だふにあ

1967年生まれ。過酷なサラリーマン生活を経て退職「真の豊かさ」とは何か?どうやったら…

だふにあ

1967年生まれ。過酷なサラリーマン生活を経て退職「真の豊かさ」とは何か?どうやったら「幸せ」が作られるのか? そもそもなぜ「幸せ」を求めるのか?等々、日々の生活の中で感じたことや思いを綴っています。東洋思想哲学、易学にふれて30年。近親者以外は占定しない「売らない占い師」です。

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エネルギーを補充する方法「大器晩成」

エネルギーを補充する方法は大きく分けて二つあると私は考えています。 ひとつは以前よりお話している大地や自然などから得ること。 大きな空をゆったりと流れる雲をながめて過ごす時間。 こころが落ち着き、リラックスしたとき、エネルギーが補充されているのだと私は思います。 もうひとつは、だふにあ線コントロールにより、あなたの中の基準線を引き直したときに、不安、不満というエネルギーロスを止め、足るを知り、感謝の方向に反転し、負の要素は次なる何かの「サイン」とプラスに向きを変え、エネル

    • 失敗の先にあるのは成功ではない

      内面的な取り組みは、何かをしたから一回で変わることはなく 必ず上手くいかない状態を何度も繰り返すことになります。 そう必ず失敗をするのです。 しかし、重要なポイントは、その後の行動にあると私は考えています。 何故失敗したのかを真摯に受け止め、考えられるかどうかに かかっていると思います。 何かのせいにしたり、くよくよしていても何も生まれない。 どこが悪かったのかをよく考えること と同時に再度チャレンジしてみること。 でも、次もまた失敗するのが現実でなのです。 その次

      • 「こせい」の時代

        組織や集団の中にいても、「こ」という自分を これからは見つめる必要があると私は考えます。 「こ」といっても自己中心主義ではありません。 幽体離脱のごとく、客観的に自分を見てみること 他人との比較ではなく「自分自身で自分を」見てみる。 そんなことが重要になってくるのではないかでしょか。 そこで「コセイ」が重視されると思いますが、 それは「個性」ではなく、「己性」だと思うのです。 「己」はつまり「おのれ」であります。 よく「個性的な人」などと聞きますが、この言葉は 既に他と

        • 「死生観」が難しいのは本能的なもの

          「死生観」を感じることが難しい理由のひとつとして、 現在は、様々な面で安全性が確保され、「死」が 遠ざかっているために「生」を感じる機会が極端に少なく 「幸せ」や「豊かさ」を感じることが 難しい環境となっている話をしました。 しかし、それ以外にも「死生観」がわかりにくい理由として 人が生きていく上での「本能的な要因」があると私は考えています。 人は自分がいつ死ぬか知ることは「恐怖」であり、 潜在的に「死」を意識しないように 「死」から遠のくようにできている からだと思いま

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        エネルギーを補充する方法「大器晩成」

          「シンプルさ」と「死生観」

          日々の行動を「シンプル」にしていこうすると 「捨てるべきか残すべきか」の選択にせまられる ことが出てくる場合があります。 そこには、なんらかの判断基準が必要になります。 その判断基準すら究極にシンプルにするならば 少し極端すぎるかもしれませんが、 それは「死んでしまうか?」の選択になると 私は考えています。 そのもの自体がないと死んでしまうのなら 「捨ててはいけない」 それ以外は大したことはないので 悩む必要はなく自然に任せると考えています。 「死」を意識する。 それは

          「シンプルさ」と「死生観」

          物事はできるだけシンプルに

          私は何事もできるだけ「シンプル」を目指しています。 まず机の上が散らかっていたら、あの書類はどこだ、はさみはどこ、 ボールペンはどこと。。。。。。 時間もロスだし、探している間とてもストレスを感じます。 これを変えるのは一体誰でしょうか? もちろん「自分」しかいないわけです。 以前風水についてお話しましたが、運気をあげるには 玄関、水回り、火の回りを掃除して清潔を保ち、 運気の流れをよくすることが大事でした。 身の回りだけでなく、行動も整理整頓、シンプルであるべきと思い

          物事はできるだけシンプルに

          捨てれば、入る

          「俯瞰」して「受け入れ」て「思考」する この繰り返しで、だんだんと自然の摂理、エネルギーの流れが がみえてくるはずなのですが、始めたばかりのころは それを邪魔する「ノイズ」にとても苦労しました。 「ノイズ」は常識という既成概念であったり、競争という 他人との比較をすぐにしてしまう習慣から抜け出せないことに あります。効率を求めてしまうことや何か作為的にものごとを 実行しようとする「癖」から抜け出すのにも時間がかかります。 そこは諦めずに取り組んで頂きたいと私は考えています

          捨てれば、入る

          水になった気持ちで待ってみる

          「上善水の如し」という言葉を老子が説いています。 水のように生きるのが最上であると説いた言葉です。 水は万物の下へ下へと落ちていきます。 つまり出しゃばることなく下支えをする。 されど、雨だれ石を穿つのように、水は石にあなをあけ、 ときに大きな強い力を秘めています。 また、とても柔軟で、丸い器に入れば丸くなり、 四角い器にいれれば、四角い形に変化する。 そういった水のように生きていくのが最上だと説いています。 競争社会の概念は効率を重視し、短時間にこなすことが 良しとされ

