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「異日常」8/37

改札を出ると蒼蜜の空。休日特有の好意に満ちた日差しの中、懐かしい先輩の笑顔が俺を迎えてくれた。三月の酷寒も和らぐ。
二人の服装が丸かぶりだったことに一しきり笑った後、先輩の自宅へ歩いて向かった。その道中での会話といえば、やはりいつも通りで刺激的。

「私の今から語ることを、下品だ下劣だという言葉で片付けるのは止して欲しい。久闊を叙したばかりの後輩に、唐突にすべき話でないのは百も承知しているが。私の友人の為である。いわゆる親友と呼べる彼の為に、私は何かしてやりたいのだ。然しながら余りに未曾有のこの事態に、私は自分のとるべき行動が判然としない。であるからして心優しき有識者の君に、どうか力を貸して欲しいのだ。現状を手短に話す。言葉の嫌悪感から心離れて欲しくないので、以下男性器のことは和三盆と表現するよ。
彼は和三盆の芸術家。和三盆を使って絵も描けば、詩も書き、フルオーケストラに於ける指揮者だって熟す。個人的に仰天したのは、いわゆるタケコプターの要領で空中遊泳して見せた和三盆コプター。
そんな和三盆業界を唯一無二の存在として牽引してきた彼が、近年着手した作品というのが問題で。和三盆万華鏡。常人からすれば今迄だって無茶中の無茶だった訳だが、今回ばかりは彼にとっても勝手が違う様で。和三盆の先端から内側をくり抜き、色彩豊かなビーズや小石を和三盆内に取り込む作業が地獄の所業らしいのだ。
彼のアトリエを訪れる度、私は落涙せずにはいられない。外まで響き渡る彼の声は、聴いてる此方の鼓膜まで激痛が伝染するような、所謂断末魔と言って差し支えないだろう。そして実際中に入ってからの光景といえば、君に説明することさえ躊躇われる醜態。以前、私がネパールにて目撃した「ガディマイ・メラ」というショッキングな奇祭を想起した程だ。
「ガディマイ・メラ」とは数千数万もの家畜が生贄として一斉に斬首される、世界最大の動物供犠。そんなヒンズー教のと或る寺院にて執り行われる凄惨な営みを、彼の和三盆が、一身に引き受けているか如き印象なのだ。和三盆が森羅万象を焼き尽くす業火にすら見えてくる始末。
何故そこまでやるのか。芸術とは何か。創作に痛みは付き物なのか。悶え苦しむ彼を見ていると、そんな芸術を憎まずにはいられない。思い出される地獄変。「余人を以って代え難い、自分でないと辿り着けない境地。自分がいなければこの世に誕生しなかったものにこそ価値がある。」よく彼が語ってくれた和三盆哲学は理解しているつもりだ。自分の作品の成分を「命の削り汁」と断言する彼の潔さには憧憬すら抱いた。
だが然し。一友人として、一生命体として、直感的に、和三盆万華鏡をこのまま制作させる訳にはいかない。
だが然し。文字通り、命を削るか如き彼の創作活動を邪魔する権利が私にあるのか。物事全てが二極に分れる訳ではない、ということは重々承知している積りだが。この場合ハッキリと「善し」「悪し」と断言してやるべきではないか。当然「悪し」の立場で。私は敢えて無知を装い、ドリームキラーとして彼を否定すべきなのだ。
だが然し。それは可能というだけで、その行為自体が本質的に善なのか悪なのか。と思いあぐね、何も行動を起こさないという選択は余りに無責任。私は彼に関して無責任でありたくないのだ。例え自分の助言が間違っていようと、直感的に感じた違和感は伝えてやりたい。内発的動機はどうにも止まらないのである。それが友情だという確信もあるし、最終的に選択するのは彼なのだから。
じゃあ言葉選びはどうする?彼のマグマか如き情熱を、真芯で貫く的確な言葉が私に吐けるのか?ん?マグマに水を掛けてどうする?ん?…
とまぁこういった次第で。友人がいる者であれば、容易にこの心境は察してくれるであろう。この惨烈の極みたる問題を前にして、私は今、彼の和三盆の為に、一体何をしてあげられるだろうか?」
「それ専門の窓口で聞いて下さい!!」

無礼講にも俺が本音をぶつけると、先輩はニヤリ嬉しそうに笑った。左右に大きく裂けた如何にも食人族の笑顔が懐かしい。相変わらずの、頭の中を覗き見たくなるような人柄。「話を聞いてみたいと思われる人間になれ」そういう価値観も先輩が植え付けてくれたっけ。
街を並んでずんずん歩く。そして偶然にも通りに乱立していた専門の窓口に、二人揃ってイートイン。


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