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土になりたい

親類の葬儀に泊りがけで出席し、花束を3つ抱えて帰宅した。久しぶりのヒールのパンプスに花の重みと長距離の移動で疲労がずっしりと身体にのしかかる。

当日は水切りだけ済ませ、よく晴れた翌朝、白菊を短めに切って黒牛の空きワンカップに詰め込んでみたら案外可憐な雰囲気にまとまった。リビングには置ききれずトイレのカウンターにもワンカップの花瓶をふたつおいてみたのだが、密閉された空間で菊の香りはなかなか強烈だ。置いた直後は墓場のにおいがするな、くらいにしか思っていなかったが、日に日に強くなってゆく濃厚な香りにクラクラして、ひとつは別の場所へ移すことにした。

百合といい菊といい、葬儀には香りの強い花が使われることが多いのではないか。花は死者を悼む意味だけでなく死臭を紛らわすためであるのかもしれない。

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死者といえば、今年チベットを一緒に旅した父の友人であり生物学者でもあるS氏がこんなことを言っていた。
彼は学会などで主にアジアの研究者をアテンドすることがあるらしいのだが、四川省出身の研究者をつれて青山を歩いていたら青山墓地に大変驚いていたらしい。「都心の一等地になんて無駄な」とのこと。ならば彼の地ではどうしているのかとS氏が聞いたところ、火葬し骨壺に入れたら自宅に持ち帰るのだ言う。それなら日本と同じではないかとS氏が言うと、しばらく保管した後はゴミ箱に捨てるという答えが返ってきて驚いた、という話。

その話を聞いた場所が中国だったから、というのもあるが、私はさすが中国だといたく感動した。感動と書くと大袈裟かもしれない。Wowくらいに思ってもらえると近い。非常に合理的である。

白洲次郎氏ではないが、私も「葬式無用、戒名不用」であり、ついでに墓も御免被りたい。死んだらゼロでいいではないか。でも欲を言うなら焼かれてまだ多少なりとも栄養素が残っているのであれば、今まで散々食ってきた分せめて土のエサにでもなれたらいいなと思っている。


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