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「学風」「設置者」から考える「自由」な大学の条件

はじめに

 2023年6月5日、中央大学で「サークル棟掃討作戦」が行われた。事の発端は6月1日、サークル棟の部室外の空間に置かれている机や椅子などの物品を、避難経路の確保という名目で6月6日に撤去するという通達が一枚の貼り紙によってなされた。聞くところによるとどうやら5月27日の学友会(学生自治会)の会議にて決められたそうである。たった5日のうちに必要な物品の回収をせねばならないこと、そもそもこれまで何年も放置されていた物品を唐突に、且つ一方的に撤去すると言われ、ただただ驚くばかりであった。

 それは特に我がだめライフ愛好会にとって衝撃的な通達だった。だめライフ愛好会はサークル会室をむろん持たないし、会の性質上、既存の仲間内だけで交流するという「サークル」ではなく、公共空間の中で不特定多数の人々と交流することをその目的としている。そのため、机や椅子等の物品撤去は文字通りの死活問題であった。交流のためのスペースが奪われることになるからである。

 しかも、今度の掃討作戦では学友会は通達にあった6月6日午前中という撤去日程をあろうことか破り6月5日の午後に撤去作業を始めたのである。とんでもない暴挙であった。

 サークル棟掃討作戦に関しては、書くべきことが山ほどあるため、別の機会に改めて論じるつもりだが、この騒動によって大学における自由とは何だろうかと考えた。本記事の執筆をはじめた動機もここにある。

 他大学を見ると、どうも私立大学は規則が厳しく、国公立大学は緩いという印象を受ける。そこで思索の末、このように考えた。自由度とは、その大学の「学風」「設置者」が決めるのではないかと。大学における自由度を決める要因はなにかを考えるに当たって本記事では「右翼/左翼(の学風)」「私立/国公立」という指標を用いていきたい。

 本論に入る前に、そもそも自由とは何だろうか、このことを考えたい。自由とはきわめて曖昧な概念である。辞書を引いてみよう。

自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。
勝手気ままなこと。わがまま。
《freedom》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。

デジタル大辞泉「自由」の意味・読み・例文・類語https://kotobank.jp/word/B1-76701


 「他から強制・拘束・妨害などを受けないこと」「自主的、主体的に自己自身の本性に従うこと」これが大学における自由を考えるうえで最もしっくりくる自由の意味であろう。そこで、独断と偏見で大学における自由を定義してみたい。

 大学における自由とは①ビラ・タテカンを校内に自由に設置できる②校内で演説ができる③校内で耕作・焚き火・営利活動・鍋・宿泊(24時間滞在)等ができること である。

 本記事ではこの三つの指標を大学における自由を測るうえで用いることとする。そしてこの指標は主として「和光大学」を基準としたものである。和光大学については後述する。

 では、先ほどの問いに戻ろう。大学の自由度を決める要因は何か。まずは「私立/国公立」で考えてみよう。

「私立/国公立」と大学における自由

 一般に、私立大学よりも国公立大学のほうが自由度が高い。それは、国公立大学は国の財産=国民の税金によって賄われている施設であるから、市民・学生に対してある程度開かれているためだ。言い換えれば、経営の論理が弱い=競争から免れているので、「コンプライアンス」をそこまで重視しなくても済んでいるということである。

 これが私立の場合、主に学生からの学費によって賄われているため、施設利用はその大学の関係者に限られることが多い。また、経営の論理が強い=競争に晒されているので、「コンプライアンス」すなわち世間の視線を重視せざるを得ない。そのため管理が強化されやすい。

 しかし、独立行政法人化により国公立大学も経営の論理=競争原理が強まり、「コンプライアンス」が重視されつつある。京都大学の「吉田寮」問題や「タテカン」問題は独法化とそれによる経営の論理の強化がもたらした問題といえる。

