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手間を省けば心も省く2023/12/16

毎回PCを起動するときに「ブイゥン」という起動音から始まるんだけれども、なんだかうなり声をあげているようでちと面白い。何か衝動的に書き始めたい時の私に似ている気がする。私はPCの電源起動ボタンから始まるとたいそうなことを考えもしたが、あいにく私は人間なのでそうもいかない。電気を通してそのまま起動してスイスイ進むほど簡単ではないのだ。コールドスタートの点は似ているかもしれないが。

一冊の本を目が滑って転んでを繰り返しながら読んで気付くと時間を消費していた。しかしまあなんだ、時間を消費するという考えは中々変なものである。コスパコスパと広告テレビは言うけれど、昔はこの真昼間から時間を喪失させるためにお酒を飲む人もいるだろう。建設的ではないことをしているこのほうが多かっただろう。その時代を生きていなかったので詳しくは知らないが、その無生産な状態がさらに人を深めるのではないかと思う。いやしかし時間とお金を等価交換とはよく考えたものだ。しかも時間を全員のものと考えて減らすことを考えるのは中々に無残な真似をしてくれる。着眼点が面白いマネタイズではあるが、私は絶賛しないしどちらかというとなーんもしない時間を楽しく過ごす消費も私のために使った時間の一部で、より深く人生を考える時間に当てても良いと思っているからかもしれない。何かを使って時間を消費しても、結局その与えられた余裕は自分の為に使われることなんてないでしょう。スピードが早くなれば違う人にタスクを詰め込まれるのは多々あることだ。であれば、自分に使う時間は無為でも良いのではないだろうか。何もしなかったという言葉は、自分だけに与えられた時間をゆったり過ごしたという言葉に言い換えられるし、自分の為の時間を使ったと自分が納得できるならば、それこそ幸福といったものであると思う。

思考をこねくり回しつつ文を書いて一秒、バチバチと思考しながら思ったことを書きなぐるのも中々非建設的だ。生産をやめているともいえるし、駄文を作成しているともいえる。ある程度考えながら書いてはいるがほとんどが脊髄反射的であり、指の気を召すまま滑らしているのだ。ツイッターのTLを引っ張って更新を繰り返すのとはほとんど変わりない。しかしまあそれでもなんか残したいなぁという気持ちがあるので書いている。自分の希薄性と仮面をかぶる前に脳内の審判員を黙らせて隙を与えず、仮面をも握りつぶしておのが心が向くままにに書く心地よさ。何かをアウトプットしたときに出る脳内麻薬、そういうのに支配されゆくのがきっと私の最善の人生である。

私の過去は本が積み重なっていると言っても過言ではないが、それが経験にはなったかと聞かれればその答えはNOだ。何故ならばそれは相手を主人公にした物語であり、自分を主人公にして語ったものではないからである。つまり頭でっかちしりすぼみ。経験が伴わず、知識だけが乱雑に置かれた部屋に似ている。そういえば私の部屋は散らかっている。散らかっている方が好きだからだ。手を伸ばせば知識が転がっている様がなんとなく安心する。このなんとなくは恐らく脳内と一致していて、ここは私の空間だと認識できるからだろう。カーテン沿いに複数飾った仮面は世に出る時用のもので、薬箱は大事に備えた生命線。本棚は物理書籍でぎゅうぎゅうに詰まっており、時折部屋を見渡してみれば読みかけの本が散らばる。素敵だ。いつでも手に取ることができる物があるというのは、これ程幸福なものは無い。スマートフォンで本を管理してももちろん、それはそれでよろしいのではあるが、脳にガッと「読もう」と思ったときに引ける辞書が必要だ。それが私の部屋であり私の脳内であると考える。

今まで文章を書くときは1000文字と目標を掲げていたが、何だかんだこの縛りが大変なもので、何かを書きだすにはとっても不自由だと思うので見るのをやめている。この文字数表示が「ここまででよくねえか」と審判員が復活する理由を作ってしまうためだ。できればテープか何か貼ってしまって隠したいものだけれども、それでは文を書くのには良いが普段のゲームやらなんやらを書くには不便だ。いっそのこと、文を書くための物とか用意しとけばいいのかもしれない。でも怠惰の極みを目指す私としては、そのままあるモノを使った方が心地いい。なにか発起してやるというのは制限されることにもなるからだ。私は縛られるのは苦手なのだ。タスクとか時間とか決まり事とかは一切合切放棄して、ただ文字を打つ時間を作って気が向いたときに向き合いたい、そういう質なのだ。インスピレーションの無い時にnoteを開くのはなかなかの苦痛なのでね。

なのだなのだと文末が多いかもしれないが、わたしはずんだもんではない。元々脳内の語り部がであるなのだ調だからそうしているだけで一切関係ない。なにかを考える時はこの語り部に問題提起してもらうのだが、それも私の一部のため、凝り固まった思考なので凄く偏る。こう思った理由はこうという「何故ならば」がついてまわるからだ。思考は際限がなくあふれ出る泉なので、そうして蛇口を作ってしまうとひねって出すという行為が生まれてしまう。何とかしたいところではあるが、それはそれで己のフィルタにかけているとも解釈できるので、それはそれでいいのかもしれない。一家に一つ、浄水の蛇口を持つ。塵芥が貯まってしまうので定期交換が手間なのは「めんどくさいなあ」と言わざるを得ない。だがその手間は可愛いものである。手間もあって良いものだ。無駄なフィルターかもしれないが。

無駄だなあと思う事を省くことがよろしいのかどうか。前述で述べた通り時間とコスパを考えることに意味はあるのだろうか。なにがレッツ時短だ、おまえのために時間を短くしているわけではないのだぞ?と偶に思ったりする。結局その口触りの良い言葉に動かされる自分を見て「おお嘆かわしや」と思ってしまう。限られた人生、時間は大切に。時間は大切に?誰目線なのだろう。「きょうはなにもしないすてきないちにちだった」なんてことはあるはずがない。何かしらに小さくも心動かされたはずである。何にも動いていないのはその行動を無視するか出力する方法がわかっていないから、はたまた他人の尺度で考えているんではないだろうかと思う。いやまあ、こう強く言ってしまったが私もできていない。なにかしら「もっとこうすればいいのに」という思いは自分が足りてないものの集大成であることが多いのだ。いやはや、言っていて気をつけなければなあと思った。

そんなこんなできょうはなにもしないすてきないちにちだった。其れだけは伝えておこうじゃあないか。誰に?いやまあ、自分に。

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