「異日常」26/37
それにしても。それにしてもだ。犬には本当に申し訳ないことをした。再度言わせてもらうが、俺は絶対的に、天地神明に誓って愛犬家なのだ。徐々に膨らむ途方もない罪悪感から逃れるようにふと天を仰ぐと、見事な夜虹。こんな精神状態でも、俺は虹を見ると一人の女を思い出してしまう。魔獅暦7年の話だ。
「ねぇ?虹みたく抱き付いてもいい?」
そう言って女はベッドの中で、俺を背後から包み込むように抱きしめた。
「どういうこと?」
首だけ少し振り返って尋ねると、女は俺の頬に接吻しながら吐息交じりに答える。
「虹には雄と雌があってね、内側が雄で、外側が雌なの。私こうやって、男の人を後ろから包み込んで眠るの大好き。虹ハグ。」
「ギュッとして」と甘えてくるのが女の相場と決め付けていたが、その女は違った。そして、女の安心感に包まれて眠るのが嫌いでない俺は快く受け入れ、二人虹となり、幾つもの夜を過ごした。男女の旨味だけを抽出し持ち寄ったような関係。といって特に付き合っていたという訳でなし、まさしく自然消滅というか、なんとなく互いに連絡を取らなくなって疎遠になった。肌感は切ないけれどずっと浴びていたい夜の風、そんな恋だった。そういえば絶頂に達する前の女は、「ずっと今がいい」といつも瞳を潤ませていたっけ。
意識がゆっくり今に帰還する。俺は今、夜虹を見ている。幻想的な雰囲気を引き立てる都会のビル群に、深海を思わす濃紺の夜空、相変わらずメテオは酷い。俺の目に映っているこの風景を、そのまま絵画展に飾っても支障はなさそうだ。そんな夜虹を長らく見ていると、一層女のことを思い出してしまう。
女の、青森県みたいな顔の輪郭。縦に三、横に八の合わせて二十四の瞳。異星感漂う真紫の肌。胸部だけは硝子カエルみたく透けて丸見えの心臓。ゴッホの糸杉を思わすうねる背中毛。両こめかみを貫く毒矢。全ホクロに貼られた半額シール。うなじにあった「核」というボタン。常に香る生乾き臭。リストカットの傷跡で「生きる」と書かれた右腕。キャタピラーとなった下半身。よく言っていた「私はウルトラリラックス」という寝言。ハンドバッグとして活用していた尿瓶。飲み薬を塗り込む癖。よく作ってくれた冬虫夏草料理。カニバリズム系淫乱司法書士という肩書き。。。
どれもこれもが昨日のように思い出されて、ついまた連絡してみようかなんて不粋なことを考えてしまう。「ひとの胸にかかった虹は、消えないようでございます。」そんなことを太宰治も言っていた筈だし。おっと、文学からの引用は自粛中だっけか。と、軟派な思考を揺蕩っている刹那、俺の前から醒めるように夜虹が消えた。
成る程、合点お天道様。ずーっと虹が出ていても、それはそれで違うってことなんだろう?言われてみれば、終わりがあるからこそって事柄が人生多いような気もする。散りゆくからこそ。あくまで自ら好まないが、さよならも悪くないのかも知れない。
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