祭トマス次兵衛(じひょうえ)(金鍔(きんつば)次兵衛)は長崎奉行で働きながら宣教師や信者らを励ましていた。しかし、正体が知られるとバスチャニ同様に逃走を続けた。最後に隠れていた場所が「次兵衛岩」である。
こうした場所は、キリシタン弾圧の中、潜伏して信仰を守り続けてきた外海地方のギリシタンの信仰のよりどころとして長く守り伝えられきた。歴史的・文化的特徴を物語る伝承地は、長く深い闇の中で輝。希望としての「光」を知覚する場所なのである。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2014年6月号](https://assets.st-note.com/img/1700763305871-qA7VAliKtn.jpg)
五島列島の潜伏キリシタン青砂ヶ浦教会
頭ヶ島教会
![頭ヶ島教会](https://assets.st-note.com/img/1700940581962-kjmTrM7RZT.jpg?width=1200)
![頭ヶ島教会](https://assets.st-note.com/img/1700940711362-iB0fui0ZQ4.jpg?width=1200)
![頭ヶ島教会](https://assets.st-note.com/img/1700940693072-pxqQKwUATB.jpg?width=1200)
九州の最西端に位置する五島列島。キリシタン弾圧から逃れてきた人々は、過酷な迫害にも屈せずに強い精神を持ち続けながらも、心身の苦労はもちろんのこと、経済的にもどん底まで落とされていた。「棄教する」と言えばそれらの苦しみから逃れることができたが、その一言を口にしなかった。
徳川幕府の禁教令から続いてきた250年以上の長い禁教と殉教の時代が1873年に終わり、キリシタンに信仰の自由がもたらされた。彼らは真っ先に自分たちの土地に「信仰の証し」である教会堂を建設した。貧しい生活の中から建設費を捻出し、労働奉仕もいとわなかった。老若男女を問わず、海岸から高台の建設地まで自分の身の丈や力に見合った煉瓦を背負って運び、教会堂を建設した。生活が苦しく藁葺(わらぶ)き屋根の小さな家に住んでも、青い空の下、皆がゆったり入れる「祈りの場所」をつくり、大きな声で共にオラショ(ラテン語の祈祷文)を唱え、ミサにあずかることがキリシタンの願いだったのである。
五島列島には祈りの場に込められた信仰の力がある。それは、今も光に満ちあふれているのである。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2014年7月号](https://assets.st-note.com/img/1700762317977-gF33rCPDWU.jpg)
外海の聖者ド・ロ神父
長崎・大野教会
![長崎・大野教会](https://assets.st-note.com/img/1700940016293-Fx1IKwiPjT.jpg?width=1200)
![長崎・大野教会](https://assets.st-note.com/img/1700940035264-PN7BHhJTF9.jpg?width=1200)
![長崎・大野教会](https://assets.st-note.com/img/1700940045720-Mp4m20FprY.jpg?width=1200)
1868(明治元)年、世界遺産モン・サン・ミッシェルで有名なノルマンディー地方出身のマルコ・マリ・ド・ロ神父(1840〜1914)は28歳で、「信徒(隠れキリシタン)発見」を成し遂げたブチジャン神父と共に長崎に渡来した。そして天に召されるまでの46年間、一度も帰国することなく、伝道と社会事業に終生貢献した。
キリシタンの故郷である長崎県の外海(そとめ)地方に、ド・ロ神父が住民と共に建設したのが大野教会である。1893年に竣工した小規模な巡回教会であるこの大野教会は、海岸沿いに少し平地があるだけの陸の孤島とも言える貧しい土地に位置する。
ド・ロ神父は地元産の玄武岩を水平に割った石を漆喰(しっくい)モルタルで塗り固めた独特の石積みの壁、通称ド・ロ壁を築いた。この壁は建築技法の希少性のみならず、土着の技法を活用し、地域の風土に密着した造形でもある。自然豊かな風景の中に建つ石造りの教会は、ド・ロ神父の故郷であるフランス北西部のヴォスロール村を彷彿(ほうふつ)させる。
彼はキリシタン弾圧に苦しんできた人々の貧しい暮らしに一筋の希望の光をもたらしたのである。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2014年8月号](https://assets.st-note.com/img/1700763336057-Qc3vGA7z3T.jpg)
建築家白井晟一の空間
茨城キリスト教大学・キアラ館
![茨城キリスト教大学・キアラ館](https://assets.st-note.com/img/1700941634591-HvFYcUWaz0.jpg?width=1200)
![茨城キリスト教大学・キアラ館](https://assets.st-note.com/img/1700941652596-bdYkPEPSSA.jpg?width=1200)
![茨城キリスト教大学・キアラ館](https://assets.st-note.com/img/1700941662116-z4GOPETHAR.jpg?width=1200)
