身分証明書

病気になるまでがんばったんだなぁ、俺
温泉に通った程度で治った軽いうつ病を通過しただけで
地獄から生還したかのような悦に浸るこの男を
私は内心、軽蔑している
本物の地獄がどんなところかも、知らないくせに
でも、だからこそ結婚した
同類とは親友にはなれても、永遠を誓うことはできない
誓ったが最後、それは共にあの世へと旅立つ最短距離の列車に
飛び乗ることに他ならないのだから
この世で結局手に入ることのなかった、笑顔で見つめ合いながら
あと一歩、いや半歩で、そういう結末を迎えていたはずの人生だ
あの時死んでいたら今よりずっと幸せだったと断言できるけれど
それでも人間は最後の最後、いざとなると、穢れ切った命によって、
穢れ切った選択をする
彼のことはこの20年、片時も忘れたことはない
同じ紋章の、呪いの刻印を授けられながら生まれてきた、魂の双子
この世で巡り合えたのは、奇跡だとしか言いようがない
例え、愛し合う場所が、紛うかたなき、本物の地獄の只中だったとしても
幸せだったのだ、私は
私の前でしか笑わない彼の笑顔に触れる度に
バースデーケーキを手作りしたら、あれよあれよという間に
ワンホールごとたいらげてしまって驚嘆させられた時も
心の底から嬉しかった、私もまた、彼の前でしか笑えなかったから
でも、捨てた
逃げ出した
私なしでは生きていけない彼を一人残して
生存本能のままに、私は自分の命だけを守った
彼なしでは生きていけないのだと信じていた自分は
その実、彼によって引き出されてしまう本来の自分では
生きてはいけないのだと理解した瞬間の孤独と絶望と
2つに増えた、裏切りという消えることのない焼き印
夫は本当によく泣く
過去の日記を読み返しては、己の忍耐と努力に酔いしれるのが趣味らしい
私は極力、笑いもしないし、泣きもしない
私が笑うのは、私が泣くのは、彼の前だけだからだ
そんな誓いを貫いたところで、彼はもう戻らない
分かってる
分かってるけれど
ベッドで深夜、一人になってから、私が彼にあげたぬいぐるみ、
彼の好きだったバンドのマスコットキャラクターを私が縫ってあげたら
片時も離さず傍に置いて、ヤニで黄色くなった古ぼけたぬいぐるみを
抱きしめながら、一人で泣く
愛してるわ、と声を殺しながら
私は今も、地獄の最中にいるのだろう
呪いと罪の双頭の竜が、私を業の炎で焼き尽くす
一生分かり合えないからこそ、一生心中したりせずにすむ相手と
結婚した私は、どこまで狡猾で浅ましいのだろうか
だって、本物の愛は、死しか呼び寄せないのだから
あのね、あなた、それが本当の地獄の住人の身分証明書なのよ

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