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手塚治虫というトラウマ震源地

小学校高学年のあるとき、親戚からどっさり漫画を譲り受けた。
重たい段ボール箱の中には、『ブラック・ジャック』や『ブッダ』が全巻揃っていた。
それらが、私が初めて触れた手塚治虫作品となった。

『ブラック・ジャック』を一気に読んだ日、私は夕食を断った。グロテスクな描写にショックを受けて、食欲をなくしたからである。

ピノコ生成(製造?)の過程にまず衝撃。オカメのお面にすら「ヒエーッ」と恐怖。
無情すぎる死の残酷さや数々の奇病に吐き気。
「ちぢむ!」はその夜の悪夢に出たし、トドメに“無頭児”で完全にK.Oだった。(これに関しては、未だに思い出すのも嫌だ。)

物語の面白さに夢中になった一方で、『ブラック・ジャック』は、私に数々の恐怖と生理的嫌悪を植え付けた。
このトラウマは、私の心に長らく居座り続けることになる。

いくら物語が素晴らしいとわかっていても、成人してからも『B・J』を読み返す気にはなれなかったし、馬鹿らしい話だが、妊娠時も、いくつかのエピソードが脳裏を過ぎり、無駄に不安になったりした。

「B・J恐怖症」が多少和らいだのは、年末の「笑ってはいけない病院24時」で板尾創路がパロディをやっているのを見たときである。

笑いの題材として提示されたことにより、『B・J』のグロテスクで悲劇的なイメージが大分和らいだ。全面的なトラウマ打開とまでは行かなかったが、板尾さんには感謝である。


『ブッダ』も、『B・J』を読んだ後すぐに読んだ。確か泣きながら読んだ。
これもこれで、食欲が失せた。「すごいものを見た」という感動のあまり、である。
ブッダの生涯を描ききった手塚治虫の偉大さを思い知った。
「この人の作品はすごい。読むのが苦しくても、読まなくてはならない」と思った。

他の作品も読んでみたいと思い、たまたま古本屋で投売りされていた短編集を手に取った。
それがよくなかった。タイトルがもう、『手塚治虫恐怖短編集』だったもの。
放射性物質の作用で自らの体を魔改造する鳥の話が、恐ろしくて気持ち悪くて、吐き気がして、頭が痛くなった。
私はついに、その本を不透明の袋に入れて、厳重に口を縛り、ゴミに出したのであった。

一度はくじけたが、めげずに、再び氏の本を手を伸ばした。
なんとなくヒューマニズム的な印象のある『火の鳥』なら大丈夫だろうと思った。
表紙の綺麗なものを選んだ。「壮大なSF系ね。うんうん」と読みすすめ、子孫を残す為に自ら産んだ子と交わるくだりも「まあ・・・うん」と飲み込み、触手の生えた子孫や、雌雄一体の奇妙な生物のあたりで「うう・・・」となり、意思ある岩石のあたりで「無理」とグロッキーになってしまうのだった。
私が手に取ったのは、倫理観揺さぶり度の特に高い『望郷編』なのであった。

それから長らく、手塚作品には手を出していなかった。

でも、成人してから、気になった事柄について調べていると、どの道を通っても、必ず手塚治虫に突き当たった。

たとえば田舎のドロドロを取り上げた作品を調べると『奇子』が出てくるし、「ミューズ」や「ファム・ファタール」というワードからは『ばるぼら』に辿りつくし、『仮面ライダー鎧武』から虚淵玄を知れば『沙耶の唄』(未見)、そして『火の鳥 復活編』に行き当たる。

手塚治虫は、避けて通れない道なのだ。

私は二度目、いや三度目?の覚悟を決めた。今度こそ、手塚作品をきちんと読もうではないか。もう三十も越えているのだし、さすがに大丈夫だろう、と。

しかし、トラウマは根深かった。
いざ本屋へ行って、あの手塚治虫全集の白と黒の背表紙を見ると、震えが来た。

手始めに、周辺からじわじわ近づいていくことにした。
ご息女の手塚るみ子さんが参加された鼎談集『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』を読んだ。
これは大正解。漫画の神様も人間だったのだと、ひと安心する内容だった。

この本に収録されていた手塚作品も良かった。ほんわかギャグテイストのド下ネタ漫画「ペックスばんざい」というもので、それこそ赤塚漫画並みの気楽さで読めた。

また、手塚治虫にあまり高尚なイメージを持ちすぎないことにも努めた。
私が人並み以上に手塚作品を怖がっているのは、「手塚治虫=人格者、医師免許も持っている立派な人、漫画の神様」の図式を意識しすぎているせいで、「たかが漫画」を必要以上に真に受けてしまうからだと自己分析した。手塚作品と向き合うには、重い描写もギャグとして面白がる余裕が必要である。
そういう意味では、田中圭一氏のパロディ漫画の存在が役立った。

また、ネット上で火の鳥が「クソ鳥」「コズミック害獣」「スーパーファッキンバード」とボロカスに叩かれていたのを見たときは、だいぶ勇気が湧いた。そういう見方をしてもいいのだと、枷が外れた気分になった。

そして、現在である。
私は『火の鳥』の読破に取り掛かっている。ただ、『望郷編』をなるべく遠ざけた読み方をしている。
刊行順で言えば「黎明編→未来編→ヤマト編→・・・」と言う具合に、過去と未来を行き来する構成になっているが、私は「黎明編→ヤマト編→鳳凰編→・・・・」と、作品内の時系列順に読んでいる。徐々に心を慣らして『望郷編』に近づこうという算段だ。

今のところ、楽しく順調に読み進んでおり、子供時代に読んでいたらトラウマになっていたであろう『ヤマト編』の生き埋めも、『黎明編』の絶望的な洞窟暮らしも、無事受け入れることが出来ている。
まあ、たまに寝る前に思い出して眠れなくなったりもするが。

ネットであらすじを読む限り、時代が未来になるにつれ、よりシビアな描写が増えていくようだ。なんとか心の調子を整えつつ、読破しようと思っている。

「そこまでして読むか」という感じだが、「そこまでして読まなきゃいけない作品」なのだと思う、手塚作品は。

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