茨城キリスト教大学のキャンパス内で最も閑静な場所に、ノアの箱舟を彷彿(ほうふ)させる赤いレンガの外観をもつ礼拝堂《サンタ・キアラ館がある。1974年に“孤高の建築家”と評される白井晟一(しらいせいいち、1905-1983)がアッシジの聖フランシスコの協力者であった修道女、聖クララ(ラテン語。キアラはイタリア語)が生きた時代の修道院をイメージして晩年に設計した建物である。「建築は精神の構築である」という白井氏の信念の表れでうるこの建造物は、建築学的にも非常に高い評価を受けている。
半地下の礼拝堂を持つキアラ館は、決して明るい空間ではなく、むしろ薄暗さを感じる。闇を含んだ光によって表現された雰囲気は、「死」では終わらない天上の世界を意識させられる建築空間である。木と石で構成された礼拝堂は秩序立った精神を現しているかのようであり、修道士がお互いに呼び掛け合っていた「メメント・モリ」、すなわち「汚の死を覚えよ」という言葉が聞こえてくるような聖なる光の空間だ。
礼拝を終えて外へ出ると、生き生きとした力強い光が神の泉からあふれでてくるような強烈な輝きを感じる。そして、私たちは常に神の光て照らされていることを知るのである。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2014年9月号](https://assets.st-note.com/img/1700763353182-D9mbMuKXVv.jpg)
神への信仰と集い
日本キリスト教団まぶね教会
![日本キリスト教団まぶね教会](https://assets.st-note.com/img/1700942191553-dTl9EpJrsx.jpg?width=1200)
![日本キリスト教団まぶね教会](https://assets.st-note.com/img/1700942203023-P7QhWLbuzz.jpg?width=1200)
![日本キリスト教団まぶね教会](https://assets.st-note.com/img/1700942212583-Hx0ly7HEhH.jpg?width=1200)
緑豊かな川崎市麻生区にあるまぶね教会は、なだらかな坂を登った小高い山の中腹に立つ。2層空間をもつ会堂は、斜面地の地形を利用することにより、1階のメインエントランスや集会室などの諸室から山、側の2階の礼拝堂へと垂直的な上昇感を感じさせる空間構成となっている。そして円形、集中式、パシリカ式のいずれにも対応できるように、礼拝堂の会衆席は自由に配置できる個別の椅子である。これは人間と人間の平等な関係を現してもいる。
聖壇の天井はトップライト(天窓)になっており、明るい外光が降り注ぐ。そのため、岩のような鉄筋コンクリート造の打ち放しの地肌を見せる礼拝堂の中に、純白の光に満ちあふれた神聖さを醸しだしている。また礼拝堂の天井は、飼い葉桶の布を思わせるようなゆるやかな曲面になっている。夜は天井からランダムに吊るされた小さな照明の点光源が星空のように光り輝く。
まぶね教会は神と人間の垂直軸と、人間と人間の水平軸の結び目としての十字架を具現化すると同時に、いと小さき者と共に生きるイエスを宿す飼い葉桶のような聖なる空間である。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2014年10月号](https://assets.st-note.com/img/1700763371740-5J7mQueXvs.jpg)
町の光となりたい
沖縄・聖クララ教会
![沖縄・聖クララ教会](https://assets.st-note.com/img/1700942604758-GVtCGfrips.jpg?width=1200)
![沖縄・聖クララ教会](https://assets.st-note.com/img/1700942614466-F8V9FU8AmL.jpg?width=1200)
![沖縄・聖クララ教会](https://assets.st-note.com/img/1700942623266-MXZi12q6a9.jpg?width=1200)
1947年、宣教師であるカトリック司祭らによって、沖縄の地に種が蒔かれた。後に得られた実りのひとつが、聖クララ教会の愛称を持つカトリック与那原教会である。
1945年の敗戦で、沖縄は全土にわたり疲弊していた。衣食住の欠乏、医療施設の不備、教育環境の崩壊、戦争で働き手を亡くした家庭の貧窮など、対処すべき難問が山積し、悲惨な重苦しい忍従の時代だった。教会はこうした必要に対して活動を行う一方、戦災でうちひしがれた人々の心を癒やす憩いの場になった。
そんな時代から今に至るまで、聖クララ教会は地域住民から愛され、「与那原の宝」と言われてきた。「『持ちつ持たれつ』ではなく、『持たれつ持たれつ』です」と言う地域住民の言葉からもわかる。
働きの中心を担ってきた修道女たちが神の愛(アガペー)を実践することによって、種は多くの実を結んだ。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5・16)という聖句が成就するかのように「与那原の光」となったのである。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2014年11月号](https://assets.st-note.com/img/1700763387412-V51jDu64hA.jpg)
内なる光による救い
ヴォーリズ記念病院・礼拝堂、五葉館
