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佐藤優『獄中記』感想

はじめに

私が佐藤優氏の存在を知ったのは、19か20歳の頃だ。当時付き合っていた人が彼の著作を読み始め、『読書の技法』という本が面白いと話してきたのがきっかけだった。
元彼は佐藤氏の読書術、特に速読法について滔々と語って聞かせたが、当時の私は勝手にビジネス書・実用書の類を書いている人なのだと思い込み、そういった書籍には(現在に至るまで)一切興味が無いので、ほとんど聞き流していた。
元彼は熱心な読書家で、文学の趣味は比較的合っていたので、もう少し大人になったら読む機会があるかも知れないと思った。佐藤優という名前と、元外交官であったが何らかの罪で刑事罰に問われた事がある、という事だけは記憶に留め、爾来「何となく気になる人」として頭の片隅に残り続けていた。

ここ数日、Kindle Unlimitedで現代の日本人学者が書いた思想書をいくつか読むようになった。そんな中、おすすめとして表示されたのが本著であった。
『獄中記』というインパクトのあるタイトルに惹かれ、今般ようやく彼の著作を読むに至った。

つまりその程度の情報しか無かったので、恥ずかしながら彼が鈴木宗男関連の人物である事は本著で初めて知った。
とは言い条、これも恥ずかしい話だが、私は日本の現代史、特に戦後史に関する知識はほぼ皆無である。鈴木宗男を巡る事件についても、当時は小学生で、「疑惑のデパート」という言葉が流行語になった事くらいしか知らない。

大学受験では、日本史を選択していた。近代史までは人並みの知識がある。中学受験の時は、確か社会科の単元は「歴史」「政治経済」「地理」に分かれていた。「政治経済」というのは、要は日本の現代史である。歴史の授業とは、その時代毎の政治や経済の中で起こった出来事について学ぶ時間だと言えよう。

近代史までなら興味を持てるのに、何故自分にとって身近な現代史になると、途端に興味を失ってしまうのかを考えてみた。それは、現代史には「物語」が無いからだろうというのが私の導き出した答えである。
近代までは、年表の間に為政者やその周辺人物の思惑が描かれる。しかし、現代史にはそれが描かれない。19◯◯年××内閣発足、20◯◯年△△事件が起こる…といった単調な年表の繰り返しになる。
その上、現代の政治闘争では、近代のように武力を行使しない。暗殺も(少なくとも私のような一般人から見たら)ほとんど起こらない。その為、政治家の間でどのような政治闘争が繰り広げられ、それぞれがどういった思惑で動いていたのか全く理解出来ないのだ。

恐らく、(特に日本史を教える)教師は政治的発言をしてはいけないのだろう。十分な検証がなされ、ある程度の共通認識が生まれる事で歴史の「物語」は作られる。十分な検証を経ていない現代史の「物語」には、各人の立場や政治思想が反映される。好きな戦国武将の名前を挙げるのは良くても、小泉総理が好きだとか、共産党を支持しているといった発言は許されない。だから、年表を並べるだけの単調な作業になってしまう。
そういった意味で、本著は1990年代〜2002年までの日本現代史を「物語」として学べたという点だけでも十分に優れた本だった。

鈴木宗男「疑惑」について

鈴木宗男「疑惑」とそれにまつわる事件の真相とその概要については、本文中で何度も言及されているが、付録にある『塀の中で考えた事』という恐らく支援関係者に向けて書かれた文書にうまくまとめられている。要約すると以下の通り。

⚫︎小泉総理が打ち出した政策(①競争原理の強化 ②日本人の国家意識・民族意識の強化=自国中心的ナショナリズム)は、これまでの政権が行なってきた政策(①公平分配 ②国際協調的愛国主義)から大きく路線転換するものだった。
それを遂行する為に、日本の国策はパラダイム転換が必要になった。

・これまでの政権──つまり当時で言えば現体制の象徴的人物として、鈴木宗男を断罪し、パラダイム転換を遂げる「物語」を作ろうとした。

・佐藤優は鈴木宗男の側近であり、東京特捜部としては両者が絡む刑事事件を作り上げたかったので、佐藤優も巻き込まれる形で逮捕された。

⚫︎本件は、刑事事件では無く国策捜査である。

・鈴木宗男・佐藤優らが背負っていたリスクは国策に則った「政治的リスク」であり、刑事責任を追及されるようなものでは無い。

国策捜査が何故行われたのかといった点は、こちらも付録にある西村検事とのやり取りが分かりやすく、面白い。西村検事はかなり踏み込んだ検察側の思惑まで明かしてくれているのだが、その際に彼が発した──佐藤氏も「気に入った」と言う──「時代のけじめ」をつけるという言葉が、本件を端的に表していると言えるだろう。

