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ブラン氏の肖像 第二章「決心」

「あなたはフランス人なのですか?」そう尋ねてみる。

すると彼はこう答えた。「そうだ。私はフランス人さ。そしてずっと日本にいる。60年間ね。」

私はびっくりしてこう答えた。「60年間も?どうしてこの日本に?」

男性は帽子を少しずらしながらうつむき加減でこう答えた。

「そうさ。戦後まもなくしてこの地にやってきたんだ。色々な偶然が重なってね。」

私はいまだにその事実が信じられなかった。本気で言ってるの?そう思わされた。

しかし気になることが一つある。この人が戦後10年経たずにこの地に来たのだとしたらこの人の年齢は今…。70歳くらい?

そんなには見えないけどなあ。もっと若く見えるんだけど…。

さすがに歳のことは聞けないしそれは聞かないでおこう。

「あの、フランスってどんな場所ですか?」

私は共通項を探って話してみた。

「フランスかい?フランスはとっても美しい国だよ。日本に負けずにね。

特にパリはね。夜の街頭に照らされたパリの景色をモンマルトルの丘からみたらそれは最高さ。」

彼はそう言った。私は胸を躍らせながらこう言った。

「モンマルトルですね。私はすっごく行ってみたい場所なんです。映画でみてそれで…。」

「君、モンマルトルは芸術家たちの街だということを知ってるかい?サルバトール・ダリやピカソなどの芸術家たちがこぞって集まっていた。あのアーネスト・ヘミングウェイなんかも。」

へぇ、そうなのか。私は感嘆した。

「私、フランスに行ってみたいです。」

彼は言った「君、君の読んでるサルトルはね、こう唱えたんだ。実存は本質に先立つ、とね。そしてあのヘミングウェイも。勇気のあるものが一番強い、この世は挑戦するに値するとね。」

そして続けて言った。「君、本当は芸術家になりたいんだろう。ならばね、本当の芸術とは何かを知る為にフランスに行きなさい。そこで君は新たな価値を見出し新たな自分を見つけることだろう。」

私はハっとした。そしてこう思った。

この人は私とは何かをわかってくれている…。どうしてなんだろう…。

「行きたいんですけどね…。すぐには行動に移せなくて…。」

そう答えると、彼の顔は少し厳しそうになった。威厳のあるそういった風の面持ちであった。

「いかん。一度決めたことは行動あるのみだ。今、君に人生の転機が訪れていると思え。チャンスの神様は前髪しかない、と教えられたことはないかい?物事にはタイミング、というものがあるのだ。君は今、フランスに行くべき時なんだ。」

言い終えるとまた優しい面持ちに戻った。

「人間、失敗することもあるし、どうしようもなくなることもある。でもね、あの時ああしておけばよかったという後悔と、あの時こうしなければよかったという後悔では全然違う。前者の方が後者よりも大きい後悔なんだぞ。」

そんなことを人から教えられることはめったになかったから、私は不思議と温かい空気に包まれて勇気が体の中から湧いてくるのを感じた。

「はい。やってみます。」

私はそう言って男性に笑顔を向けた。

男性は帽子を深くかぶってお辞儀をすると、まるであのブラン氏のように、威厳のある恰幅の良いポーズを取って微笑んでいた。

あたりは暗闇に覆われ、街頭だけが唯一の光だった。

街頭を持っていた杖で指して言った。

「ラ・リュミエール、フランス語で光という意味だ。光を信じなさい。たとえあたりが暗くても光さえ信じていれば必ず道は通じるから。」

私は頬に秋風があたるのを感じながら心地よくその心の温かさと優しい何かに包まれる感覚を覚えた。

そんな風に数秒、目を宙にやっていたうちに目の前にいた男性は忽然と姿を消していた…。

「うそ…さっきまでそこにいたはずなのに…。」

私はびっくりしてあたり一面を目で追った。どこにも彼の姿は見当たらない。100m先も見渡せるくらい視力は良いはずなのだがそれでも彼の姿は見当たらなかった。

ふと、ベンチに目をやった。彼の杖が背もたれの部分にかかっていた…。

次回に続く