「物の形相、その夢と幻想」

 私たちはいつも夢中をいる。夢中というのは私たちの形相、すなわちエイドスのことである。人間は夢の中から起こすことが出来る。つまり人間は形相の内から起つことが出来る。

 形相というのは、イデアから批判を経て生まれたものなので、観念的である。しかし形相というのは、人間だけが持つものではない。人間より前から形相は在る。元々、椅子には椅子の、机には机の形相というものが考えられるように出来ていた。むしろ物の世界を形相的に考えれば考えるほど、物の世界が成立してくるのである。物の世界というのは、どこまでも形式的なものである。物の世界がどこまでも形式的であるが故に、物の世界というのは因果関係によって成り立つのである。物の世界というのは、どこまでも形だけの世界である、ということも出来る。これは当たり前のことでもある。

 物の世界には中身がない。例え物を切り分けて、中身を出そうとしても、唯物論的な概念に限れば、それは外見であるということが出来る。しかし私たちは唯物論的な世界も考えなければならない。なぜなら、人間が生まれる前、そして生き物が生まれる前は、物質しかなかったのだから。ただの物質のみの世界、それを心の世界に繋げてこそ、世界の全容を把握出来る。

 物質のみの世界には、確かに形だけしかなかった。その形の働きを考えてみても、そこには物理法則という形式しか成り立たなかった。しかし私が再三言ったように、その形式は受け継がれている。むしろ純粋に形式的な在り方をしているからこそ、形式がそのまま保持されていると考えることも出来る。例えば天候の形式は、私たちの気分や感情における形式として受け継がれている。それを私は意味遺伝子と言ったのだが、要は事物間における形式が、そのまま私たちまで記憶されているということである。

 しかし、私たちはその感情に中身を与えた。これは神秘的なことでもあるが、反面、身体的な働きを考えれば自明のことである。私たちの脳が発達し、意識という、物事を対象化する機能が強くなったためである。私たちが意識を以て為していることは、形相に中身すなわち質料を与えたことである。

 感情というのも、天候における形相から、動物に至っても、それはまだまだ形式的なものだった。動物は自らの感情をほとんど対象化しない。感情のままに生きているのが動物である。したがってその感情に中身は伴わない。動物は自らの感情に自覚的ではない。故に、その反面、前の感情をすぐに忘れる。

 私たちの意識は、或るところに向かい、そこに留まり、それを固着させ、対象化する。確かに流れとしての意識もあるのだが、その流れはほとんど無意識によって成立している。発達した意識に特徴的なのは、向かい、留まり、固着させ、対象化することである。つまり、物という概念も、唯物論的な世界、換言すれば物だけの世界においては意味を持たない。物にとっては、何らかの物という対象がない。そもそも対象化する働きを持たないのだから。つまり、或るものを或るもの足らしめるのは、意識の作用によることである。

 通俗的に意味と呼ばれているもの、つまり、或る言語が或る固定化された意味を持つということは、私たちの意識が発達したから成立することである。私たちの意識の作用が、物に留まり、物を対象化し、物を限定し、意味を興したのである。ただこれは対象論理における意味であり、述語論理における意味は、形相におけるものである。

 私たちには「今・ここ」というものがある。これも意識という固定化する働きが為したもので、唯物的な世界においては、ただ物と物が働き合い、それに応じて否応なく反応する、という世界になっているため、時間がどこかに留まることはない。しかし、私たちの意識の作用は、ただ物と物が働き合う中でも、それと関係のない物事に意識を注ぐことが出来る。そこに意識を留めることが出来る。そこで、何か特別性のある「今・ここ」というものが出上がる。物理的な因果連関を離れること、そこに「今・ここ」が出来るわけである。

 物理的な因果連関を離れるというのは、形而上の世界を知っていなければならない。そして形而下の世界から、形而上の世界に移らなければならない。したがって、形而上の世界と形而下の世界の関係性がなければならない。これをコルバンは想像的世界と呼んだわけだが、まさに私たちは想像を通して、物理的な因果連関から、少し離れることが出来、その余剰空間によって幾許かの自由を得るわけである。

 この想像的世界は、その名の通り想像力によって成り立っている。私たちの意識の発達は、物理的な世界においては無駄なものを作った。しかしこの無駄によって、私たちはただの形式的な世界を離れることが出来たのである。この物理的な世界においては無駄なものは、虚構であるが、この虚構こそ、中身と呼ばれているものの正体である。

 中身というのは、通俗的には或る人の心の中を指す。しかし、そんなものは唯物論的に考えるとどこにもない。したがって虚構なわけだが、私たちはそれを想像し、創造したのである。これがコルバンの言う、創造的想像力に繋がる。

 形相と質料における、質料、換言すれば中身というのは、私たちの想像の産物である。ただの物だけの世界においては、机の素材が何であるか、という意味は意味を持たない。その素材というのも、畢竟、形式的なものに過ぎない。机の素材が木であるとして、木の形式がそこにあるだけである。しかし本当の中身というのは、クオリアに類するものだろう。机の木のあの感じであり、その感じというのは、木で出来たその机に、意を注ぐことで生まれたものである。その感じは物質における世界には、どこにもなく、私たちが作り上げた幻である。私たちの世界は幻想的に出来ている。

 物というのは意識を持たない。言い換えれば、眠りの中にいる。それはその物の持つ形式の中に眠っているのである。物はその形相という夢の中にいる。その夢を起こし、意味を持たせるのが人間の業だと言えるだろう。

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