見出し画像

mid90sのテーマは「自己解放」-レビューと考察

Locus
自分らしくさえあればいいということを教えてくれたんだと思う

画像2


『mid90s』の概要と鑑賞ポイント

『ウルフオブウォールストリート』や『21ジャンプストリート』などに出演し、一躍人気のコメディ俳優になったジョナ・ヒル。
私がジョナ・ヒルを好むようになったのは、ガス・ヴァン・サント監督の『ドント・ウォーリー』を観てからである。
主演であるホアキン・フェニックスや、そのパートナー役を演じたルーニー・マーラを軽く凌駕するジョナ・ヒルの演技に目を奪われ、涙した。
「ジョナ・ヒルはコメディ俳優なんかじゃない。一流の俳優なのだ」と確信した作品だったことを覚えている。

コメディで育ち、人間そのものを演じられる一流俳優になったジョナ・ヒルがメガホンを取った1作目が、この『mid90s』である。
結論から述べると、脚本の粗さが少し気になったが、全体的にはよくできた作品だと感じた。

【鑑賞ポイント】
・スティーヴィーの「兄殺し」と成長、神としてのレイ
・スケートボーディングは「自己表現」「抑圧からの解放」
・画そのものの価値

スティーヴィーの「兄殺し」と成長、神としてのレイ

まず、サニー・スリッチ演じる、スティーヴィーの「兄殺し」について。スティーヴィーには父親がいない。スティーヴィーに音楽を教えてあげたり、遊んであげたりするのが、兄のイアンである。父親の代わりにスティーヴィーを大人の世界に押し上げる人物のひとりだ。

ただし、イアンは容赦なくスティーヴィーに暴力を振るう。スティーヴィーにとってのイアンは、憎悪と尊敬の対象なのである(なお、この二つの概念は相反するものではない)。
しかし、スティーヴィーは家での居場所をなくし、暴力によって自己を抑圧される。その兄から引き継いだ暴力性は兄ではなく、自己へと向かう。自己を兄に投影し、兄殺しを行なう。こうしてスティーヴィーは大人への階段を歩み始める。

スティーヴィーはその後、スケートを通してもうひとりの兄、レイに出会う。レイはスティーヴィーを仲間に引き入れ、救いの場を提供した張本人だ。
レイは、「スタンド・バイ・ミー」におけるクリス(リヴァー・フェニックス)だと思った。クリスはゴードンにとって兄であり、神であった。暗い家庭から引きずり出し、救いを与えた存在だった。レイのおかげで、スティーヴィーはスケートとは自己解放のことなのだと気付かされる。

また、レイは映画のラストで言う。「お前が傷つく必要はない」。
このシーンについて、ジョナ・ヒルはオーディオコメンタリーでこう語っている。「誰かに好かれるために、自分を偽る必要はない。ありのままでいいんだってことをこの映画で伝えたかったんだ」。

スケートボーディングは「自己表現」「抑圧からの解放」

ジョナ・ヒルがインタビューで語っているように、90年代、男性は今ほど自己表現することに肯定的でなかった。劇中でそれがよく表れているのが、ルーベンの台詞である(「お礼を言うとか、ゲイかよ」)。

画像3


そこで自己表現・抑圧の解放の手段として、用いられたのがスケートボードである。Odd Futureの一員であるTrash TalkのLeeは、インタビューにてスケートボードとライブは解放であると語っている。


ジョナ・ヒルは『mid90s』において、スケート映画であるにもかかわらず、トリックを映さない。スケートは、自己を解放する手段であり、目的ではないからだ。
スティーヴィーもレイもファックシットもルーベンもフォースグレードも、それぞれがそれぞれの問題を抱え、もがき、苦しんでいる。それでもなんとか生きていられるのは、スケートによって自分はありのままでいいと解放されているからではないか。
スケートじゃなくてもいいから、自分を受け入れて解放するべきだ。ジョナ・ヒルが伝えたいことはそこなのだと思う。

画そのものの価値

最後に、画そのものの価値について。私は、映画の評価をする際には、ストーリーが秀逸かどうかや、光る演技があるかどうかなどのほかに、価値のある画があるかどうかを見ている。
たとえば、『戦場のピアニスト』の荒廃した街を歩くシーンや、『ウォールフラワー』のトンネルを車で駆けるシーンは、あの画そのものに圧倒的な価値を宿している。


『mid90s』では、道路の中央分離帯をスケートで滑っていくシーンにすべてが詰まっているといっても過言ではない。あのシーンを見れるだけでも、この映画が撮られた意味があったと思える。たとえストーリーが好きでなくても、あのシーンで心を奪われない人はいないだろう。

画像1


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!