獄中内での膨大な読書と思索の記録

『獄中記』というタイトルの通り、本著は2002年5月20日から2003年10月8日までの約500日間に亘って、東京拘置所の独房内で佐藤氏が記した手記をまとめたものである。メモや日記はもとより、弁護団や外務省の同僚、大学時代の友人に宛てた手紙、論文も掲載されている。彼はほぼ毎日、誰かしらに向けて手紙を綴っている。それが多いのか少ないのかは分からない。
日記や手紙の内容は、拘置所内での生活や国策捜査に関してだけでは無く、勾留中に読んだ膨大な読書や思索の記録も含まれている。これが何と言っても興味深い。

あとがきによれば、彼は約500日の間に「学術書を中心に二百五十冊近くの本を読み、四百字詰め原稿用紙五千枚分、大学ノート五十二冊のメモを作った」のである。レベチ過ぎて笑ってしまう。
獄中で囚人が読書に夢中になる事自体は、そんなに珍しくはないだろう。私はこのエピソードから、獄中で分厚い辞書を全て通読した黒人解放運動指導者・マルコムXを連想した(書いていて思い出したが、彼の伝記的映画『マルコムX』はとても面白い)。

著者の読書量と洞察力は並々ならぬものがあるが、わけても特筆すべきはその記憶力だろう。加筆修正した部分もあるかも知れないが、日本含む世界各国の神学、哲学、思想、政治等、多岐に亘る学問の歴史的出来事が詳細に記されている。しかも佐藤氏は、ドイツ語やラテン語等の語学にも取り組み、初期は検察からの取り調べに対応し、公判準備も丹念に行っていた。
著者は何度か、これまで出会った天才たちを褒め称えているが、彼も十分天才である。脳の活動スピードと知識量が尋常では無い。本著でも彼が速読法について触れた箇所があったが、それは背後に豊かな教養があって初めて可能になる読み方であって、私なんぞは一生かかっても真似できる芸当では無い。

私から著者への身勝手なお願い

本著には各国・各時代の様々な哲学書や思想書が紹介されるが、著者の独房内での読書がヘーゲル『精神現象学』に始まり、ヘーゲル『歴史哲学講義』に終わったように、ドイツ哲学が頻繁に引用・援用される。
実は、私は大学時代、ドイツ文学を専攻していた。ドイツ哲学についても、佐藤氏に比べたら明らかに浅学であるものの一応一通り学習した。カント、ヘーゲル、マルクス、フロイト、ハイデガー辺りの代表作は読んだ。特にカントの思想に感銘を受け、ドイツ語の練習もかねて『永遠平和のために』を苦労しながら原文で読んだ事もあった。
ヘーゲル『精神現象学』も読んだが、とにかく難解だった記憶しか無い。加藤尚武氏の入門書ですら難しかった。

そんな印象だったのに、佐藤氏によるヘーゲル解説のなんと分かりやすい事か。あれだけ時間を掛けて苦労しながら読んだ内容が、一読すれば理解出来るなんて…!
ヘーゲル特有の術語を使わず現代語を用いているのは勿論(彼は「止揚」等といった言葉は一度も使っていない)、国策捜査や佐藤氏らが行なってきた対露外交等に例えながら説明しているので分かりやすい。こうして現実の例、現実の言葉に置き換わると、ヘーゲル哲学は何ら難解では無く、ある人間が世界観を構築する上で現代でも極めて有効な思考法である事が分かる。
いくつか引用してみる(Kindleで読んだので頁数が分からない。すみません)。

ヘーゲルは「(知恵の象徴である)ミネルバのふくろうは夕暮れが近づいたときになって、やっと飛び始める」と言っていますが、一つの時代がどのような時代であったかということが理論的(知的)に認識できるのは、その時代が終わるときだという意味です。

ヘーゲルの法哲学からすると、「犯罪者は法秩序に違反していない」という奇妙な結論になります。このロジックは、市民が犯罪人として摘発され、裁判にかけられ、刑を受けることによって犯罪者と国家の間に和解がなされるわけであり、従って法(秩序)は維持されているということです。ヘーゲルによれば、法(秩序)に対する違反は、犯罪者によってなされるのではなく、国家が本来犯罪として裁かなくてはならない人物を放置しておくことによって生じるのです。

一つ目の引用は、著者が巻き込まれた国策捜査への目配せがされている。こういう比喩もあるから余計分かりづらいんだよね、古典の哲学書って…。あと、翻訳書を読むと「かれらは、われわれがそのときそうしたように」みたいな平仮名ばかりなのも個人的に理解を阻害していると思う。
こんなふうに解説を挟みながら、『精神現象学』を佐藤氏に翻訳して欲しい。しかしそれは大変だろうし、お堅い方々から猛烈なバッシングに見舞われてしまう気がするので、「精神現象学入門」という形で出版して頂きたい。切実に。出来れば、本著でも触れていたフーコー『監獄の誕生』やウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』も…。

