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幼少時代からの決意と今。

こんにちは、Dandanです。

私がなぜ、株式投資を始めたのか。
それは単純に資産形成をして経済的に豊かになりたかったからです。
”お金持ちになりたい”と初めて思ったのは中学生のとき。

その経緯を本日はご紹介しますね。

それは、育ってきた環境が大いに関係していました。


1.「外国人」として育った環境

私は3歳の時に、中国から日本へ家族で渡航してきました。当時の日本はまだまだ外国人も少なく、もちろん中国人も今みたいに見かけることは無かったと両親は言っていました。

祖母が日本人で、戦争の関係で生後6ヶ月で残留孤児として中国人に育てられ、そのまま中国で家庭を築いていきました。
そして突然、日本への渡航が決まり、私の両親は日本語の勉強もしたことがなかったので、全く言葉が分からない状態での来日となりました。

その当時は、今ほどインターネットも普及していなかったので
日本についての情報も乏しく、当時のイメージは「天堂」のような輝かしい国。といった感じだったのではないでしょうか。
(おばあちゃんの昔ばなしを聞いての、私の主観です)

そうでなかったら、家族一同で、中国で築いた生活を捨てて来日するでしょうか。そう思ったのです。

日本に来てからは、行政が用意してくれた日本語学校に通い日本語の勉強をしたそうです。

数年前におばあちゃんに
「通称名(日本の名前)の苗字ってどこから来たの?」
と聞いたことがあります。

だって、残留孤児だった祖母は実の親も故郷も知らないから・・

そしたら驚いたことにおばあちゃんがこう言ったのです。

「日本に来たばかりの時に通っていた日本語学校の先生が、苗字を使っていいよって、くれたんだよ」

わぁ〜なんか意外な回答だったのですっごく感動しました。

私たち家族(つまり祖父母が築いてきた家族)は、今は20名以上もなる大家族。
定期的にみんなで集まってワイワイしている仲良し家族なのですが、そのほとんどがこの苗字を使っています。

その苗字の由来が、「先生の苗字」だなんて。素敵すぎると思いました。
そしてこの場を借りてその先生に感謝申し上げます。

さて、話は当時に戻ります。
私には2つ下の弟がいたので、両親は育児と仕事、勉強でさぞ忙しかったと思います。

もちろん運転免許証はなく車も無く。母は自転車の前後に、私たち兄弟を乗せ、週末と週明けには、さらに二人分の「布団セット」も加わりました。

雨なんて降ったら、二人ともゴミ袋に包まれたのを、うっすら覚えています。

家の壁は、キラキラした土で、その”ラメ”でお化粧ごっこをした事もありました。

私の持ち物は、ほどんどが「お下がり」で、女の子なのに遠足用のリュックが青色で泣いた事もありました。

記念写真には、男の子はみんな青色。
女の子はピンクと赤色。そして私は、アオ・・・。

性格は口数が少なく、声が小さかったです。
(発言することに自信がなかったのかな?)

子供の私の方が両親より早く日本語を覚え、小学生に上がる頃には”親専属の通訳役”でした。

そこまで中国語が上手ではなかったですが、ジェスチャーなども使って言いたいことは伝えていました。

学校から配られたお手紙は、私が解読してました。
(だって、難しい単語や漢字ばかりで小学生の私には難しすぎだよ)

一人で市役所に行って、親代行のアレコレをやらされていました・・・
(行くのが嫌だったし、行政の事なんて分からないし、難しい人ばかりで怖かったから)

今思えば、中国語と日本語の切り替えスピードが速く、雑務をもれなくこなす能力が付いたのは、その当時の訓練のおかげだったと思います。

忘れないように、なんでもメモをとる『メモ魔』になったのもその頃です。


2.親友のお父さんの仕事

小学生の時に親友だった子と「親の職業」について話したことがあります。

その子のお父さんは某テレビ局で働いているらしい・・・

子供ながらに、「すっごいな!」と感じました。
だって誰でも聞いたことある会社だし、もしかしたら芸能人と友達かもしれないし。
なんだかカッコよくで、給料も高そう。そう思いました。

その友達に私のお父さんの仕事を聞き返された時、私は何て言ったでしょうか・・

「お父さんが何の仕事か知らない〜」と答えていました。

でも、本当は知ってる。

工場で働いてるよ。外国人だから最低賃金だろうし、汚い作業着を着てるし、毎日疲れた感じだし。とても友達には言えませんでした。

そしてその時、同時に、自分の為に頑張ってくれている親の事を
恥ずかしく思って隠している自分がすごく嫌でした。

その時、私はかっこいい自慢できる仕事をして、稼いで、憧れられるような存在になりたいって思いました。
そしてその気持ちは、その後、中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても
いつでも変わることはなく、むしろいろんな経験をしていくうちに
それが正しい決意だと確信するばかりでした。

