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2024/1/1

私があくびとストレッチをしている間にどうやら暦が一つ進んだらしい。うかうかとした街の妙な気分の浮き沈みと、私の気分が同調したように揺れたのは、なるほどこのためかと思った。でも年を越したところで私が変わるわけではない。
いろいろな人の生活面を巡る動脈を、何としてでも支えることを生業をした人達が忙しくなるだろうからちょっとばかし申し訳なさと感謝を覚えたり、斜め思考で
「何が年末だ何が新年が何だ」
とぶつくさ言った。言動とは違って脳みその中では、ああ、この時期か。安い年越しそばを食べ、親族友人に挨拶をしてお雑煮を食らうんだろうなと思っていたし、神を信じない敬虔ではない私は2024年の神社はどこに詣でようか、一生ついて廻ってくる人間関係かなあ、でも神様の言う通りじゃあ面白くもないしと考えながらスマホでSNSを開いた。

そこは情報の地獄だった。

人間が、感情が、デマが、事実が、声が映像が、映画のフィルムが再生された時のように流れてくる。ああ、どっかで起きている事みたいだなと思いつつ、文章、一文、文字一つ一つをわけもわからず覗き込んでしまった私は、湧き上がり焦げ臭る苛立ちを抱えた。私は私に問うた。
「私よ、物事を俯瞰している場合か?私に何ができる、何ができる、何ができる。役に立たねば」
別の私が言う。
「その行動は無意味である。まず物理的に無理であるし、助ける術もないのに本気で救助に当たっている人たちにとっては、行ったところで邪魔になる。それは侮辱にも等しいだろう。極めつけは身の回りの友人達と親族共々生きに生きているので不安に思うこと自体もずれてはいないか、おまえは何を一体怖がっている?現実的ではないだろう」
そう言ってくれた。納得しかけた。

甘かった。

情報は思考する時間すら作ってくれない。
紅色をしたお盆を被せられて金のハンマーで何度も何度も叩かれるような刺激は別の私の考えを一瞬にして薙ぎ払った。自分に充てるマネーを、表示されている金額分送り込んだ。指は止まらなかった。無機質に画面は答えた。
「支援有難うございます〇〇〇人目です総額は…」
しまった、またやられた。これは「自分は何かしたのだ」という満足感を得るための衝動でしかない。誰かを思いやってとか誰かのためにではないと知っていながら、仏壇に一応手を合わせるという心無い安心を得るための行為だと分かっていながら。私は襲い来る情報の濁流に負けて心無いお金を出してしまった。

愚かだ、私は無機質な画面で口を一文字にして後悔した。
お金と共に安心を得たが、私が決めて選択したことではない気がした。
なんとばかばかしいことをしたのだろう…

ひとしきり思考のループをした後には、やったことは仕方ないと諦め、論理的な内省をした後にスマホを閉じた。
目を画面から離すと、皮肉にもいつも通りの年始が広がっていた。
私はおせちを食べ、酒を食らった。

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