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鎌倉街道 上道を走る 町田~東村山 後編

 鎌倉街道上道を町田から東村山まで走った記録の後編です。現在の幹線道路としての「鎌倉街道」ではなく、鎌倉時代の古道の道筋を辿ります。

 後編では、中河原で昼食をとった後から、ゴール地点の東村山までを紹介します。
 多摩川を渡るまでは、ところどころ古道の雰囲気を感じさせる山道もありましたが、武蔵野台地に入りほぼ平坦な街中になるので、古道っぽさは薄れてきました。でも歴史を感じさせる史跡や光景に各所で出会えたので、そのあたりを中心に紹介したいと思います。

 引き続き、参考とした書籍は、下記になります。
・荻窪圭 「鎌倉街道伝承を歩く」山川出版社
・芳賀善次郎 「旧鎌倉街道探索の旅Ⅰ 上道・山ノ道編」さきたま出版会



中河原~東村山 20.0㎞

 多摩川を越えた中河原から、武蔵野台地を北上します。この区間は大きな地形の変化もないので、当時は真っ直ぐ直進していたと思われますが、現在は工場や鉄道などが行手を遮るので、ところどころ迂回を強いられます。

中河原~東村山

 中河原周辺の時代の変遷を、カシミール3Dを使って表示させた。その名の通り、戦前まで中河原は河原の中だったのがわかる。また、分倍河原古戦場跡のしるしは、河原の中にだった。

中河原変遷

 現在の分倍河原古戦場跡の碑は、もっと北の新田川緑道にある。
 戦いは二度あり、初めは北条軍に敗れた新田軍が、三浦義勝など地元の武士の援軍を得て、再度戦い勝利したとのこと。鎌倉幕府樹立に貢献した坂東武者が、最後は幕府を倒す側についた。

分倍河原古戦場跡の碑

 鎌倉街道から50mぐらい離れたところにあった高倉塚古墳。住宅街の一区画に古墳が残されていた。近所の子供達の遊び場になっていて、近くの家からお昼で呼び戻されていた情景が微笑ましかった。

高倉塚古墳

 甲州街道を過ぎ、東芝府中事業所により行手を遮られるので、東に迂回し、府中刑務所側を進む。

東芝府中事業所

 国府、国衙、国分寺そして国府尼寺など、府中周辺に現れる史跡の関係性をWikipediaで調べた。
 奈良から平安の律令制の時代に、各地の政務を執る都市として設定されたのが国府。国府の中には政治だけでなく宗教を司る施設として国分寺、国分尼寺、総社が置かれた。国衙とは、国府内の役所群の総称として使われていたが、だんだん国府と同義として使われるようになった。武蔵国の国府が置かれたのが府中市なのは、史跡から明らかだが、他の国府の場所ははっきりとしていないところが多い。
 畿内から各地の国府を結ぶ駅路が作られ、東海道(江戸時代の東海道とは異なるので古東海道と呼ばれたりする)、東山道など(五畿七道)と呼ばれる。駅路は、中央と地方の情報伝達・移動を迅速に行うため、直線的に建設され、道幅も10mぐらいあったとのこと。この近くでも東山道武蔵路の遺構が発掘されている。
 古代にそんな道路網が整備されていたのは驚きだが、徐々に衰退し、10〜11世紀初頭には廃絶したとのこと。鎌倉街道には、そんな成り立ちの道も取り込まれている。
 広大な国分尼寺跡の脇を進む。

国分尼寺跡

 国鐘公園の中に、鎌倉街道の当時の姿を残す区間が残されている。必要以上に人の手が入っていないところがよかった。

府中市国鐘公園・伝鎌倉街道

 JR武蔵野線により道は途切れる。横断できる踏切まで回り込み、反対側の府中街道に出る。

府中市武蔵台・JR武蔵野線

 JR中央線の西国分寺駅を過ぎたところで府中街道から東へ進み、姿見の池を訪れる。ここは、畠山重忠に恋した遊女が、重忠が戦死したとの讒言により悲嘆し身を投げた伝承がある(「恋ヶ窪」の由来との説もある)。なお、前に触れた東山道武蔵路の遺構は、ここ恋ヶ窪谷でも発掘されている。

恋ヶ窪・姿見の池

 府中街道を北上し、小平市に入り、玉川上水の遊歩道を東に進むと、鎌倉橋がある。鎌倉街道は、ここから北に向かっていたと伝わっている。

玉川上水・鎌倉橋

 この辺りに、先に紹介した武蔵国府と上野(こうずけ)国府を結んだ真っ直ぐな東山道武蔵路が通っていた。鎌倉幕府が開かれると、鎌倉街道と呼ばれるようになったとのこと。

小平市小川町・鎌倉街道

 小平市の鎌倉街道は、ブリヂストンの工場で途切れる。再度府中街道に戻って北上する。
 東村山市と小平市の境界に九道の辻がある。九つの街道が交差する辻だったとのこと。現在の地図だと七叉路だけど。

東村山市栄町・九道の辻

 そのまま北上し、東村山駅も通り過ぎたところで、府中街道から左の細道に入る。ここが鎌倉古街道との案内板もあった。
 この道の突き当たりを左折して西武新宿線の線路を渡り、八国山に向かうと麓に久米川古戦場跡の碑がある。新田義貞の鎌倉進軍時の二戦目の戦場だ(初戦は小手指河原の合戦)。その後、分倍河原、関戸と戦いが続いて鎌倉の攻防戦に入り、最終的に鎌倉に攻め入り幕府を壊滅させる。

久米川古戦場跡の碑

 八国山の遊歩道を上り、将軍塚に到着する。戦いに勝った新田義貞が白旗を立てた伝承がある。今回は、新田義貞の足跡を遡る旅でもあったので、ゴールに相応しい。

八国山・将軍塚

 遊歩道を下り、東村山駅に向かう。ちなみに、前半でも触れたが八国山がトトロの「しちこくやまびょういん」モデルだそうだ。

八国山・遊歩道


 15時半ごろ東村山駅に到着し、電車で自宅まで2時間程度掛かりました。これ以上離れるとアクセスに時間が掛かるので、とりあえず鎌倉街道上道はここまでとしたいと思います。
 ただ、この先は人口密度も少なくなり、これまで以上に古道の姿が残っていることが期待でき、比企や畠山などの有力武将のゆかりの地を訪れたりもできるので、とっても惹かれます。我慢できなくなって行ってしまうかも。

 今回歩いた古鎌倉街道に並行するように、現幹線道路としての「鎌倉街道」があります。この「鎌倉街道」は、道路のわかりやすく親しみやすい名称(東京都通称道路名)として、東京都が1963年に名付けたもののようです。正式な道路名は「主要地方道第18号 府中町田線」です。
 鎌倉街道上道沿いということで名付けたと思いますが、鎌倉に繋がっているわけではないし、神奈川県内には別の鎌倉街道があったりするので、わかりづらくなっている気がします(親しみと興味はわきますが)。

 


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