![ヴォーリズ記念病院・礼拝堂、五葉館](https://assets.st-note.com/img/1700943886244-Kj8RDjoGgk.jpg?width=1200)
![ヴォーリズ記念病院・礼拝堂、五葉館](https://assets.st-note.com/img/1700943897868-AWyCGF5uje.jpg?width=1200)
![ヴォーリズ記念病院・礼拝堂、五葉館](https://assets.st-note.com/img/1700943908710-jXf9qAynOM.jpg?width=1200)
アマチュア建築家からの出発であったヴォーリズは、建築そのものをキリスト教精神の表現と捉えていた。建築設計は、依頼者とさまざまな専門性を持った技師たちの協力によってなされる総合的な営みと考え、建築家が持つ作家的個性の表現とは異なる建築活動を展開した。建物の風格はその外観よりもむしろ内部空間にあるというのが持論だった。
建物の意匠よりも建築空間の雰囲気を重要視したことは、この礼拝堂の窓の設計からも見てとれる。当時の日本において不治の病として恐れられていた結核。その薬がなかった時代、十分な日光を浴びることと、風通しが良い新鮮な空気を吸うことが療養には重要であった。そこで、ヴォーリズ記念病院(当時は近江療養院)の結核療養所の五葉館(1918年築)や礼拝堂(1937年築)の内部は、太陽が一日中射し込み、風が建物の中を通り抜ける空間となるように配置されている。
またヴォーリズは、光が人間の心に大きな影響を与えると考え、常に建築空間の光を大切にした。「病客」がチャプレン、医者、看護師たちと一緒に過ごせるヴォーリズ記念病院には、「ケア(心遣い)とキュア(治療)」という神からの光の救いが満ちているのである。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2014年12月号](https://assets.st-note.com/img/1700763402717-L6TCczgKtT.jpg)
開かれた教会は「神の家」
日本基督教団大宮教会
![日本基督教団大宮教会](https://assets.st-note.com/img/1700944470285-enXOb0HvyY.jpg?width=1200)
![日本基督教団大宮教会](https://assets.st-note.com/img/1700944479050-gGyFiVtIIu.jpg?width=1200)
![日本基督教団大宮教会](https://assets.st-note.com/img/1700944490947-zoJ4vbWPxf.jpg?width=1200)
大宮教会は埼玉県最大のターミナル駅である大宮駅近くに位置している。交通の要衝であることは、商業的にも繁栄していたコリントの町を想起させる。主はパウロに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。……この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18・9~10)と語られている。つまり、この町にも神の家族がたくさんいるのである。
その人々を招くだけでなく、抱き寄せ、吸い込むかのように立っているのが、この会堂の象徴である白い鐘付きの尖塔(せんとう)だ。この十字架塔につけられた「信・望・愛」の3つの鐘は21年間、1日も欠かすことなく、平和の御心を象徴する音を正午に地域に響かせている。
この教会は、我が国の教会堂建築を代表する建築家奈良信氏が最後に手がけたものである。そのつくりは華美でも贅沢(ぜいたく)でもなく、清らかで明るく、質素かつ禁欲的である。低廉な建築でありながらも、奈良氏の人柄を思わせるような気品のある聖なる空間である。
大宮教会は、すべての人を喜びあふれる神の家族へといざなう「神の家」である。それは社会に開かれた教会のあるべき姿であり、聖書の御言葉に生きる共同体だと言える。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年1月号](https://assets.st-note.com/img/1700763417972-btbCABTgBQ.jpg)
イースターエッグの教会
茅ヶ崎シオン・キリスト教会と聖鳩幼稚園
![茅ヶ崎シオン・キリスト教会と聖鳩幼稚園](https://assets.st-note.com/img/1700958012006-4yUwdnYs4u.jpg?width=1200)
![茅ヶ崎シオン・キリスト教会と聖鳩幼稚園](https://assets.st-note.com/img/1700958022378-S2FH6Rd87o.jpg?width=1200)
![茅ヶ崎シオン・キリスト教会と聖鳩幼稚園](https://assets.st-note.com/img/1700958033785-NsUeVxgqoQ.jpg?width=1200)
複合施設の体を成す茅ヶ崎シオン・キリスト教会と聖鳩幼稚園は、神奈川県南部の相模湾沿岸地帯「湘南」の中心、茅ヶ崎市の住宅街に位置する。2002年、この教会はある問題をめぐって信徒の半数が去ってしまうという、教会存続が危ぶまれる大きな痛みを覚えた。
