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『眠り展』に行ってみて

東京国立近代美術館『眠り展』に行ってきました。
いろいろ感じたことがあったのでメモ書き程度に残しておこうと思います。

 『眠り展』はタイトルそのままに「眠り」をテーマにした企画展。 
眠るという行為についてはもちろん、眠っている人・コトとの関係性や眠り状態があらわすもの等々、作品を通じて様々な視点でテーマと向き合うことができる。4Fからのコレクション展も力が入っていておすすめ。
2Fの男性彫刻展もすごくよかった。

 さて、この展示の中では眠りを「死」と関連づける。 この関連づけは昔からいろんな人がいろんなコトを言ってるところではあるのだけど、枕をモチーフにした作品で取り上げられてた「小さな死」というワードが面白かったのでメモしておく。 

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 作品で語られていた「小さな死」が、バタイユの言うエロティシズムと繋がるのかどうかってのは正直鑑賞しててもわからなかった。
  展示説明には「小さな死」を繰り返しながら次第に「死」へと向かうことをあらわした作品と紹介されてたけど、この作品と対照的に感じたのが内藤礼の「死者のための枕」だった。

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内藤礼『死者のための枕』1997


  「死者の〜」と置かれているように、小さく軽い、糸でできた枕は当然実用できるものではない。 枕という、本来は僕らにとって大切な頭を預けるものが実体を捨て去った死者にとってどのようなものになるのか。
 言うなれば、死者は枕に"なに"を預けるのか。 

 「小さな死」によって描かれる「いつかの死」と、「死の世界での枕」。
ここで感じた対称性は、翻って僧侶という立場で死と関わる自分にとっても興味深いものだった。 

 北枕・枕経・枕飾りetc…。仏教において、枕という字のつく儀礼は多くある。 そのほとんどは、遺体という実体をもつ死者が火葬を待つまでの間におこなわれる。死者の、というより「死後のための枕」を、内藤は儚くて軽いシルクの糸を用いた作品であらわした。一方、仏教においてのそれは、墓石や黒塗りの位牌という、重おもしく存在感のあるものとしてあらわされるように思う。

  仏教における墓が、死後の安住・安置としてあらわされるなら、内藤の作品は、死者にとって「とまり木」のような休憩場所としてみられるのかもしれない。そんな風な妄想がはかどる良い展示だった。 


 もうひとつ、今回の企画展の中で仏教味を感じたものがある。 


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オディロン・ルドン『若き日の仏陀』1905


 ルドンの仏陀シリーズとして存在は知ってたのだが、今回の企画展ではじめて対面した。幻想的な色合いで創造してたより綺麗だと感じたと同時に、「眠り」というテーマでこの作品を持ってきたことに良い意味で「なるほど!やられた!」という気持ちになった。 

 『若き日の仏陀』というタイトルではあるが、ここで描かれているのはまだ悟りに「目覚めて」いない、出家前の仏陀なのだ。その意味でここに描かれている仏陀は眠っている。また、仏陀はのちに修行に励んでいる人をこんな風にもあらわしている。 

眠っている人々の中で、ひとりよく目醒めている思慮ある人
                            ダンマパダ29

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  この企画展の序章では、「眠り」というテーマに入っていく前に「目を閉じる」ことにふれる。 この中で触れられる「自己の内面と静かに向き合う」ことを、仏教では、というか禅宗では坐禅という時間であらわしたりする。

  まぁ細かく言えば、坐禅中の時間は目を閉じずにいることが推奨されるのだが、視界情報にとらわれずに静かに自己と向き合うという意味では同様だろう。 

 なんでまた坐禅の話なんて始めたかというと、序章でルドンの作品に触れて感じたことと、第5章の河原温『デイト・ペインティング』が自分の中でなんとなくつながったからだ。 


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河原温『デイト・ペインティング』


 河原に対する印象は、日付の人。くらいで正直好きでもなんでもなかったけれど、徹底してコンセプチュアルな作風を貫いたのはすごいと思う。

  以前までは「ここまで1つの作風に偏執できるのは、なにかしら作風に対して特別な情熱があるからなんだろう」と思っていた。
  しかし、今回の企画展の中で”To make a hole in a day as a nap.”という副題を見て印象が変わった。

”To make a hole in a day as a nap.” 
  1日の中に昼寝のような穴を穿つ。 

 河原がどんな思いでこの副題をつけたかは知らないが、この企画展で僕は、序章でみた「自己の内面と静かに向き合う」ことと河原のアートワークがつながったように感じたのだ。 

 あたかも昼寝するかのように日付をキャンパスに書き込むというアートワークを行う。
 作品を通じて作者の存在・生存証明とした河原にとって、その時間こそが自己の内面と静かに向き合い、自分の身ひとつで今まさにここに存在することを確認する術であり、その出力が日付を描くという単純な行為へと向かっていた。

  僕は、これを坐禅に置き換えても同じように受け取れるのではないかと思う。 自己の内面と静かに向き合い、自分の身ひとつで今まさにここに存在することを確認する術である、座って過ごすというただ単純な行為。 

 この行為は特別な情熱が必要で、それを行うことに労力を要するものではない。 あたかも昼寝するかのように、1日の中に自分をかえりみる時間をつくっていくものだからだ。

  河原にとってアートワークが特別な労力を要するものでなかったように、坐禅もまた同じように語れると思う。 
 禅宗で言うところの只管打坐って言葉に通じると思うのだが、『眠り』をテーマとしてこんな風に考えることが出来るとは思ってもみなかった。 

あらためて『眠り展』は面白い企画展だったと思う。開催期間は来年2月くらいまでらしいので、興味ある方はぜひ。



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