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挑戦者を叩いてモヤモヤするより未来を見てニヤニヤしたい

最近になっていろんなところにアントニオや異端審問官を見かけるようになった。

以前にも紹介した岡田斗司夫さんと西野亮廣さんの対談。この動画の中では「ロック」というものに関してのトークが盛り上がっている。

「ロック」という言葉を使ってしまうと何でもかんでも「ロック」で片づけることができるからその人を否定する理由がなくなる。いわゆる認知されている状態になる。

たとえば、貧乏で一日一食がロックだと言い切ってしまえばそれがロックだし、舞台に上がって演奏もせずに客席をデッサンするのがロックだと言い切ってしまえばそれはそれで認知される。

その一方で芸人は芸人評論家を認めないというトークが展開される。多くの芸人は舞台に立ってもいない者を頑なに認めたがらない風潮があるらしい。舞台に立たない人たちに自分たちが評価されることを拒むという。

芸人なら舞台の上で勝負しろということだと思う。聞こえは良いけれど単に頭が固いだけとも取れてしまう。枠にハメてしまっている状態。
「ロック」とは真逆の考え方だ。

古典芸能の演者の方の方がもっと寛容だという話も出てきた。
実際に歌舞伎や狂言といったエンタメに携わっている人の方が幅広いジャンルで活躍されているイメージすらある。


この芸人思想を受け入れてしまうと芸人はテレビや舞台上で笑いを取る以外の仕事をやってはいけないということになってしまう。
更に言うと何か別の事に挑戦する者を叩くことになってしまう。

もっともらしい事を言う芸人でさえその傾向が強い。

この記事を見ても神田伯山という人もテンプレの芸人であることがわかる。

記事のライターさんは中立というよりは神田さん寄り。いや、神田さん寄りというより中田さんや西野さん、ホリエモンには悪意すら持っているように見て取れる。
記事の中でライターさんは

他人を利用したり踏みつけたりするような金の稼ぎ方を「それでも稼げた方が偉い」と考えるか、「それは人としての品がないのではないか」と考えるか

という表現をされているが、評価基準がそこにしかないならたぶん端から噛み合わない議論にしかならない。
金じゃなくて信用の話が抜け落ちている。

つまり金を稼ぐ人は信用がないという理屈を拡散しようとしている姿に見える。いわゆる金持ちは敵だ!という根拠のない理論。

金持ちと言われる人がそこにたどり着くまでに注いできた他人にはできなかった努力とかいうものは一切省いて悪く見ようと思ったら悪く見える部分をクローズアップする。


叩かれることに耐性のない人は、わけがわからなくなって進むべき方向を見失ったり、こんなに否定されるならやめてしまおうという決断を下すこともあるだろう。

失意の果てに今まで持っていた希望を捨てて別の道を歩きはじめることもあるだろう。それが、折り合いをつけるということ。

もちろんそれがダメだとは思わない。
最終的に自分で選んだ道を正解にすればいいのだから。


ただ、誰かの本気の挑戦を上辺だけで判断して阻害するような動きはするべきではないと僕は思う。

たしかに中にはただの無謀で進んでいるだけの人もいるし、そこにはアドバイスや時には制止が必要だと思う。

そうではなく、多少危なっかしいところがあるにせよ自分自身の考えをもって進んでいる人に対しては、考えていることをちゃんとわかってあげて、やろうとしていることを尊重したうえでアドバイスしてあげてほしい。

心底そう思う。


「映画 えんとつ町のプペル」がヒットするにつれて批判的な声があっちからもこっちからも聞こえてくる。いろんな声が「星なんかねぇんだよ!」に聞こえる。


聞こえてくる批判を冷静に分析すると興味深いところはある。
映画の作りとか作品に対する批判はおいといて、ほとんどの批判は自分に返ってくるものでしかない。いわゆるブーメランに見える。

たぶん批判していてスッキリしないんじゃないかな?と思う。そもそも人格や思想を批判するとスッキリするものじゃない。後味の悪さしか残らない。

僕自身、この記事を書きながらスッキリしない部分がある。
批判は好きじゃない。


でも最近いろんな人のnoteとかニュースとかサロン記事とか色々見ていると書かずにはいられなかった。

やっぱり未来を見てニヤニヤしていたい。

頑張りましょう!




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