一方で、旧会堂は耐震問題から建て替えを余儀なくされ、新会堂で建築することになった。新しい建築に求めた方向性は、イエス・キリストが中心の建物、地域に親しまれる建物、次世代に向けた建物であった。これらを実現するため現代建築家の手塚貴晴氏、手塚由比氏が提案したのは、幼稚園の園舎が礼拝堂を取り囲む、素朴な楕円の木造平屋建ての建物である。礼拝堂の天井や壁面には、杉の木から切り出れた2万本以上の細い木材が凹凸を出しながら張り巡らされている。それはイザヤ書にあるエッサイの株に生えた新芽や若枝を想起させ、そこに天から希望の光が降り注いでいるかのようである。
昨年完成したこの建物は、礼拝堂を黄身、幼稚園を白身とするイ・スターエッグのようである。それは、「主の家」としての礼拝堂と「神の庭」としての幼稚園が一体化されて復活した、教会の姿でもある。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年2月号](https://assets.st-note.com/img/1700763433593-RnFDfeuWrM.jpg)
福音の形
日本基督教団九段教会
![日本基督教団九段教会](https://assets.st-note.com/img/1700958290795-0BsR3YHlQE.jpg?width=1200)
![日本基督教団九段教会](https://assets.st-note.com/img/1700958264997-oPc2AXbjxE.jpg?width=1200)
![日本基督教団九段教会](https://assets.st-note.com/img/1700958275172-M0E8MIC1bD.jpg?width=1200)
靖国神社の隣に建つ九段教会は、ジョン・ウェスレー(1703~1791)の信仰を継承するメソジスト教会として、140年前の1875(明治8)年に近隣の神田で伝道の歩みを始めた。ジョン・ウェスレーは、誰にでもわかる単純素直な飾り気のない言葉による神の救い、聖霊の確かさ、キリスト者の完全性などを語り、福音に生きた。
岩の上に建てられたような外観を持つ九段教会は、1995年に竣工した。それは福音という固い岩の上に教会を建てようとした、ジョン・ウェスレーの信念を受け継いだ意匠であると言える。
尖塔が特徴的な建物は、永続的に未来にはばたく教会として、福音を宣べ伝えていこうという揺るぎない姿勢を建築で表現している。九段教会は、この設計を手がけたクリスチャンである大岡山建築設計研究所所長の田淵諭(さとし)氏の「建築は形そのものも信仰のひとつの証でありたい」という言葉を具現化した、聖なる建築形態なのである。
九段教会の人々は、今も靖国神社がある九段の地で神の御言葉を正しく語り続けている。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年3月号](https://assets.st-note.com/img/1700763453353-G7N25XbrrD.jpg)
イエス・キリストの誕生の地
パレスチナ 聖誕教会
![パレスチナ 聖誕教会](https://assets.st-note.com/img/1700966116824-nVpmCMd2Gz.jpg?width=1200)
![パレスチナ 聖誕教会](https://assets.st-note.com/img/1700966132652-v1MvtyCeLg.jpg?width=1200)
![パレスチナ 聖誕教会](https://assets.st-note.com/img/1701373109264-pgeqli6pSG.jpg?width=1200)
イエス・キリストの生誕地ベツレヘムは、エルサレムから約10キロ離れた小高い丘陵地に位置する。1995年以降パレスチナ自治区に属してから、この町に入るにはイスラエル側の検問を経なければならない。エルサレムと隔絶されたこの町は、閑散としていて、緊迫した空気が漂っている。その地に建つ聖誕教会はまるで要塞のようである。
イエス・キリストが生まれたとされる洞窟の上に建てられたこの教会は、ローマ皇帝コンスタンティヌスが325年に建設した現存する世界最古の教会である。
聖堂はローマ・カトリック教会、東方正教会、アルメニア教会によってそれぞれ聖域が決められた共同管理によるものである。東方正教会の祭壇がある地下洞窟には、イエス・キリストが生まれたと伝えられている飼葉桶の跡があり、東方の博士たちを導いた星をかたどった銀の星飾りであるベツレヘム・スターがはめ込まれている。
今日も世界中から巡礼に来た人々によって、この地下洞窟の中で「きよしこの夜」が歌われていることだろう。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年4月号](https://assets.st-note.com/img/1700763472257-O3uZLJamR3.jpg)
ヴィア・ドロローサの終着点
エルサレム 聖墳墓教会
![エルサレム 聖墳墓教会](https://assets.st-note.com/img/1700966193822-eUai78uq0i.jpg?width=1200)
![エルサレム 聖墳墓教会](https://assets.st-note.com/img/1701372635128-A7ukyeJFbo.jpg?width=1200)
![エルサレム 聖墳墓教会](https://assets.st-note.com/img/1700966221373-7QmxMvAZO6.jpg?width=1200)
