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メダリスト 【ショートショート #01】

「あれ、金田さんじゃないですか?」
 どこか、見覚えのある顔だった。四角い大きな輪郭に、白髪の混じった長髪が覆い被さり、その顔と髪の隙間に、細い黒縁メガネのテンプルが突き刺さっていた。歳は60から70代近いことが、額に伸びた無数の皺から読み取れた。

 ひとり、飲みに入ったバーのカウンター。俺が腰掛けた椅子のたまたま隣に、その男は座った。飲み始めてから少なくとも2時間は経っていただろう。バーのマスターにヴェラヴェラと愚痴をこぼしているところだった。
 親しげに声をかけられ、振り向きざまにその顔があったものだから、俺はそれをすでに見知った人間の顔だと思い込んで、反射的に「ああ、お久しぶりです」と応えてしまった。だが、どこで会ったかも、名前さえも思い出せなかった。“金田さん”と呼ぶからには少なからず俺のことは知っているようだ。取り急ぎ愛想笑い浮かべてみた。ところが、男は意外にも「あれ、どこかでお会いしましたっけ?」とキョトン顔。首を傾げ、記憶を辿るような目線を宙にやった。しまった、知らない人だったか?と俺は狼狽。自意識過剰だったかと羞恥から顔が熱くなった。
 急に酔いが回ったような気がしたが、人の顔を判別できるくらいには、まだ意識は確かだった。どこの誰かは思い出せないが、俺はその男の顔を確実に知っている。
「すみません、初対面でしたっけ」
 俺は探りを入れてみた。
「ええ、おそらく」
 おそらく?会っている可能性もあるのか。男は構わずカウンターに向きなおり「いつもの、お願い」とマスターに注文した。どうやら常連のようだ。
「でも、知っていただいてるんですね、私のこと」
「もちろんです。日本柔道界のスター、金田選手じゃないですか。しかし、惜しかったですねぇ、準決勝」
 またその話か。
「負けは負けですよ」
「いえいえ、そんなことありません。こんな言葉があります。『人生は勝ち負けじゃない。負けたって言わない人が勝ちなのよ』って」
 急に金口めいた言葉を吐いたものだから、俺は思わず笑ってしまった。思春期の少年少女が好きそうなキザなセリフ。言った本人は悦にいった感じでいるのがまたおかしかった。
「じゃあ、やっぱり負けですね」
 俺は独りごちた。
 マスターが「タケダさん、どうぞ」とカウンターにグラスを置いたところで、男の名字が“タケダ”であることだけは判明した。男はグラスを持ち上げ、励ましの気持ちを込めるように俺のグラスに近づけた。俺はそれに応えた。

 会話は進む。
「そういえば近頃のスポーツニュースをご覧になられましたか?」
 男は無神経にも、その話題を掘り下げていく。
「いえ、今回の件を見たくないのもありますが、もともとテレビは見ないので」「まったく、ひどいもんですよ。金田さんが銅メダルをお取りになったのに、柔道男子の金メダルがゼロだからって、発祥国の面目が丸潰れだとか、日本柔道の危機だなんて言われようです」
「ははは、そんなことまで」
「報道の連中には呆れますね。選手たちの努力を何もわかってない」
「ありがとうございます」
「でもね、私もね、いち日本人として、金田さんには金メダルをとっていただきたかった。いえ、今からでも、ぜひ獲ってもらいたい」
「ははは、今からって言ったって次は4年後ですから。それまで選手としての寿命が残っているかどうか」
「4年後?何をおっしゃる。「今」からですよ」
「今から…どういう意味です?」
「だから、まだ全然遅くないということです」
「またさっきの名言みたいなことですか?自分が金メダルだと思えば金メダルになるって?」
 男の目は真剣だった。
「今メダルはお持ちですかな?」
 俺は、ちょうど上着のボケットにメダルをしまっていたのを思い出した。昼間、甥っ子にメダルを見たいとせがまれ、金ではないそれをややもすると苦々しい気持ちで見せにいった帰り、やり場のない気持ちを酒で呑み込むためにここへ寄ったのだった。
「あ、ちょうど持ってます」
ポケットからメダルを半分出して男に見せた。
「では、参りましょう」
 俺は男に引っ張られるようにしてバーを出て、タクシーに押し込まれた。男は運転手に聞き慣れない番地を告げた。

「はい、着きましたよ」
 男の声で俺は目覚めた。着いたって、どこに?
 タクシーに詰めこまれてから、酔いの恍惚に意識をほだされて眠っていたようだ。メーターは1万円を軽く超えている。男が慣れた手つきで運賃を支払い、夢うつつのままタクシーを降りると、車道を挟むようにして永遠と雑木林が広がっていた。こんなところに何の用があるのだろう。
「さあ、金メダルはもう目と鼻の先です」
 そうか、メダルだ。
「どこにあるんですかぁ?金メダルが」
「こちらです」
 男は草木をかき分け、林の中へ入っていく。悪ふざけがすぎやしないかと思ったが、ここまでくるともはや面白い。この時点で踵を返すこともできた。酒のせいで判断が鈍っていたことは否めないが、多少の恐いもの見たさも相まって、男についていくことに決めた。それに俺は酔ってもメダリスト。いざというときは得意の体落としで投げればいい話。しかも相手は中年オヤジだ。
 俺は男を追って林に分け入った。車道の脇に連なっていた街灯の明かりは、すぐにも届かなくなったが、なんとも奇妙に明るい夜で、木々の隙間から月明かりが漏れ、気がつけば夜目も慣れていた。