 しかし、私立は国の方針からある程度自由でいられるため、その法人の方針によっては国公立以上に自由奔放な環境をつくれる場合もあるだろう。

「右翼/左翼」の学風と大学における自由

 大学の自由度を考える上で次に重要なのは学風である。これは主に私立大学において問題となる。つまり、「右翼的か左翼的か」が自由度を決めるのである。右翼的だと自由度が低く、左翼的だと自由度が高いといえる。

 元来、右翼=保守思想とは自由と親和的なのだが、日本の右翼=保守はほとんどすべてが国家主義である。つまり国家に従属する思想である。そのため、右翼的=保守的というと管理・統制を強めるということになる。大胆な言い方をすれば現在の日本の右翼=保守の多くは「国家社会主義」である。

 そもそも右翼=保守思想とは、左翼思想とは反対で、人間の理性を疑い、感性を重視する。管理・統制とはむしろ左翼の立場である。だから日本の右翼=保守の大半は国家「社会主義」なのである。つまり現代では右翼と左翼というのは意味が転倒しているのである。

 しかし、これでは議論が混乱するので現在の使用法で議論を進めていきたい。すなわち「管理統制が強い=右翼」「管理統制が弱い=左翼」である。

 以上見てきたように大学における自由度を決めるのは「設置者」と「学風」である。設置者は「国公立」、学風は「左翼」が大学における自由度を高めるといえる。

偏差値と創造性

 学力が低いと創造的な活動はできないという意見がある。低学力の人間に自由な環境を与えても単なる野放図になるだけだというのである。とくに高校においてそれが言われることが多い。

 しかし、果たしてそうだろうかと思う。創造性がないのは、創造性を育む環境にいないからではないだろうか。

 近代社会は、制度に依存させるために人々を不能化させていると言ったのは哲学者、イヴァン・イリイチである。本来、人は自立的・自律的な存在であるのに、近代社会はそれを奪い、制度に依存させるように仕向けているのである。

 大学についても同じことで、創造性のない大学というのは、学生の潜在能力がないからではなく、その大学が彼らの創造性を奪う環境だからである。もちろん、前述のようにこの社会全体が創造性を奪うものになっているため、事は大学だけの問題ではないが、大学が学生の創造性を奪っていることは事実である。

 たとえば、和光大学は学力的には下位に位置づく大学である。90年代まではそうではなかったようだが、現在では間違いなく下位の部類に入る大学である。

 しかし和光の学生を見る限り、文化的レベルの高い学生が多い印象を受けた。学問に対して貪欲な学生もいる。それを思っているのはおいどんだけではなかったようだ。

 「低偏差値・高文化資本」というのが非常にしっくりくる。受験勉強という世間一般的な物差しから外れた位相にいる学生が多いのではないだろうか。それは、和光大学の自由な学風が大いに影響しているはずだ。では、和光大学とは一体どのような大学なのだろうか。

和光大学とは

 和光大学は1966年、「小さな実験大学」という理念のもと、教育学者梅根悟によりつくられた私立大学である。梅根の著書『小さな実験大学』には以下のような記述がある。

教祖的存在の思想に依拠もせず、しばられもせず、また国家の支配に服することもなく、さりとて営利のための事業でもない、ただ学問と教育のすきな連中が集って集団的に運営している大学、その意味でヨーロッパの中世大学がその始源において示したような、学者教師の集団(ウニヴェルシタス・マギストロールム)としての大学の理念を今日において再現したと言っていいような大学、それが和光の大学のあるべき姿ではないだろうか。

梅根悟『小さな実験大学』「和光大学」https://narapress.jp/ysk/wako/zikken/1965-05s.html

 和光大学はヨーロッパの中世大学をモデルとしてつくられた大学だということが分かる。つまり、大学の原理的な姿を再現しようと試みたのが和光大学なのである。

 このような思想のもとつくられた大学であるから、学生のキャンパス内での活動に関する縛りも極めて少ない。2001年の大学受験用雑誌に掲載された和光大学の「カレッジ・レポート」には以下のように書かれている。