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の人々が祈り暮らす街、エルサレムに聖墳墓教会はある。そこは主イエス・キリストが十字架で処刑されたあとにその遺体を埋葬した墓があるとされる場所で、ゴルゴタの丘があったとも言われる。その場所へは、旧市街のイスラム教地区から西側のキリスト教地区へとヴィア・ドロローサ(イエスが最後に歩んだ悲しみの道)を1kmほど歩くと到着する。
教会の入口付近には赤い長方形の大理石がある。この場所はアリマタヤのヨセフがイエスを十字架から降ろし、石の上に横たえ、香油で清められた亜麻布で包んだ場所とされている。香油が染みついているというその石に、ある人は口づけをして祈り、ある人は家族の写真をその上に置いて祈り、ある人は手にろうそくを持ちながらひざまずいて祈っていた。
その奥にあるゴルゴタの丘だったとされる場所は、外部からの陽光があまり射し込まない場所だ。しかし、数え切れないほどのろうそくの明りが、暗い空間を光に満ちあふれた聖なる空間へと変容させていた。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年5月号](https://assets.st-note.com/img/1700763491706-NVAe9o4HWO.jpg)
祖先の信仰への敬意
エルサレム ユダヤ人墓地
![エルサレム ユダヤ人墓地](https://assets.st-note.com/img/1700966259350-EnukWxy80Y.jpg?width=1200)
![エルサレム ユダヤ人墓地](https://assets.st-note.com/img/1700966282570-UhkKAuEw8y.jpg?width=1200)
![エルサレム ユダヤ人墓地](https://assets.st-note.com/img/1700966296216-iaUiGh4iaJ.jpg?width=1200)
エルサレムのユダヤ人墓地は、エルサレムの東にあるオリーブ山にある。オリーブ山は主イエス・キリストがいつも祈っていた場所であると同時に、昇天した山と言われている。
多くの墓の上には小石が置かれている。ユダヤ教では、神の命令を意味するミツバと呼ばれる数百にも及ぶ戒律がある。そのひとつに死者を葬り、墓をつくり「死者を敬え」というものがある。
現在のように立派な墓石がなかった当時は、小石などを数多く集めて墓の代用としていた。その小石が自然に散らばればまた集めて整えるという行為が繰り返されてきたことから、現在でも小石を置くことが死者を敬う行為としてユダヤ人の習慣になったのではと言われている。
聖書の民ユダヤ人の墓参は、日本人が墓参りで先祖供養するのとは異なり、神の御言葉を堅く守ってきた祖先の信仰に敬意を捧げるのである。この地に立つと、その尊敬の念が光として墓地を覆っているかのように感じられる。それは、「あなたの御言葉は、わたしの道の光わたしの歩みを照らす灯」(詩編119・105)だからである。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年6月号](https://assets.st-note.com/img/1700763528738-PHMonLJE8c.jpg)
共同体としての修道院
トルコ カッパドキア
![トルコ カッパドキア](https://assets.st-note.com/img/1700966331077-29BW7qdHpZ.jpg?width=1200)
![トルコ カッパドキア](https://assets.st-note.com/img/1700966342742-W5jETm1ySA.jpg?width=1200)
![トルコ カッパドキア](https://assets.st-note.com/img/1700966360504-0enYZKOwpf.jpg?width=1200)
トルコ中南部のカッパドキアの景観は数百万年前に火山の噴火によって生まれ、見る者を驚愕(きょうがく)させる。この地にキリスト教徒は4世紀ごろに入ってきた。彼らはこの土地特有の奇岩に穴を掘り、地下都市を築き、多くの洞窟教会や洞窟修道院をつくって信仰を深めていた。
キリスト教徒にとって信仰の支えになったのが、「カッパドキアの三星」と呼ばれる、父と子と聖霊の三位一体論を唱えた3人の偉大な教父である。その1人のバシレイオスが提唱したのが新しい修道院活動だ。
彼が定めた修道網領のひとつは、修道士が独居生活ではなく、共同生活をすることだった。当時の修道の基本が独居生活であったことを考えると、これは画期的であった。
修道生活の目的は世俗社会からの悪影響を遮断し、神への愛と隣人愛に生きることであった。それは統制のとれた規則正しい共同生活の中で、祈りと労働に励む信仰生活を送ることを意味していた。
現代においてもカッパドキアでは、洞窟と人間との深い関わりが脈々と受け継がれている。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年7月号](https://assets.st-note.com/img/1700763545458-0B9nUsXiMN.jpg)
光の融合アヤソフィア大聖堂
トルコ イスタンブール
![トルコ イスタンブール](https://assets.st-note.com/img/1700966396227-fB37vj35FJ.jpg?width=1200)
