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『女は度胸』の真の主役、忘れられた女

授業の準備をしていたら、大好きな森崎東の『喜劇 女は度胸』を見返してしまった。

この映画、倍賞美津子や渥美清が主役のようなポスターになっているが、というか実際そういう売り出し方の映画だが、
この映画の真の主役は「母ちゃん」こと清川虹子だと思っている。

内職ばっかりして、前半ほとんど喋らず、家族にすら忘れられた存在の中年女、そんな母ちゃんこそ『喜劇 女は度胸』の主役だということを軽く検証したい。

まず前半に出てくるこの画面。

手前の母ちゃんは完全にピンボケである。これが一瞬というレベルじゃなく、けっこう長い時間こうである。何をしてるかというと、ハンダゴテで内職をしている。セリフはない。
この場面は母ちゃんがメインじゃなく、後ろの派手な親子喧嘩がメインであり、画面のアクセントとしてピンボケ母ちゃんが配置されてる感じである。

息子が親父を挑発して一触即発で立ち上がっても、カメラは親子をフォローするが、母ちゃんはピンボケで画面手前に座ったまま写り込んでいる。芝居としても、後ろの喧嘩に見向きもしない。いわゆる「モブ」である。

じゃあ別の日はどうかって言うと、

同じである。
男たちと若い女たちのくだらない騒動に口も挟まず、画面の手前でピンぼけのまま、黙々と内職をしている母ちゃん。
「モブ」というか、もはや「モノ」と化している。

実際のところ静止画にすると異様な感じだが、後ろでやってる芝居が大声でドタバタ賑やかなのであまり「違和感」とはならない。
一般のお客さんなら見終わった後に聞いても「え?そうでしたっけ?」というレベルだろう。

しかし、ここに森崎映画の思想があると思う。
この、地味で寡黙で働き者の中年女性をあえて「忘れられた存在」として画面の中に化石のように置いておくこと。
最初からこの母ちゃんを主役級に扱ってしまうと、彼女が普段は「忘れられた存在」であること自体が忘れられてしまう。
そもそも商業映画として会社に企画が通らないかもしれない。
華も人気もある倍賞美津子や渥美清が主演の喜劇映画として見せつつも、観客に母ちゃんの存在を忘れさせることを追体験させる。
これがこの不思議な画面構成の狙いなんじゃないかな?

じゃあ、この映画の山場はどうなるか?
物語が進行し、家族がぐらついた時、 ついにこの母ちゃんが動き出す。そして家族の真ん中に座る。誰がこの家族のバランスの重心だったかを思い知らされるわけだ。

いやはや痺れる。こういう風に人物配置を考えて映画を作りたいと思ってしまう。このあと母ちゃんが海外の詩人の本を手に、詩を一つ読み上げるんだが、男たちには伝わらなかったその詩のメッセージを、労働者の母ちゃんはグッと噛み締める。
もう本当に名場面。この人が真の主役なのだというね。

終盤、もうピントは母ちゃんに合わせている。
彼女はモブでもモノでもない。しっかりそこに存在する。

ああ、森崎東のように映画を撮りたい。
一見は下町人情喜劇。しかしこだわるところはしっかりと、しかも映画の構造の中でこだわってるのがメタ的で現代的でかっこいい。

ちなみに話は変わるが、この家は空港の横にあって窓から飛行機が離陸していく様子が何度も映る。(もちろん模型)

これは今後も森崎監督作品に繰り返し出てくる、「ソトに出ていく装置」と「それに乗らずにいた人たち」という図式である。
例えば『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』でも、クライマックスに外国船に乗るか乗らないかという場面が出てくる。『ロケーション』という映画では、家族で飛び降り心中するかしないかの岬とそのふもとに住み続ける母、というのが出てくる。どちらもエモーショナルな名場面である。
こういう舞台装置を用意するところも、本当に好きなのだ。

繰り返すが、ああ、森崎東のように映画を撮りたい。


も一つちなみに、海外の忘れ去られた女の話。↓



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