 道ともおぼつかぬ道を、どれくらい歩いただろう。酔いも醒め始めた頃、突然ひらけた場所にでた。
「ここです」
 目の前に池があった。
「何ですかここ?」
「泉です」
「泉?」
 周囲はまるでフォグマシンを焚いたみたいに薄くモヤが立ち込め、水面は神秘的に弱く青白い光を放っている。泉と呼ぶに相応しい泉だ。
「金田さんはイソップ寓話にあるヘルメース神ときこりの話をご存知です?」
「はあ、金の斧、銀の斧ってやつですか?」
「そうです。きこりが泉に鉄の斧を落として嘆いていると、泉からヘルメース神が現れて『あなたが落としたのは金の斧ですか、それとも銀の斧ですか』と尋ねる。きこりが『私が落としたのは鉄の斧です』と答えると、ヘルメース神はその正直さに関心して金と銀の両方の斧をきこりに与えたんです」
「そんなおとぎ話とこの泉にどんな関係が?」
「現実にその泉があると言ったら、金田さんは信じられますか?」
 暗がりの中で男のやけに白い前歯が妖しく光った。
「まさか?」
 男はゆっくりと頷いた。そして落ちていた石をひとつ拾い上げ、泉に投げ込んだ。
「はい、注目ゥ~」
 得意げな男の顔を横目に、石の沈んでいった泉の底から丸い玉のような光が生まれ、エレベータの昇降機に引っ張り上げられるように浮上してくるのがわかった。水面がジェットバスのように泡立つと、後光を差した女の姿がすうっと現れ、光のエレベータは地上階で静かに停止した。
 へ、ヘルメース神…?まさか。俺は目を疑った。光に包まれた女は厳かに口を開いた。
「あなたが落としたのは金の石ですか、それとも銀の石ですか?」
「私が落としたのは普通の石です」
「正直者ですね。そんなあなたには、金と銀の石もあげましょう」
 ヘルメース神は三つの石を男に渡すと、ゆっくりと水中に下降していった。
「これでお分かりになったでしょう」
 男は無造作に石をしまいながら言った。
 何が分かったっていうんだ。訳が分からない、が、現実であることは疑いようがなかった。
「さあ、あなたの銅メダルも泉へ」
 男は俺の上着のポケットを見やり、手を差し伸べた。そこで俺はようやく男の意図を理解した。そうか、泉にメダルを落とせば…。だが、俺は急に怖くなった。
 金メダルが欲しいには欲しい。これまで俺はどんなに厳しい練習にも耐えてきた。実力的にはほぼ確実だと言われていた。それなのに結果は銅。金メダル、喉から手が出るほど欲しい。それに、金メダルひとつで委員会からの報奨金は500万円。欲しい!だが…。
「どうしました?」
 男の手はこちらに差し伸べられたままだ。急速に酔いの醒めた頭で思考を巡らす。しかしだ、目的はなんだ?いったいこの男になんのメリットが?引き換えに金でもせびろうというのか。
「どんな見返りがほしいんです?」
 男に問うた。
「そんなんじゃありません」
「じゃあなんのために?あなた、まさか柔道連盟の方?俺が金メダルを獲れなかった失態で責任をとらされるとか、そういう?」
「いいえ、私は善意で活動しているんです。私はただの愛国者。日本に一つでも多くのメダルを獲ってほしいだけです」
「よ、よくわかりません」
 俺はこんなところまでのこのこついてきてしまったことを後悔しはじめた。
「いいからメダルを出してください」
「嫌です。俺はこれでも武道家なんだ。そんなズルをしてまでメダルなんか獲りたくありません」
 どうやら俺はプライドの男だった。
「何を言ってんだこのバカチンが!」
 男は突然長髪をかきあげ、堰を切ったように語気を強める。俺が勢いに押されて後ずさると、すかさず男は詰め寄った。
「ここまで連れてきた私の善意を踏みにじるんですか?」
 男は伸ばした手で俺のポケットからメダルを奪い取ろうとし、俺はその手を払いのける。揉み合いになった。見た目のわりに強い力だったが、腐っても俺はメダリスト。男の胸元と腕をがっちりと掴み、勢いよく投げ飛ばした。
 投げた拍子に男の体は泉の中に落ち、しぶきが上がる。
「しまった!」

 …男は浮いてこない。大丈夫か?揺れる水面から男の代わりに顔をだしたのは、先ほどのヘルメース神だった。両腕に金と銀に光る二人の“男”を抱えている。
「あなたが落としたのは金矢ですか、それとも銀矢ですか?」
 金矢、銀矢…?
 瞬間、男の苗字を思い出す。
 そうか、どうりで男の顔に見覚えがあったわけだ。俺は完全に思い出した。そしてメダリストらしく正直に、男の名前をヘルメース神に告げた。

「俺が落としたのは、鉄矢です」


(了)


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