なぜかレンガ造りの大きなカマドがあり、学生たちがまきを燃やし、大きな釜と鍋でごはんやカレーを作っている。(冬は焼き芋が人気!)。このカマドは30年前の貧乏学生たちが共同自炊のために古レンガを積んで勝手に作ったもの。中国革 命の英雄だった毛沢東が掲げたスローガンにちなみ、「自力更正かまど」というのが正式名称。学生のほとんどはもはや由来を知らないが、自分たちの力で食生活を楽しく豊かにしようという思いだけは受け継承がれているのだろうか。
 
広場の向かいでは毎日のように学生同士のフリーマーケットが開かれる。品ぞろえは洋服や古本、CD、手作りのアクセサリーなどさまざま。ときには学生と母親の名コンビや、OBなんかが混じった店も出る。バーベキューをしたり、友達どうしで散髪したり、民族楽器のセッションが始まったりと、“なんでもアリ”な光景が広がる。驚いたことに、別段大学の許可はいらないという。

「カレッジ・レポート」https://narapress.jp/ysk/wako/c-report.html

 2001年の記事だが、現在でもこうした活動は基本的に自由にやれるそうである。焚火に関しては最近、実施できる時間帯に制限が設けられたようだが、禁止にまではなっていない。

 また、和光の学園祭はかつて「72時間ノンストップ」であったことも有名だ。90年代まではこのようなフリーダムな形で学祭が行われていたそうである。

 学風に惹かれて和光に来た風変わりな学生もいるだろうし、最初は無個性な単なる低学力学生だったが和光の自由闊達な環境の中で個性が開花した学生もいることだろう。

 つまり、偏差値が高くなければ創造的になれないのではなく、環境さえ用意されていれば人は誰でも創造的になれるのではないだろうか。和光大学初代学長の梅根悟も次のように言っている。

創造力というものは一部少数の人だけにあるのではなく、誰の心の中にもひそんでいるものだということを私は信じております。引き出す方法、引き出す環境、引き出す条件さえあれば必ず出てくるものだということを信じております。

梅根悟『小さな実験大学』「昭和四二年度入学式における学長告辞 自らの力で創造力の開発を」https://narapress.jp/ysk/wako/zikken/1967-04g.html

おわりに

 本記事では「私立/国公立」「右翼/左翼」という軸を用いて大学における自由を考察してきた。結論としては、「私立よりも国公立」「右翼よりも左翼(の学風)」大学は自由度が高いといえる。

 また、偏差値と創造性については、自由な環境さえあれば学力レベルには関係なく人は創造的になり得るということを和光大学を事例として論じた。自由なキャンパスライフを送るためには大学を選ぶ際、偏差値よりも「設置者」と「学風」を考慮する必要があるだろう。本記事は偏差値という世間一般的な物差しとは違う、大学の選択基準を提示できたと思う。参考になれば幸いである。

 最後に、コロナと大学における自由について少々論じておきたい。本記事で取り上げた和光大学は平時のサークル棟滞在時間は24時間だったものが恐らくコロナ以降、禁止されるようになった。

 コロナ前の和光を知る知人がいないため確認できないが、2019年に和光大学を訪問した際には学生自治会の掲示板に「タモ練・テラス 生協前・グラウンドは音ひびくので深夜静かに!」という注意事項が書かれていたため、もしかするとコロナ前まで和光大学は24時間出入り自由だった可能性がある。コロナ前の和光について知っている方は連絡いただきたい。

2019年に撮影した和光大学のサー連(学生自治会)の掲示板

 中央大学のサークル棟掃討の件もそうだが、各大学ではコロナを契機として急速に管理統制が進んでいる印象がある。当局は学生自治がコロナで弱体化したことに乗じてキャンパスの自由を奪っているのである。これはきわめて重大な問題である。

 コロナを契機とした管理統制の強化については機会を改めて論じたいと思う。

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