![トルコ イスタンブール](https://assets.st-note.com/img/1700966407765-7X3eYXSola.jpg?width=1200)
![トルコ イスタンブール](https://assets.st-note.com/img/1700966418603-j8cpSncpEQ.jpg?width=1200)
ビザトルコの最大都市イスタンブールにあるアヤソフィア大聖堂は、ビザンチン建築の最高傑作と評されている。6世紀の東ローマ帝国時代に完成した。15世紀にオスマン帝国の占領時にモスクに転用され、現在は博物館として公開されている。
聖堂内には数多くのモザイク画があるが、注視したくなるのが2階の《デイシス》というタイトルの作品である。現在では一部しか残っていないが、それまでのイエス・キリストを描いたモザイク画より立体的にキリストの顔が描かれている。さらに窓から射し込む光が当たる場所と当たらない場所に一致するようにイエス・キリストの首、手、顔の陰影がつけられているのは、光を作品に効果的に取り入れようとしたためでないかと思われる。
聖堂はバシリカ式によるアブスと呼ばれる半円形の祭壇に向かう水平軸と、40個の小窓がある集中式の大ドームから射し込む光による垂直軸が融合した様式である。アヤソフィアはこれらの2つの軸が融合した聖なる光の空間なのだ。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年8月号](https://assets.st-note.com/img/1700763556964-IAFDMIAmvv.jpg)
光の礼拝堂
フランス ル・トロネ修道院
![フランス ル・トロネ修道院](https://assets.st-note.com/img/1701371227140-F6fyUoAJuF.jpg?width=1200)
![フランス ル・トロネ修道院](https://assets.st-note.com/img/1700959387668-kRAcKYpmcp.jpg?width=1200)
![フランス ル・トロネ修道院](https://assets.st-note.com/img/1700959400357-vl3UziOdau.jpg?width=1200)
ル・トロネ修道院は、南フランス、プロヴァンス地方の森に囲まれた谷間にある。さほど規模の大きくないこの修道院建築は、1098年に誕生したシトー修道会を代表する建築である。シトー会修道院は労働による経済的自立と安定的かつ禁欲的な修道生活を営むことによってヨーロッパの社会や文化に多大な影響を及ぼした。
中世を代表するシトー会修道院の修道院長である聖ベルナールが建てたこの建築には、彼の清貧思想が影響を与えていたと考えられる。建物の材料は身近な場所から掘り出された石材のみで、装飾を一切施さない粗っぽい仕上げである。建物ばかりでなく、床、天井、壁、ベンチにいたるまで、すべて同質の粗い石だけでできあがっている。
そんな内部は粗い石という建築材料が持つ物質性、素材性を徹底的に肯定することにより、光と空気と石のみの空間を形成する。そして、彫刻やステンドグラスや絵画などの図像によってキリスト教らしさを醸し出すことを拒絶する。だからこそ、そこは背後に存在する神を見いだすことによってのみ生まれる聖なる空間なのである。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年9月号](https://assets.st-note.com/img/1700763572759-ompEId5HbS.jpg)
光の回廊
フランス ル・トロネ修道院
![フランス ル・トロネ修道院](https://assets.st-note.com/img/1700966765221-brunb7Wph0.jpg?width=1200)
![フランス ル・トロネ修道院](https://assets.st-note.com/img/1701370968121-Iiv3kGnWLp.jpg?width=1200)
![フランス ル・トロネ修道院](https://assets.st-note.com/img/1700966788816-lnIZXfRNtJ.jpg?width=1200)
シトー会修道院長の聖ベルナールは、壁で囲まれた修道院の中で生活をする人々について、次のように語っている。「真に回廊は天国であり、規律という城壁に守られた地区で、その中には、掛けがえのない富があふれているのが見える。同じ召命を受けた者が、同じ場所に住むことは、何よりの幸福である。(中略)ここにあるのは神の陣営なのだ。なんと恐るべき場所。ここには、神の家(教会)と天国への扉しかないのだ」(『聖ベルナール小伝』ピエール・リシェ著、稲垣良典、秋山知子訳)
フランス南部のプロヴァンス地方にあるこのル・トロネ修道院の回廊に囲まれた小宇宙でも修道士たちは神を賛美し、謙遜に仕え合い、共感し合い、祈り、労働する日々を営んでいる。
彼らは、円を描いて回廊を歩くことで求心的に黙想を深め、人間の「俗」は遠心的に関心の外に投げ出されていく。そして、意識が肉体的なものから霊的なものへと転換され、中心点である主イエス・キリストの存在が見えてくるのである。修道院の回廊は、黙想という行為がつくりだす聖なる世界である。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年10月号](https://assets.st-note.com/img/1700763584553-TIoeRKyull.jpg)
