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【告知】リレーエッセイ企画第二弾! 夏目漱石の講演「文芸と道徳」を読む

 来週から、前回の小林秀雄「栗の樹」をテーマにしたリレーエッセイ企画の第二弾、『漱石の「文芸と道徳」を読む』を開始します! 以下、雑誌メンバーに企画者(二ツ池七葉)から共有した前書きになります。

前書き
 明治維新による社会の変化を生身で体験し「一身にして二生を得るが如し」と言ったのは、今年で万札の顔としての大役を終える巨大思想家・福沢諭吉であったと記憶している。二五〇年余に渡って続いた幕藩体制が終焉を迎えると、平民に対する苗字使用の認可にはじまり、果ては議会制の確立に至るまで、短期間の内に日本社会にありとあらゆる改変が加えられた。そんな激動の時代を諭吉は生き、同じくかの夏目漱石も生きた。
 歴史年表を眺めれば、現代人も当時の社会的変化の大枠を理解することは可能である。しかし、生身の人間の実感や道徳観の変容といった内的側面を知ることは、教科書的な学習のみでは困難である。その時代の気風を肌で感じようと思ったら、やはり当時を物語る一次資料に当たるのが一番の近道であろう。

「昔の道徳と今の道徳というものの区別、それからお話したいと思いますが……」

夏目漱石「文芸と道徳」より

漱石は手始めに、「文芸と道徳」という演題の道筋を右記のような形で示した。ここでいう「昔」とは即ち明治維新以前のことを指し、「今」というのは講演が行われた明治四十四年の頃、つまり小村寿太郎の尽力によって関税自主権の回復が成し遂げられ、日本がまずまずの近代国家体制を確立した頃のことを指している。そうした時代間における道徳観の変遷を、漱石は文学を手掛かりに言葉巧みにまとめ上げてみせた。内容そのものの奥深さもさることながら、集まった聴衆を意識したその平明さといったら、もう流石という他にない。

 前々号の雑誌で、小林秀雄の「栗の樹」をテーマにしたリレーエッセイを企画させてもらった。そこで裏のテーマとしていたのは、各々にとっての「故郷」であった。今回のテーマを予め一つ明らかにしておくとすれば、それは「近代化」ということになろうかと思う。
 「近代化」について、前書きの限られた紙面の中で簡潔にまとめ上げることは容易ではない。しかし、最たる特徴として「大衆化」現象を挙げることくらいならばできる。実際、縁もゆかりもない一人の作家の話に、大阪の民衆が「竹の皮へ包んだ寿司」のような環境で聞き入っていた状況それ自体、前近代社会ではあり得ないことであった。今回のテーマを「大衆化」という問題に狭める気は毛頭ないが、何か執筆者が文章に行き詰った際のヒントにでもしてもらえればと思ってこれを書いている。

 次に、本書をリレーエッセイのテーマとして推薦した理由についてだが、どうも同人誌『ダフネ』は文芸誌と銘打って活動を展開しているのにも関わらず、読書会の場においても飲み会の場においても、その話題が文芸のことだけに留まることが少ないように感じたからである(これは話を四方八方へと広げたがる私が原因かもしれないが)。事実、自分の参加できなかった回の読書会では、哲学の入門書やハイデガーの『存在と時間』を取り扱っていた様子であり、何か心の底で皆、美的直観に基づく芸術作品に対するに良し悪し以上のことを語りたがっているという感じを、ひしひしと覚える。
 と、私が独り合点しているだけなのかもしれないが、果たしてどうなのだろうか? 企画者としては気乗りしないものを書かせるのはしのびないから、「どうか皆の興味に適ったものであってくれ」と天に祈るような、今はそんな気持ちでいる。

 前書きの最後に、予め企画の弁解をするような気分で、講演録から一文を引いておく。

「我々人間としてこの世に存在する以上どう藻掻いても道徳を離れて倫理界の外に超然と生息するわけにはいかない。」

夏目漱石「文芸と道徳」より



前書きは以上になります!来週からの投稿をお楽しみに!

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