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郵便配達員のくよくよ

商業高校を卒業してすぐに、浅野陽太は父親の知り合いの紹介で郵便局に勤めるようになった。
 大学や専門学校に進んで3、4年気儘に過ごすことに魅力を感じないでもなかったが、陽太はやりたい事もなく、勉強もからっきしだった。取り柄といえば小学3年から10年ほど通じて熱中した野球の腕と地図をみるのが好きなことくらいで、他にはなんの能もないと自分でもよくわかっていた。
郵便局での配達業務は自分なりの地図を作り効率良く配達を行うことを要求された。地図が好きな陽太はこの作業をすごく気に入っていたし、同僚からも頼りにされ知らない土地の地図の作成も担っていた。
 しかし、一度作成してしまえば基本的には何年先も同じ地図で配達を行うことができるため、陽太の地図作りの仕事も次第に減り、配達業務が仕事の中心になっていった。始めのうちは自分で作った地図をもとに効率良く配達する事を楽しんでやれていたが、2年も続けると単なる作業になり、何とも言えない屈託を胸の奥に抱えるようになった。

配達は車で1日に800件ほどを1人で周る、陽太はいつも郵便物と一緒に車にグローブと野球ボールをしのばせていた。昼飯は決まって配達行路にある小さなグランドのベンチでコンビニ弁当を食べる、食べ終わるとグローブとボールを出してコンクリートの壁を相手に1人でキャッチボールをするのだ。

高校の三年間はずっと控え投手だった。中学生のチームでは一番の実力を持っていた、中学三年生になるとエースで4番を任されていた。それなりの才能はあったし、高校に入ってからも必死に練習もやったが、そんな陽太を寄せ付けないほどの実力を持った絶対的なエース田辺悟の存在がそこにはあった。実力もあり、体力も信じられないほどあった悟は公式戦では毎試合当たり前のように完投した。結局、陽太は公式戦のマウンドに一度も立つことがないまま、三年間の高校生活を終えた。

「9回裏1点差2アウトランナー満塁、カウント3ボール2ストライク」
という場面をいつも頭の中に描きながら、陽太は壁に向かってボールをなげる。決まって渾身のストレートだ。空振り三振、大歓声が押し寄せる、陽太は勝利投手の甘い快感を味わう。同時に胸の中の屈託が失せそうになるが、次の瞬間、陽太の目に真っ赤な軽ワゴンがうつり込んできた。そして、舌打ちをもらす…。

ある日、陽太はいつものように昼飯のあと壁相手にキャッチボールをしていた。すると背後になにやら気配を感じ振り返った。そこにいたのは、悟だった。悟は、汚れた鼠色の作業着を着ていた。陽太は声を上げてびっくりした。悟には卒業以来あうのは初めてだ。野球の推薦で大学へ進学して、その後野球を辞め大学も中退したという噂を聞いたことがあった。二人はしばらく黙ったまま、相手の様子を見つめあった。

「グローブとボール、貸してくれ」

やがて悟がぽつりと呟いた。陽太はうなずいて、悟に手渡した。悟は渾身のストレートを壁に投げ込んだ。その後も何球も何球も投げ込む悟の姿を陽太は黙ったまま見ていた。

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