世間ではよく「回りくどい言い方」や「現実離れした主張」に対するレトリックとして"哲学的"という言葉が使われる。しかし、本著を読めば分かるように、哲学というのは決して哲学者の脳内で完結する絵空事では無く、常に現実を見つめ、自分の身に起こった物事を理解する為に必要不可欠な学問なのである。
佐藤氏のように分かりやすい説明がなされた「入門書」が出版されれば、哲学がもっと広く伝わり、人々に「考える力」が備わるのでは無いかと思う。

20年後の「答え合わせ」

著者は、本件をきっかけに「公の世界」から去る。その前に、小泉政権が目指す政策が齎すこの先の問題について、いくつか触れている箇所がある。氏が危惧していた問題点を引用する。

日本の現政権は(…)ハイエク・モデル(引用者注:経済的強者がもっと強くなる事で、時間の経過と共に、弱者もかつて強者が持っていた恩恵に与れる(例えば、昔エアコンは金持ちの家庭にしか無かったが、今はどの家庭でもある)という考え方)を採択した。この場合、鍵になるのは、持続的経済成長が可能かということだが、この点について、僕は悲観的である。地球生態系の観点から、成長の限界について先進国は真面目に考えるべきである。

この大前提(引用者注:持続的経済成長)が満たされなければ、今後三年で日本社会内の貧富の差がかつてなく拡大する。これが総体として「がんばって勝ち組に入るぞ」という人の数を増やし、日本全体の活力を増やすのか、それとも「競争、競争と追われてもなかなか勝ち組には入れないので、どうせ食べていけないほどの貧困はないのだからそこそこ生きていければよい、むしろ自分の時間を大切にしたい」という人々の数を増やし、日本の活力が低下するのかについては見方が分かれるところだが、僕は後者の可能性が高いと思う。

日本の少子化傾向は当面続くであろうから、現水準のGDPを維持するためには労働人口を外国から獲得しなくてはならない。具体的には、中国、フィリピンから労働者が流入してくることになる。小泉型の自民族中心主義の下、日本では多民族社会への備えはできていない。しかし、外国人の流入は進んでいく。石原慎太郎流の「中国人が犯罪を運んでくる。外国人犯罪の取締を強化する」などというレトリックでは解決できない構造的な問題がある。このままの状態では、一〇〜二〇年のスパンで、日本は深刻な民族問題を抱えることになる。

一つ目の「地球生態系」に関する問題は、昨今声高に叫ばれているSDGsの概念により現実となった。
小泉政権はCO2問題に取り組んでいながら、環境・生態系から得られる資本の限界を無視した政策を推し進めたという事である。

二つ目は、コロナ禍を通して佐藤氏の悲観論より一層深刻な状態に陥っている。たった数万円を得る為に、若者達が闇バイト(特殊詐欺や強盗)に関与する事件は後を立たない。

三つ目も、残念ながら的中してしまった。外国人労働者は低賃金で酷使され、生きる為に犯罪に走ってしまう人も居る。こうした在日外国人のマフィア化は、マフィアの語が表す通り表社会からは目に見えない。しかし表裏は一体である。目に見えないが確かに存在する社会の裏側で、事態は刻一刻と深刻化している。
少子化問題も全く解決の糸口が見えない。マルクス主義の指す資本とは、地球環境から得られる資源と、健康的な成人男子という人的資源であった。だが、フェミニズムの台頭により女性の社会参加も必要となった。男女間での社会・経済的格差問題も解消されていない。

鈴木宗男らが志向した政治路線は、小泉政権が目指した政策とは異なるものだった。

鈴木さんの機能は、構造的に経済的に弱い地域を汲み上げ、それを政治に反映させ、公平分配を担保することだった(引用者注:ケインズ型の公平分配モデル)。

誰もが自分の国家、民族を愛する気持ちをもっている。特に国際政治や外交案件に従事する経験を積むとともに政治家、外交官は、愛国心を強く持つようになる。同時に、極端な自国中心的ナショナリズムが日本の国益を毀損するとの認識を強くもつようになる。
ナショナリズムには、いくつかの非合理的要因がある。例えば、「自国・自民族の受けた痛みは強く感じ、いつまでも忘れないが、他国・他民族に与えた痛みについてはあまり強く感じず、またすぐに忘れてしまう」という認識の非対称的構造である。また、「より過激な主張がより正しい」という法則である。(引用者注:鈴木宗男が志向した)国際協調主義と両立する健全な愛国主義と自国中心のナショナリズムの境界線はひじょうに脆い。

