1995 タイ -16-
インターネットがない時代の海外旅行というと、情報源は「地球の歩き方」あるいはJTBから発刊されていた「るるぶ」では無かったかと記憶する。
私はその両方を手にネパールを目指していたが、タイで主に使ったのは後者の本であった。巻末の会話集が唯一の私の拠り所となっていた。 やはり、現地行って情報を入手するのが確実で、言葉がそのツールだからだ。
カタカナ表記のタイ語は、糞(最近は糞の話ばかりで申し訳ない)の役にも立たないことは、以前にも記した通り。理由はタイ語には5つの声調、イントネーションがあり、日本語そのものでは、それが表現できないからだ。棒読みしても???となるだけなのは、何度も経験している。ここは折れずに1000本ノックと腹を括るしかないことも学んだ。
日本語ないしは中国語も、文字そのものがイントネーションを記号として表現しない実に面倒な言語だと気付かされる。箸、橋、端。ハシはハシでも発音も違えば意味も違う。が、それを一つ一つ覚えるしかない。
実はタイ語も同じでイントネーションが違えば、意味も異なる。同じ発音でも、文字が違えば当然意味も異なる。
例えばマイというタイ語。声調により、not, newの様に品詞も変わるし、疑問型を作ることもできる。ついでに長母音でマーイとなれば、木、数える、未亡人、意図するなどと声調はとても大事。スアイに至っては、美しい、不幸と真逆とも言える意味になる。さらには、キレイと言う発音はタイ語では醜いとなり、日本語とは真逆の意味だ。
ただ、発音記号や文字の組み合わせでどう発音すべきかは決まっていて、それが学習可能な点は、日本語や中国語よりもユーザーフレンドリーと言える。
もちろん、文字からタイ語学習をスタートする事は困難なので、耳学問が当時は基本だった。兎に角、相手の発音を真似る。その意味では歌を覚えるのと変わらない。音階を無視した音楽が成り立たないのと全く同じだ。
失礼を恐れず言えば、音痴の人には声調がある言語は厳しいと思う。しかし、それは必ずしも当てはまらないのが面白い。たとえ発音が正しくなかったとしても、日頃接している人はそのクセを理解するので、傍から発音がオカシイと私が思っても、会話は成立している場面には何度となく出くわした。但し、その人が誰とでも困ることなく喋られる訳ではないが。
その意味では、先生が複数いた方が望ましいだろう。実際、2018年6月からタイ語を本格的に習い始めてからしばらくしてそう思うようになった。
先生がコロコロ変わるのは嫌だなぁと、最初は思っていた。が、先生が変わると、前まで通じていたと思っていた言葉が通じなく、それまで指摘されていなかった点を注意される。これを繰り返していくと、次第にタイ語が整っていくことに気がつくようになった。
当時はそうやってタイ語を学ぶ方法を知ることもなく、まさに体当たりでなんとか身につけようとしていたのは、ある人に告白をしたかったその想いだけだ。
本当に呆れるほど知恵がなかった我が身を呪いたくもなるが、瞬間的に恋に落ち、すぐさまサムイ島へタイ語修行に行くという行動力だけは褒めてあげても良いような気も、少しだけ、する。
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