これが、私がキャリアに執着する理由です。
子供を産んで、長く働くぞ!という考え方も、この影響です。


3.結局なに人か分からない

私は、3歳に日本に来たので、日本の学校に通い日本の歴史を学び日本人の友達に囲まれて育ちました。
見た目も日本人だし、関西弁だし。w

だけど、家に帰ると中国人の両親は、私に中国語を話して中国の料理を食べ
旧正月には水餃子を一緒に作りました。

両親からは中国語を話され、私は日本語で返事をするという変なコミュニケーションの取り方でした。
今となっては、それが言葉のスイッチの切り替え速度の練習になって良かったと思えるのですが
当時は、やはり親とのコミュニケーションに支障があったので思春期には、
「言っても、どうせ理解されない」という気持ちがありました。

伝えたいこと60%ぐらいかな。お互いに。
なので問題があれば、「自分で解決しないといけない。相談なんて無駄」と言った考え方になっていきました。

それは後に、自分で問題解決できる能力の訓練になっていたのだと思うようになりました。
(何でもポジティブに取りましょう!w)

友達には、自分の国籍の事は隠していました。
自分は中国人だと。

夏休みには家族で中国に帰っていました。母方の家族がいたし、中国の祖母もいたので。
(親が”帰る”という表現を使っていたので一緒に”中国に帰る”と言っていたが、中国に家なんてないし、ましてや私にとっては外国・・)
中国に行くと、そこはそこで外国でした。

日本では中国人として生活しているが、中国に行くと
今度は「日本人」として扱われました。

だって、中国語もあんまり話せないし、日本から来た客人だから。

その時私は、感じました。

『自分は結局、なに人なの』

今となってはグローバル化して、多国籍であんまり気にならないと思いますが、その時の「なに人なの?」は、『ホームはどこなの?』の意味合いに近かったと思います。

だけど、成人して中国語も日本語も話せるし、中国と日本のどちらでも、不自由なく生活できるので
「何人でも無い」私は、「中国人でも日本人でもある」と思えるようになりました。


4.今まで持っていなかったものを両親にあげたい

私の母は、””である私に色々与えてくれました。

その当時、親戚の叔母が母にこんな事を言ったことがあります。
「女の子は、そのうち結婚して出産するから、大学とか行かせなくてもいいよ〜」と。

母がその叔母と同じ考え方で無かったのが幸運でした。

母は、私に中学生の時から塾に通わせてくれ、そして予備校、英会話。車の免許まで取らせてくれました。
うちは決して裕福では無かったですが、両親が節約家でしたので
コツコツ貯めたお金で通わせてくれたのです。

安い賃金で、残業ばかりで。外出する時は、家でしっかり水分補給をしなければなりませんでした。
(子供って、自動販売機を見ると急に喉が渇くじゃないですか。w)
授業参観なんて来たことありません。仕事を休んでまで参加することでは無かったからです。

そんな、しっかり者の母は、いつも家庭を支えていました。
父が病気を持っていたので、力仕事も家事も育児も全部こなしていました。

まさに”家庭の為に生きている”人生でした。

そんな母も実は心臓が弱く、倒れることもありました。

それでも母は、働き続け、日本に来て一度も転職をせずに今も一つの会社に尽くしています。

私たちをいつも第一優先にして自分を犠牲にする母が嫌でした。
何でも「もったいない」から、良い化粧品を買うことも無かったですし
旅行も行きませんでした。

もっと、自分の人生楽しみなよ!
ずっとそう思っていたし、それが叶わないからイライラしていました。

『私がお金持ちになったら、
まず両親そして祖父母に”贅沢”をさせてあげたい。』
それが私を掻き立てる原動力になったのです。

実は以前勤めていた会社でボーナスが出たので、両親と祖父母を連れて
海外旅行に行きました。

飛行機に乗って『フィリピン』へ。
フィリピンのセブ島から、さらにフェリーに乗って離島に行ったのです。
そこで、プライベートビーチ付きのコテージで過ごす旅をプレゼントをしました。

祖父と父にとっては初めての外国(日中間はよく移動していましたが)だったみたいで、その”初めて”を自分が携われたのを誇りに思っています。


[***今回の写真は、その時フィリピンで撮った1枚になります]

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