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論語と算盤①処世と信条 6.時期を待つの要あり

いやしくも人と生まれ──ことに青年時代において、絶対に争いを避けようとするごとき卑屈の根性では、到底進歩する見込みも、発達する見込みもなく、また社会進運の上にも争いの必要であることは、言うまでもないのであるが、争いを強いて避けぬと同時に、時期の到来を気長に待つということも、処世の上には必要欠くべからざるものである。
私は今日とてももちろん、争わざるべからざる所は争いもするが、半生以上の長い間の経験によって、いささか悟った所があるので、若い時におけるがごとくに、争うことをあまり多く致さぬようになったかのごとくに、自分ながら思われる。これは世の中のことは、かくすれば必ずかくなるものである、という因果の関係をよく呑み込んでしまって、すでにある事情が因をなしてある結果を生じてしまってる所に、突然横から現れて形勢を転換しようとし、如何に争ってみた所が、因果の関係はにわかにこれを断ち得るものでなく、ある一定の時期に達するまでは、人力で到底形勢を動かし得ざるものであることに想い到ったからである。
人が世の中に処して行くのには、形勢を観望して気長に時期の到来を待つということも、決して忘れてはならぬ心掛けである。正しきを曲げんとするもの、信ずる所を屈せしめんとする者あらば、断じてこれと争わねばならぬ。青年子弟諸君に勧めるかたわら、私はまた気長に時期の到来を待つの忍耐もなければならぬことを、ぜひ青年子弟諸君に考えておいて貰いたいのである。
私は日本今日の現状に対しても、極力争ってみたいと思うことがないでもない。いくらもある。なかんずく日本の現状で私の最も遺憾に思うのは、官尊民卑の弊がまだやまぬことである。官にある者ならば、如何に不都合なことを働いても、たいていは看過せられてしまう。たまたま世間物議の種を作って、裁判沙汰となったり、あるいは隠居をせねばならぬような羽目に遭うごとき場合もないではないが、官にあって不都合を働いておる全体の者に比較すれば、実に九牛の一毛、大海の一滴にも当たらず、官にある者の不都合の所為は、ある程度までは黙許の姿であるといっても、あえて過言ではないほどである。
これに反し、民間にある者は、少しでも不都合の所為があれば、ただちに摘発されて、たちまち縲紲 の憂き目に遭わねばならなくなる。不都合の所為あるものは、すべて罰せねばならぬとならば、その間に朝にあると野にあるとの差別を設け、一方は寛に、一方は酷であるようなことがあってはならぬ。もし大目に看過すべきものならば、民間にある人々に対しても官にある人々に対すると同様に、これを看過してしかるべきものである。しかるに日本の現状は、今もって官民の別により、寛厳(かんげん、寛大なことと厳格なこと)の手心を異にしている。
また民間にある者が、如何に国家の進運に貢献するような功績を挙げても、その功が容易に天朝に認められぬに反し、官にあるものは寸功があったのみでも、すぐにそれが認められて恩賞に与かるようになる。これらの点は、私が今日において極力争ってみたいと思うところだが、たとい如何に私が争ったからとて、ある時期の到来するまでは、到底大勢を一変するわけにゆかぬものと考えているので、目下のところ私は、折に触れ不平を洩らすぐらいに止め、あえて争わず、時期を待ってるのである。

本節では「人や社会の発展のためには争いは必要であるが、因果の流れがあるところに横から急にしゃしゃりでる形では正論であろうと形勢が動かすことは難しい。もし正しいと思うことや信じるところがあるなら時期の到来を待つ忍耐も必要である」と述べられています。

話は変わって私ごとですが、現在民間の立場から教育専任教師の准教授として某大学某学科の授業のお手伝いをしています。この学科は偏差値が35-40のいわゆるFランク校で、運営している高校や指定校からの入学生で存続している大学です。このままでは大学の存続は難しく元々美術やデザインいわゆる造形を教えていた学科を人工知能の利用やデザインを教える学科に生まれかわらせるということになったらしく、3年前たまたま声がかかり実家の岐阜も近いということもあり受託した次第であります。

