鎌倉街道 中道を走る 二子玉川~川口 東ルート
二子玉川から岩淵に至る別ルートとして、山手線の内側を通る東ルートを走ります。前回は埼玉県の手前で引き返したので、荒川を渡り、川口まで進みます。
地図を見るとわかりますが、西ルートが最短ルートを進んだのに対して、わざわざ東よりに迂回するので、距離的には長くなっています。この道のりを進む理由を、実際に走って確かめたいと思います。
参考にした書籍は、今回も下記になります。
・芳賀善次郎 「旧鎌倉街道探索の旅Ⅱ 中道・下道編」さきたま出版会
・荻窪圭 「鎌倉街道伝承を歩く」山川出版社
二子玉川~中目黒 9.8km
二子玉川駅から東に進み、自由が丘あたりから北東に進みます。
朝、家を出るときは小雨が降っていたが、9時前に二子玉川駅に到着したときには予報通り止んでいた(途中降られたが)。
丸子川沿いの道に入ると「南大山道」の道標が立っていた。駅の西側にも大山道の道標があったので、両ルート公認されているようだ。
しばらく多摩川の段丘崖に沿って進んで、上野毛に向かって段丘を上る。掘割がされているが、それでも結構な坂なので、当時は難所だったと想像される。
目黒通りに合流した後、古道区間に入る。
古道の雰囲気が残る世田谷区と目黒区の境界を北上する。
道路の真ん中に、存在感のある葦毛塚(あしげづか)が立っていた。奥州征伐の際、頼朝が乗っていた葦毛の馬が蛇崩川に落ちて死に、ここに埋めたという伝承がある。頼朝は、その戒めとしてこの沢は馬を引いて渡ることと申し渡したので、この辺りは馬引沢と呼ばれ、上馬引沢、下馬引沢が上馬、下馬になったとのこと。
蛇崩川は、今は暗渠化されその姿は地下に隠されている。「蛇崩」は、災害の起きやすい地名として耳にすることがあるが、その名の通り、川岸が崩れやすい川筋だったようである。頼朝もそのため馬を失ったのか。
蛇崩川の変遷を、今昔マップからgif画像にした。蛇行していた川がまっすぐになり、1970年代に暗渠化されたようだ。
この辺りの地名は、上の1917年の地図にあるように「宿山」だった。街道の宿場町があった名残だろう。
「宿山」は橋の名前としても残っている。
中目黒~西早稲田 11.5km
山手線の内側に入り、渋谷、新宿、池袋の街中を北上します。
タイトル画像にした案内看板は、この目切坂(めきりざか)のものである。代官山に向かって急坂を上る。
目切坂を上ったところの地蔵尊に、道標として「左 祐天寺 右 大山道」とある。目切坂は大山道として認識されていた。
鎌倉街道は、代官山から金王八幡宮を経て青山通り(246号)で消滅する。古道が残存する神宮前に向けて表参道を進む。
いわゆる裏原宿と呼ばれるエリアの古道を、場違いな格好で進む。写真も撮りずらかった。
勢揃坂(せいぞろいざか)は、平安時代の後三年の役のとき(1083)、奥州に向かう源義家の一行が、ここで軍勢を揃えたとの伝承がある。
前回の西ルートにおいて、義家が後三年の役から凱旋するときに祠を祀った多田神社の伝承を紹介した。行きと帰りでルートを違えたことになるが、矛盾はしていない。
勢揃坂を下ると、国立競技場に突き当たる。生で見るのは初めてだ。
千駄ヶ谷駅を横切り、入園料500円払って新宿御苑に入る。近くで働いていたが、ここも入るのは初めてだ。
御苑を過ぎて、靖国通りを渡り、戸山公園を横切り、学習院女子大学を迂回してひたすら北上する。車が通れない細い路地もあった。
神田川に架かる面影橋に到着する。風流な名前だが、由来は在原業平だったり、家光だったりして諸説あり定まっていないようだ。
高田~川口 13.1km
神田川と石神井川の間と、石神井川と荒川の間の丘陵地を横断し、荒川を渡って川口駅を目指します。
面影橋から目白通りまでは宿坂と呼ばれ、古道の道筋が残っている。道沿いの氷川神社の案内看板には、この通りが鎌倉街道とあるが、金乗院の看板には、ここよりやや東寄りに位置していたとある。
鬼子母神表参道のケヤキ並木に圧倒されるが、大木に近接して民家が立ち並ぶことにも驚く。
雑司が谷という地名は、街道の要所に配置された雑色に由来するのでは。西ルートにも「雑色村」が存在していたことから類似性を感じる。
サンシャイン60の下で、コンビニで買ったパンで昼食をとる。GWなので子供連れの家族で混雑していた。
池袋周辺の古道は失われているが、山手線を越えると古道の面影のある路地が残っていた。
石神井川に架かる紅葉橋(もみじばし)の袂に、頼朝の布陣伝承地の案内看板があった。石橋山の合戦で敗れて千葉を経て武蔵国に入る際に、軍勢を率いてこの地の松橋に陣を取ったという。
自衛隊十条駐屯地の横を進み、旧岩槻街道に合流する。拡張工事が進行中だった。
赤羽駅の中を横切り東口に出ると、先週のゴール地点だが、まだ余力があったので、岩淵まで進み、荒川を渡る。
荒川を渡った左手の川口市立南中学校の南側に鎌倉橋の碑があった。日光御成道が江戸初期に整備され、この地の小川に架かっていた土橋が鎌倉橋と呼ばれていたとのこと。鎌倉街道の伝承に基づき、江戸時代にたくさんの鎌倉橋ができたもののひとつだろう。
14時頃に川口駅に到着し、本日のゴールとする。川口といえばキューポラしか思いつかなかったが、駅前にそのまんまモニュメントがあった。
東ルートを走った印象としては、前回の西ルートより距離も長く、河川の下流側なのでアップダウンもきつかったです。実際に走行時間も1時間多く掛かりました。では、わざわざ東ルートを使う理由はなんだろうと考えて、途中の勢揃坂や松橋が解ではないかと思い当たりました。
鎌倉幕府の軍勢は、関東各地の武家の連合軍なので、途中で合流しやすいルートが選ばれたのではないか。ときには、地方豪族に大軍を見せつけ、服従を促し味方を増やす目的で行軍ルートが決められたのでは。よって、最短経路だけでなく、いろいろなルートの伝承が残っているのでは。そんなことを考えましたが、素人考えなので的外れかも。
中道も今回で一旦終了です。ここまで来たら次回は鎌倉街道下道を進む予定です。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?