クリスマスプレゼント

社会には、目には見えないけど、確かに存在している雰囲気とか空気がある。数年前、空気を読めない人のことをKYという言葉が使われるようになった。これで空気を読めないことがある種、悪になった。確かにそういう空気が今もある。

夢とか愛とか希望とかいう言葉を出して語ると、ちょっと「サムイ」みたいな空気もある。小さい頃は「はい!」って挙手をしていた子どもたちが中学・高校になるとどんどんいなくなっていく。それが「社会性が高い」ということなのかもしれない。あと、「いやー、大人だよね」とか、「大人じゃないからな、おれは」とか言いながら自虐マウントをとろうとする人も一定数いる笑。それがかっこいいと思っている人もいる。

こうした空気に支配されてしまっていて、その空気の奴隷になってしまっているふしもある。それが心地よかったりもするしね。マジョリティだったりする。だから、例えば、空気を読まないでやっている人をたたいたり、批判したり。あとは、夢とか希望を言い出すと、なんか嘲笑したり。でも、きっとそういう人たちもそうなりたくて、そうなったわけじゃない。ならざるを得なかったという面もあるはずだ。

それだけ、社会に確かに存在する「空気」というものは恐ろしい。その空気を破る人が出てくると、人は一斉に批判をする。一部の熱狂的なファンは生まれる。それを「宗教的」だという。宗教という言葉は日常で使われるとき、大抵は、ディスった意味合いで使われる。ディスというよりは、いい意味では使われない。

特定の何かに心のよりどころを求めることは悪いことではない。例えば、熱狂的な●●信者という人もいる。矢沢永吉さんのファンとか、長渕剛さんのファンとか、見るからに熱そうだ。ある意味、その対象に心が惹かれ、心のよりどころにしている人もいるだろう。こうした実在した人であれば、そこに批判は生まれにくいが、見えないものをよりどころにすると、理解しようにも理解ができないので「怪しい」と片づけられるものだ。

しかし、考えてみれば、今のマジョリティというのは、スタートはマイノリティだったはずだ。最初は理解が追い付かなかったはず。今やそれが当たり前になった。スマホだって2011年は7%程度しか普及していなかったのに、今や当たり前だ。気づけばどんどんと広がっていくことになった。最初は「怪しい」と思われていただろうけど。怪しいとならないためには、社会の中の多くのパイをとっていかないといけない。イノベーター→アーリーアダプターの17%のキャズムの壁をこえていくことが必要となるわけだ。一方で、大衆受けすると、消費されて、いつしか命が尽きてしまい、長続きしなくなる。これが生活の当たり前になっていくといいのだが。

だいぶ話がそれてきてしまった。こういうことを書きたかったわけではなかった。。。

ここからが本題…。

社会に確かに存在する空気。その中にあるものの一つに「人は変われない」というものがあると思っている。人は変われないものだからとあきらめているふしがある。僕はこう思っている。「人は何かに変えられるのが嫌なだけで、変われないわけではない」と。

変われないと思っている人は、きっと過去の積み重ねて、変えてやろうとしたことがあったはずだ。思い返してほしい、誰かに変えられて嬉しいと思う人がいるだろうか。あくまでも、変わりたいと思った時に変われるのではないか。

長く企業研修に関する仕事をしてきた。正直なところ、8年くらいは、研修で人が変わるなんてたいそうなことを思ったことないし、そんなことできるかと思っていた。そんな場面に出会うこともなかった。楽しそうに帰ってもらえればそれでいいかなみたいなそんな感覚に近い。

しかし、ある講座に自分が参加したとき、2日間だったのに、最初にあった時と見るからに雰囲気が変わって、いきいきしている人を何人も見かけることになった。きっと自分もそうだっただろう。このときから、人の可能性を信じるようになっていった。だから、「あいつらは…」とか、「できないから、●●しないとだめだ」とか言っている人がいると反応してしまう。でも、この体験があるから、僕がそう感じているだけであり、体験がない人にとっては理解ができないことだろう。「何かの宗教にはまっているの?」とも言われそうな怪しさかもしれない。

だから一番大事なことは、自分自身が変化し続けることだと思っている。それは自分が変わっていく姿を見せていく事が何よりの周囲への証明になると思うから。

その変化というのは小手先の変化ではない。何かを身につけたとかそういうことではなくて、雰囲気が変わったという変化だ。言葉にするとチープになるが、「あり方」が変容するということだと思っている。自分自身のあり方と常に向き合い続けることが何よりも変化を起こすために必要なことだと思う。人よりも内省して、自分自身を見つめることは多いと思うが、それはここに僕自身の想いがある。自分がより生きやすく、楽しんで生きていくためにというのはあるけど、実はそれ以上に、周囲の人へと可能性を発し続けることが真の想いだ。

そして、そう気づかせてくれたのは、この前のクリスマスイブのことだった。大きな大きなクリスマスプレゼントをいただいたそんな気分だ。多くの人のために、自分自身を内省し、あり方を見つめていきたい。そう感じたクリスマスイブの出来事だった。2020年もまもなく終わろうとしている。本当に色々あった一年だったけど、最後に素敵なプレゼントをいただいた。これからも邁進していこうと思ったのであった。



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