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「本を読まない」ということ――横尾忠則『言葉を離れる』

私の夫は、仕事に関係する以外の本を全く読まない。余暇に小説を愉しむ、などということはまずない。
読むのは昔のジャンプ漫画(『こち亀』とか『男塾』)くらいだ。

わが子も、どちらかと言うと読書嫌いかもしれない。漫画や図鑑は熱心に読むが、それに比べると、文字の本はあまり読まない。
第一、ゲームとYouTubeに割く時間が多すぎて、読書にまで手が回らないといった様子だ。

私はわりと活字を読む方で、用がなくても図書館や書店に行くし、電車の中吊り広告やペットボトルのラベルなどもじっくり読んでしまう人間である。

『ぽたぽた焼き』を例にとるなら、私はせんべいを貪りつつ「おばあちゃんの知恵袋」を読み込むタイプで、夫と子は読まずに捨てるタイプだ。
私にとっては「知恵袋」でも、彼らにとって、単なる個包装フィルムなのである。

私は常々、夫と子に少しは読書習慣をつけてほしいと考えていた。
というか、「本読まなくて不安にならないの?なんで読まずに居られるの?」という、半ば苛立ちのような気持ちで彼らを見ていた。

“活字からしか得られない栄養”の存在を信じている者からすると、「本を読まない」というライフスタイルは、ちょっと理解しがたいものがあったのだ。


しかし、私のそんな考えは、横尾忠則のエッセイ『言葉を離れる』によって改められることになる。

著書多数、初の小説では泉鏡花賞まで取っている横尾忠則であるが、意外にも、少年時代はほとんど本を読まなかったという。

芸術の根幹は、肉体を通過した「感覚」であり、文字によって観念や知識を詰め込んで、感覚を失ってしまうより、人や自然界との「言葉にならないエネルギーの交流」をすべき、という考えだったのである。

実際に横尾忠則は、錚々たる文学人・芸術家らと交流し、知見を広めてきた。
付き合いのあった三島由紀夫の本は新刊が出るたびに読んだそうだが、作品よりむしろ、三島本人から直接受ける影響の方が多大だったようだ。

このことについて横尾忠則は、作家本人の〝肉体的存在そのものが文学に成り代わってしまい、本が不必要になる〟と書いている。かなりインパクトのある一文である。

『言葉を離れる』のタイトル通り、この本には、言語に押し込められることのないエネルギーが溢れていた。
人に大切なのは経験や感覚であり、言葉はツールに過ぎないということを再確認させられた。

そして、「家族にもっと本を読んで欲しい」という私の気持ちも改められた。

考えてみれば、文字の本を読んでも読まなくても、夫は普通に社会人として生きている。
子にしても、面白い作家に出会ったり、必要に駆られたりすれば、ひとりでに本を読むようになるだろうし、たとえ読まなくても生命は維持できるのだから、別に読みたくなきゃ読まないでいいではないか。
そういう気持ちになった。

むしろ省みるべきは、私自身ではなかろうか、と思った。
「自分は本読みだ」と威張っているけれど、読んだ本をすべて理解しきって血肉化しているわけでもなく、いわば、タバコの代わりに文字を喫しているだけに過ぎない。
それこそ、この本にあるように、「知的活動をしているという安心感」を得たいがための読書習慣なのではないか。

読書にしろ、書くことにしろ、私はちょっと言語偏重のきらいがあるのではないか。
では私は人生に於いて、言葉以外のもので、肉体的には一体何を会得してきたのか?
目と脳を通過するばかりの、タバコを呑むような読書の他には、食うこと、寝ること、女で居ることの他、何もしてこなかった人生だったのではないか?

『言葉を離れる』の読書体験は、夫や子への不満を晴らした代わりに、自分の読書習慣への疑いという、どデカい置き土産を残したのである。

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