          水になった気持ちで待ってみる

          答えはすぐには見えない

          起きていることを「俯瞰」し「受け入れ」 次に「思考する」ステップに私は移ります。 このときの心構えは、自分の思いや行動など 小さなものであり、もっと大きなエネルギーの中で 自分は勝手に波に乗せられ運ばれていると考えます。 実際にはその時に起きていることの「答え」が 「俯瞰」してすぐにわかることは少なく しばらくしないとわかってこない方が多いため 「焦らないこと」が肝心です。 少し考えたら、一旦心にとどめておき、 日々の通常の取り組みを続けます。 自己顕示欲や損得勘定をな

          答えはすぐには見えない

          俯瞰して起きていることを受け入れる

           自分を「俯瞰する」とは?? 私の方法を説明したいと思います。 もちろん置かれた環境により、大きく異なりますので 必ずしも正解とは限りません。 第一ステップは 起きている現象の理解(受け入れ)です。 なんだか上手くいかない時 自分としては、真摯に取り組んでいるのに、どうもうまくいかないな? と思うことはないでしょうか。 何度も連絡したが、連絡が取れない。 行こうと予定していたが、急な用事ができていつもいけない。 なかなか機会が合わなくて、会うことがきない人など。 こ

          俯瞰して起きていることを受け入れる

          幽体離脱で自分を俯瞰してみる。

          忙しい毎日の中で自分をどうやって見つめなおすか。 とても難しい時代になったと思います。 ネット社会の発達により、世の中は情報過多となり、 加速度的に忙しくなってしまったように思います。 私もかつては、そんな一人でした。 では、あなたはなぜ忙しいのでしょうか? あなたは、一体何に忙しいのでしょうか? それはあなたがしたいことでしょうか? 人は便利なものを作り出し、それを使うことによって効率化を計り、 無駄な時間を減らし有意義な時間「豊かさ」を求めてきたはずでした。 し

          幽体離脱で自分を俯瞰してみる。

          地方は豊かなエネルギーに満ちている

          高度成長期のあと、日本は競争社会から抜け出せず、 結果として「ストレス」と「多忙」の波に呑まれる 毎日となりました。 認識すべきは、物を使う目的ではなく 「所有」することにより他との「ステイタス」 という「優位性」を感じ、そこに「豊かさ」を 求めた流れに誤りがあったのだと思います。 しかし、成長しない日本は、かえって競争社会を 諦めつつあり、書店には健康や生き方を考える本が 多くみられるようになりました。 今まで、地方は競争社会から脱落した「過疎、限界集落」 というよう

          地方は豊かなエネルギーに満ちている

          「豊かさ」は「所有」ではない

          お金を稼ぎまくり、高級車や別荘を所有し、他者と比較して優位性をもつことは、他からエネルギーを得ようとする「賞賛」に通じていきます。 しかし、ここで注意して頂きたいのは、私は別荘や高級車を所有することを否定しているわけではありません。 自分の人生で心が安らぐ、自然と一体となるための別荘や車を走らせることに生きがいを感じ、心地よい走りをすることが自分の「豊かさ」に直結するものならば別荘も高級車も問題はないとおもいます。 問題は、それをただ所有することに対して、他人との比較を行

          「豊かさ」は「所有」ではない

          本当の「利他」は難しい

          「他人のために」という意味では、「利他」という言葉も 最近耳にするようになりました。 「利他」といっても、その行動はとても難しく 本質を理解せずに「利他=良いことに貢献」という意識が いつしか「賞賛」の目的にぶれてしまうことがあります。 取り組みとしてはとてもよい活動も、再び競争社会の 価値観に陥り、崩れていく現実をいくつも見ました。 例えば、私もボランティア活動を立ち上げてきましたが、 中には活動が進むなかで、私や私たちは「困っている人」や 「町のため」に活動している

          本当の「利他」は難しい

          徳を積むのは正解か

          では「ありがとう」と言われるために他人のために何かを行えば、 幸せになり「豊かさ」を感じられるのでしょうか。 ここで注意すべきことがあります。 「徳を積む」という言葉があります。 何か後でよいことがあるという見返りを考えて「作為的行動」をする。 途端に「ありがとう」はエネルギーでなくなってしまう気が私はします。 エネルギーは投資ではないので、リターンは存在しないし、 作為的にやるとどこか「ギブとテイク」の計りに載せて 「比較」する関係と同じようになってしまう。 本当は

          徳を積むのは正解か

          人を助けたエネルギーは強い

          豊かさの根本となる「エネルギー」を感じた ひとつの実体験のお話をします。 私「だふにあ」は,、かつてストレス社会で流され続けている時に、 迷走しながらも、自分にとって何が「幸せ」なのかを必死に 考えた時期がありました。 その答えの入り口がある日やってきました。 道端で倒れた老人を救護したのがきっかけでした。 前を歩いていたおじいさんが、突然、そのまま意識を失い 後ろに倒れ、私の胸のなかに偶然にもすっぽりと入ってきた。 あわてて持っていたカバンを投げ捨て、必死に倒れな

          人を助けたエネルギーは強い