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光のなかで生き延びる くるまの娘を読んで胸に浮かんだ言葉

宇佐見りんさんの最新作、「くるまの娘」が単行本発売されたので、早速購入したはいいものの一週間ほど机の隅に置きっぱなしにしていた。
というのも、「文藝 春号」で初めに読んだとき、あまりにも苦しくて、再読するのにもそれなりの覚悟がいるなぁと思っていたからだ。

宇佐見さんの物語の語り手たちは歳が近いこともあるのか、毎度、自分の芯と強烈に共鳴して内側が引きずり出されるように感じてしまう。文章を読むのでなく、うーちゃんやあかりや、かんこの体験がそのままからだに雪崩れ込んでくるような感覚に陥る。
こんなに苦しくて痛いのに読み続けてしまうのは、もしかすると語り手たちと苦しみを共有して、自らの記憶を反芻して、消化しなおしているからなのかもしれない。それぞれの苦しみを持ち寄って共有することで互いの苦痛が若干、癒されるように。

そんなわけで、こんな感情を抱きながら読んでいたので、まともな考察も何もできていません。ただただ湧きあがった思いを書き連ねているだけです。それでも良ければ、この先を読んでいってくださればと思います。


ウツ、とは体が水風船になることだとかんこは思う。毎日が水風船をアスファルトの上で引きずっているように苦しく、ささいなことで傷がついて破裂する。
くるまの娘 p.11

ほんと、なんでこの人はここまで正確に物事を言い当てることができるんだろう。今までなんともなかったでっぱりが、些細なとげが、崩壊のきっかけになる。ぽよぽよとしたやわらかい水風船が破裂して、なかみが飛び出て、散り散りになって、元の形も分からないビニール片になってしまう。
こんな細かいところにいちいち触れていたらとてつもなく長い記事になってしまうけれど、ここにはもうハンマーでぶん殴られたような衝撃を受けたので書いてしまった。


この物語で一貫して登場し続けるのが、”光”だ。
こどもの髪を透かす光、山頂をさす光、素足を照らす朝の光…。
朝が来れば必ず訪れ、容赦なく世界を照らし出すもの。この地上で生きる限りは逃れられないもの。光。

あのとき、日がのぼるのが苦しかった。日が沈むのも苦しかった。苦しみを何かのせいにしないまま生きていくことすらできなかった。人が与え、与えられる苦しみをたどっていくと、どうしようもなかったことばかりだと気づく瞬間がある。すべての暴力は人からわきおこるものではなかった。天からの日が地に注ぎあらゆるものの源となるように、天から降ってきた暴力は血をめぐり受け継がれ続けるのだ。
くるまの娘 p.140

日がのぼって照らし出されれば大きな影があらわれるが日が沈んでみれば実像は驚くほど小さい。
日差しが肌を刺してチリチリと焼き焦がしても、陰ってしまえばその感覚は過去のものとしてもう遠くなる。
いくら苦しんでも、過ぎて曖昧になってしまえばその苦しみはもう再生できない。現実は、何も変わらず、うやむやになって続いていく。逃れようもなく変えようもない。遠い宇宙から届く太陽光線のように、ひとにはどうしようもないものなのだ。
暴力の源は誰か、何かに特定できるものではない。そのあまりのやるせなさに、時折呆然としてしまう。ひかり。それがあまりにも正確に言い当てていると思って、思わず大きなため息をついてしまった。

先ほどの弟の話が頭のなかで繰り返されていた。なぜそんなことを言ったのだろうと思った。それだけのことを言っておいてなぜ傷つけた記憶として残っていないのだろう。重くとらえきれない自分にぞっとした。
くるまの娘 p.88,89
いまの弟にどう謝っても、あの丸い頬と透明な眼をした弟には届かない。
不可逆だ、と思った。髪が濡れる。車に向かって、キーの施錠ボタンを押す。眼のようなふたつのライトが霧雨のなかで音をたてて光り、消える。
くるまの娘 p.92,93

ここが、最も多くの人が共感する場面かもしれない。人に傷つけられた記憶はいつまでも残るが、自分が傷つけた記憶は忘れ、あるいは傷つけたことにすら気が付かずにのうのうといる。
のちに傷つけたことに気が付いたとしても、何をしても言っても、もう取り戻せない。一度刻まれてしまった傷は絶対に消えることはない。このことをつきつけられたとき、誰もが、鮮明な記憶が蘇ってこないにしても、心の底にひりつくものを感じるのでは、と思う。このどうしようもなさはどう解決したらいいのだろう。今の私には、分からない。


結局、車内で生活するようになったかんこ。以前より暴力は減ったと言うが、結局は曖昧になっただけだ。少しずつ回復していても、それは問題が解決したからではない。薄暮のなかで漂っているにすぎない。
これからも、ただ死なないために生きているしかない。本当に死んでしまうしか逃れる方法はないのだろう。

どうあがいても、明るい幸福な家族にはかんこたちはなれないように思えてしまう。それでも、曖昧でもいいから生き延びてほしい。私も生きるから。願うように思った。



自分にはこんなに過酷な経験はない。少なくとも、家族は円満で愛があふれている。それでもこの物語がこんなに響いてくるのはきっと、苦しみの本質が描き出されているからなのだと思う。きっと、誰もが抱えている苦しみに宇佐見さんの文章は触れてくるのだ。

まだ語りたいことの一割も書けていないけど、ひとまずここまでにしておこう。

こんなに書きたいことが溢れてたまらないのは久しぶりだ。こんな、読書体験におさまらないようなものを与えてくれる宇佐見さんに感謝。これからも全力で推し続けます。

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