光の沈黙
フランス ロンシャンの礼拝堂
![フランスロンシャンの礼拝堂](https://assets.st-note.com/img/1700966986582-cmorQYoMJt.jpg?width=1200)
![フランスロンシャンの礼拝堂](https://assets.st-note.com/img/1700966926068-19xL2LoPIi.jpg?width=1200)
![フランスロンシャンの礼拝堂](https://assets.st-note.com/img/1700966932843-9m52vxQl5Q.jpg?width=1200)
ロンシャンの礼拝堂はフランス東部のロンシャン村にある。建築家ル・コルビュジエ設計の、丘の上にひっそりと建つ野外礼拝堂だ。
濃霧によって遮(さえぎ)られた陽光は、ほのかに建物を照らすほどでしかなかった。しかしその聖なる光が、静寂で崇高な雰囲気に包まれた空間をつくりだしている。光は視覚的にモノを見るために必要なだけではなく、空間やモノを聖別・聖化(ハギオス)させるためにも不可欠な存在である。祈りの場は、聖なる光によって日常的な空間から非日常的な空間へと「聖別・聖化」されているのである。
聖なるモノをヒトが知覚するのはどのような空間か。わたしは父親に連れられて、多くの教会の礼拝堂で幼少期を過ごしてきた。そして今も、心と身体を解放できる聖なる場所で過ごす時間を大切にしている。
この聖なる建築空間では、薄暗さが沈黙を醸しだしている。沈黙が支配する薄暗い雰囲気の中に存在する光は、わたしの意識を肉体から解放し、天上へと上昇させた。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年11月号](https://assets.st-note.com/img/1700763596753-3UYL6l0TEd.jpg)
光のクーポラ
バチカン サン・ピエトロ大聖堂
![バチカンサン・ピエトロ大聖堂](https://assets.st-note.com/img/1700967261801-a4Ld6vQUYk.jpg?width=1200)
![バチカンサン・ピエトロ大聖堂](https://assets.st-note.com/img/1700967269544-YSP7xtQN9D.jpg?width=1200)
![バチカンサン・ピエトロ大聖堂](https://assets.st-note.com/img/1700967276850-UZELEVXrFw.jpg?width=1200)
バチカン市国にあるサン・ピエトロ大聖堂は、イエス・キリストの一番弟子とされるガリラヤ湖の漁師だった聖ペトロの墓の上に建っている。私は大聖堂内に足を踏み入れ、想像していた以上に空間が大きいことに驚いた。長い身廊(しんろう)、高いクーポラ(ドーム天井)、大きな彫刻……。
身廊の半ばあたりまで歩くと、ルネサンスを代表する建築家ブラマンテや天才芸術家ミケランジェロが考えたギリシア十字型と呼ばれる建築様式を伺い知ることができる。そこには、大クーポラや小クーポラ、袖廊(しゅうろう)からそれぞれに力強い一条の光が差し込んでいる。
ミケランジェロの設計は、聖ペトロの墓所をまさに大聖堂の中心と定め、そこにすべての意匠を集中させることで表現しているかのようだ。言い換えれば、この教会堂建築の宗教上の象徴的中心に光を意識的に集中させたと言っても過言ではない。ミケランジェロは、自然光でサン・ピエトロ大聖堂内の聖ペトロの墓所を照らしているのだ。そして、私の霊的意識を天上へと昇華させたのである。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2015年12月号](https://assets.st-note.com/img/1700763611136-C1MQgr42yq.jpg)
暗闇の中の光
ドイツ ブラザー・クラウス野外礼拝堂
![ドイツブラザー・クラウス野外礼拝堂](https://assets.st-note.com/img/1700967330000-88gHZu3vUl.jpg?width=1200)
![ドイツブラザー・クラウス野外礼拝堂](https://assets.st-note.com/img/1700967340500-7UavbSC2OH.jpg?width=1200)
![ドイツブラザー・クラウス野外礼拝堂](https://assets.st-note.com/img/1700967349495-djgbIWTiU7.jpg?width=1200)
ブラザー・クラウス野外礼拝堂はドイツのケルン中央駅から電車で約45分、そこからタクシーで15分ほどの広大な牧草地の一角にある。現代建築家ビーター・ズントー設計の小さく簡素な礼拝堂である。
細い丸太をテント状に組み上げた周りに、村の人々が1年かけて壁厚50センチのコンクリートを24回にわたり打設、そしてその丸太を燃やして内部をつくるという独特のプロセスを経てできた建築物である。
重量感のある金属の扉をゆっくりと開けると、丸太を燃やした際の炭の香が残る空間がある。ケルン大聖堂の外観のような黒く色づいた壁が鍾乳洞のような有機的な内部形態を有していた。