この学科では人工知能といっても決定木アルゴリズムを使ったエキスパートシステム型のAIソフトを授業ツールとして全面的に採用し、学生や教員にその利用を義務付けるという形で授業がなされています。ツールを利用する形で授業が進められるので学生も教師もあまり考えることなくことが学習やものづくりが進められるという当初の説明でしたが、どうもソフト開発も平行して行なっているらしく、変な機能がたくさんついてる割に主要機能の使い勝手が悪いことから授業がしづらくなっています。私はもともとITエンジニアなので通常のエンジニアが考える難解な設計には理解が速く、仕方ないので平易な言葉を使って学生にそのしくみから教えているのですが、いきなり利用しろといわれた既存の美術や造形の先生方にとっては使い方に苦慮するのは当然だなと思うわけです。また、本ツールは学科のカリキュラム作成を独占している某教授自らが開発したAIソフトであること、その開発母体として立ち上げた自分の会社の社員や関連会社の社員を大学の准教授として採用していることなども問題だなと思っています。

この生まれ変わった学科のカリキュラムには人間中心デザインを行うとあり、人間中心設計推進機構がいうところのまともな人間中心設計が教育できるとワクワクしていたのですが、なぜか上に挙げたAIソフトで作ったモデルのことをペルソナと呼び、そのモデルを利用することをカスタマージャーニーと呼んで人間中心デザインの授業が実施されています😅

そもそも人間中心設計は、プロセスの話であって、個別のツールの使い方の話ではありません。人間中心設計専門家のコンピテンシーを持った従来のものづくりができる造形の先生をないがしろにして、ツールありきで授業を進めるのは人間中心設計がもっとも否定するやり方であり、学問を通り越して新興宗教なのではと思ってしまいます😓

人間中心設計以外のこの学科の売りとしては、社会で必要とされてきている人工知能を扱える人材をわかりやすいツールを使って教えるという点があります。しかし、このツールが採用する決定木アルゴリズムは数ある機械学習のアルゴリズムのうち一つのアルゴリズムでしかなく、それを人工知能の中心として捉え、進化させていけば人間の心まで実現できると授業で主張するのは、学問や教育とはいえずまさに新興宗教といわざるをえません。

機械学習

この3年前に設立された新しい学科については、その目新しさに対する学内の期待もおとろえてしまいましたし、学生からとったアンケート結果からもこのツールを使った授業は他の授業より満足度が低いという結果がでています。コロナの影響もあるのでしょうが新入生の数が設立当時の3分の1に減ってしまいました。

そのため、この新興宗教的授業をなんとかしなければと思っていたのですが、幸いにも今年がカリキュラムの改定プランを作るタイミングとのことです。大学のカリキュラムは、その作成や改善は大学側に全面的にまかされており、文科省は大学自らがいままでの授業実施結果を踏まえ改善を加えつつ新カリの改定案を提示させて決めていくという方針を取っています。

この話を聞いてやっと教員全員で課題を持ち寄ってカリキュラム改定を行うことができると喜んでいたのですが、どうもこの学科では違うようで某教授が部屋にづかづかと入ってきてカリキュラムの策定を行う権利は自分であると言い張って帰って行きました。

①処世と信条:天は人を罰せず」でも述べましたが、岡崎市への本店移転を祈願しておみくじを引いたけど末吉だったという話。かの徳川家康殿が出陣時に必勝祈願でおとづれたという伊賀神社でいただいたということもあり、たかがおみくじされどおみくじなわけです。

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そのありがたいおみくじに書いてあったこと。まずは願いごとは他人に妨げられるとあります。また争いごとは理屈があっても理不尽に敗北するとあります。

あぁこのことかと伊賀八幡様に教えていただきましたので、しばらくはこつこつと勉強しながら時期の到来を待つことにしたいと思います。

理不尽なことは世の中にたくさん存在するものです。適当にがんばりますので心のある方には遠くから見守っていてください。逐次状況は報告させていただきます。

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