自国中心のナショナリズムを野放しにすると、それは旧ユーゴやアルメニア・アゼルバイジャン紛争のような「民族浄化」に行き着く。東西冷戦という「大きな物語」が終焉した後、ナショナリズムの危険性をどう制御するかということは、責任感をもった政治家、知識人にとっての最大重要課題と思う。
国際協調を考慮し、時には自国中心のナショナリズムを抑えることが日本の国益を増進することもある。

本著の元となったこれらの手記は、丁度20年前に書かれたものである(出版は2006年、文庫化は2009年)。当時佐藤氏が憂慮していた事柄が、こうして「答え合わせ」が出来たという点で、2023年に本著を手に取ったのは意義深い事だ。
佐藤氏の予想は的中した。──いや、予想を遥かに上回る劣悪な状態を生んだ。小泉政権が残した爪痕は、現在に至るまでわれわれを苦しめ続けている。

「よきクリスチャン」である為に

著者は、独房の中で過去・現在・未来について思索し、多くの書籍から新たな知見を得ながらも、信念は(外務省時代はもとより、学生時代から)一貫して揺るがない。

(引用者注:ユンゲル『神の存在』について引用し)要するにキリスト教であるとか、神であるとかについて全く言及しなくても、キリスト教の言うところの真理は他の形で言い表すことができるということだが、僕はこの考えに基づいて外交官という仕事をしていたし、様々な学術研究もしてきた。

「(…)むしろ「私は、どのようにしたら敵から敵性を取り去ることができるか」と問う。敵を愛することによって、私たちは、敵を私たち自身の責任の中にひきこみ、そこにまで私たちの責任範囲を広げるのである。それゆえ、敵を愛することは、「心情倫理」とは全く別なものなのである。」

モルトマン『イエス・キリストの道、メシア的次元におけるキリスト論』

神学の世界では、
①究極的なもの
②究極以前のもの
という概念を区別する。
神学的には、国家、民族、文化等は「究極以前のもの」に属する。しかし、「究極以前のもの」は、価値が低いとか、意味のないものではない。「究極的なもの」は、「究極以前のもの」を経由して準備されるのである。従って、「究極以前のもの」と真剣に取り組まない人間は「究極的なもの」をつかむことはできない。

そして、佐藤氏は『コリント信徒への手紙』を引用し、「『究極的なもの』とは、信仰(むしろ信念といった方がよい)であり、希望であり、愛である。」と締め括る。

本著を読めば、彼が如何に日本の国益の為に、信仰(信念)、希望、愛を持って働いてきたかがよく分かる。
今回の国策捜査でも、彼が望めばもっと早く保釈されていた。しかし、彼はそれを望まなかった。いくつか理由はあるが、最大の理由は鈴木宗男に対する「愛」である。鈴木宗男が保釈されるまでは、自分も同じ環境で苦悩を共にする──それが彼の選んだ(シモーヌ・ベイユ的な)「愛」なのである。
これは、著者が自分と鈴木宗男の関係性を「夏目漱石『こころ』の主人公と先生のような関係である」とはっきり書いている事からも明らかである。この一文は序盤に出て来るのだが、夏目漱石好きの自分は大変好印象を抱いた。チョロい奴である。

それにしても、当時のメディア、世論が「疑惑のデパート」等と侮蔑し、糾弾し、バッシングした鈴木宗男像と、身近で共に仕事をしていた佐藤氏の描く鈴木宗男という人物の間には甚だしい乖離がある。
佐藤氏の目に映る鈴木宗男は、誰よりも真面目に国益を追求し、政治闘争に徹する事が出来ない程優しく、質素な私生活を送る誠実な政治家であった。

最後に──勉強したくなる本

本著を通し、如何なる状況下にあっても、知的欲求さえ失わなければ人間は豊かな人生を送れる事を知った。この事実は私に強い勇気を与えてくれたし、読書が好きで良かったと素直に思った。
同時に、生きる上で教養(知識と、それを用いて意味や構造を読み解く思考力)が如何に大切で重要であるかを思い知らされた。改めて哲学を勉強したいと思わせてくれた。著者は全く意図していないだろうが、どんな自己啓発本より前向きに自己啓発してくれる本だった。

まずはヘーゲルを勉強し直すつもりだが、それにしても、哲学・思想書の類を最後に通読したのはいつであろう…もはや思い出せない。引越しの時、面倒がってほとんど実家に置いて来てしまった。
哲学的な思考力がほぼ無い状態で『精神現象学』を勉強するのは恐ろしいので、まずは入門書から取り組む事にする。

獄中の手記に励まされるというのは何とも奇妙な話だが、彼が獄中生活を中世の修道士になぞらえたように、私も自分の引きこもり生活が彼の獄中生活と重なって見えて仕方なかった。勿論、獄中よりずっと自由で、猫も居るのだが。そういえば、佐藤氏も愛猫家だった。

久し振りに良い読書体験をした。紙でも買い直そうと思う。日本人全員に薦めたい本である。

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