このような黒々とした礼拝堂内部では、希望を抱くことができない暗闇を感じてしまうかもしれない。しかし、顔を天へと向けると「ベツレヘムの星」のような光が私たちを照らし続けていることに気づく。光は暗闇の中を歩む人々のために存在する。夜明けをもたらし、闇が深ければ深いほどに強く輝く。光は道であり、真理であり、命である。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2016年1月号](https://assets.st-note.com/img/1700763626060-rOJMi3XYNG.jpg)
光の慈悲
ドイツ 和解の礼拝堂
![ドイツ和解の礼拝堂](https://assets.st-note.com/img/1700967392362-Sq3T5zqtBr.jpg?width=1200)
![ドイツ和解の礼拝堂](https://assets.st-note.com/img/1700967400240-Arkz28aZdu.jpg?width=1200)
![ドイツ和解の礼拝堂](https://assets.st-note.com/img/1700967408135-U5ZAUfYrBn.jpg?width=1200)
2000年に建てられたプロテスタント教会「和解の礼拝堂」は、1961年の東西ベルリン分断による象徴的な場所であるベルナウアー通りに位置している。分断壁の一部があったその通りは、住宅アパートが東ベルリンに属しながら、その建物前の歩道は西ベルリンであったという、分断がもっとも端的に現れていた地区である。
松の細木を縦に平行に組んで取り付けた外壁から内側に射し込む光が、エントランスの層状の土壁を照らしている。その外壁には、東ドイツ時代に監視の邪魔になるという理由で破壊された旧礼拝堂(1894年竣工)の建築素材だったガラスやタイルなどのかけらが混ざっている。そのためか、礼拝堂は木と土による温かみのある雰囲気を漂わせていながらも、どことなく悲しい歴史の記憶を感じさせるのである。
しかし、礼拝堂に身を置くと慈悲の光に包まれ、憎しみではなく和解と赦しの気持ちがもたらされる。そして、賛美歌「いつくしみ深き」のメロディーが流れ始め、私の霊を優しく包み込んでくれたのである。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2016年2月号](https://assets.st-note.com/img/1700763651449-txB6XhVH6R.jpg)
光の必然
日本基督教団東京信愛教会
![日本基督教団東京信愛教会](https://assets.st-note.com/img/1701368213329-vXmBTCQq0P.jpg?width=1200)
![日本基督教団東京信愛教会](https://assets.st-note.com/img/1701368225030-X9mB6mHFO5.jpg?width=1200)
![日本基督教団東京信愛教会](https://assets.st-note.com/img/1701368235065-tF7uPqg96t.jpg?width=1200)
東京信愛教会は新宿区の東京女子医科大学病院の近くの住宅街に位置する教会である。日本基督教団の一翼を担うこの教会は、私が幼少期から過ごしてきた聖なる空間だ。1905年に蒔(ま)かれた福音の種は、1934年に実を結ぶが、1945年の空襲により焼失する。それから始まる苦難の歴史は、バビロンの川のほとりに座り、シオンを思い出して涙を流したイスラエルの民のごとく、悲しみに明け暮れながらも主のみ前に敬意をもって厳粛に祈り続けた歴史であった。
見えるものは過ぎ去るが、見えないものは永続する。今もこの礼拝堂には、物質的、唯物的ではない、見えない霊的世界が厳然と存在し続けている。光は暗闇の中を歩む人々のために存在し、この瞬間にも闇に包まれて苦しんでいる人々のために存在する。
光は闇が深ければ深いほどに強く輝く。光は道であり、真理であり、命である。偶然に射す光などなく、必然の光しかありえない。すべては神の摂理の中に存在し、進行していると言えるのではないか。
![『信徒の友』(日本キリスト教団出版局)2016年3月号【最終回】](https://assets.st-note.com/img/1700763663913-ROGOv5hr9V.jpg)
参考:『信徒の友』の概要
出版社:日本キリスト教団出版局
発行間隔:月刊
発売日:毎月10日
サイズ:B5
幅広い読者層をもつキリスト教月刊誌。個人だけでなく、学校・病院・福祉施設等での購読も多いです。
1964年4月の創刊以来、キリスト教会信徒の必読誌として成長し、今日では教界最大部数の総合雑誌となりました。中学生から読めるわかりやすい文章で聖書知識を多角的にとらえるほか、これまで、三浦綾子、加賀乙彦、木崎さと子などのクリスチャン作家や、日野原重明医師、料理研究家小林カツ代といった特長ある執筆者の連載を掲載してきました。また、全国の教会をグラビア頁で紹介。さらに、毎号1つのテーマで特集を組み、メッセージや情報を掲載します。
参考文献:教会建築家の推薦書籍
「励ましのお言葉」から「お仕事のご相談」まで、ポジティブかつ幅広い声をお待ちしております。
共著『日本の最も美しい教会』の新装版『日本の美しい教会』が、2023年11月末に刊行されました。
都内の教会を自著『東京の名教会さんぽ』でご紹介しています。
【東京・銀座編】教会めぐり:カトリック築地教会、聖路加国際大学聖ルカ礼拝堂、日本基督教団銀座教会を紹介
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