「重々無尽な世界」

 この世界が象徴的に出来ている、と考える時、私には意味作用というものを考えられずにはいられない。物質は作用・反作用の法則を持つ。それを意味の領域にも敷衍して考えるのである。例えば火山の石が黒々として、ゴツゴツとして、厳めしく、いかにも火山の石らしくなる。これをただ物質的な作用だけに限って考えることは出来ない。物質的な作用と共に、意味が変容しているのである。前著で考えた、うつる、という現象がある。このうつること、移ること、映ることが意味作用の意味である。つまり、火山の意味が、火山の石に移り、映っているのである。
 永井均の〈 〉は意味を説明するのに有用だと思う。〈 〉の中に水を入れる。〈 〉に水が移り、映る。〈水〉となる。これはすなわち意味の生成という事象を表している。以前、永井均は西田幾多郎の絶対無と〈私〉を同一視していた。もう少し分かりやすくすれば、西田幾多郎の絶対無とは、〈 〉のことである。この〈 〉という場において、全ての意味が成立する。世界の開闢地点が〈 〉から開けているとすると、開闢地点を水でも石でも花でも、そこに置けば、世界は水になり、石になり、花になる。水が生命を持ち、価値を有し、意味を持つ。石と花も同様である。
ところで、永井均と西田幾多郎の違いは、永井均は開闢地点に焦点を当て続け、西田幾多郎はそこから始まる内包に焦点を当てたところだ。確かに開闢地点、荘子で言う無無無、というゼロ地点は、無内包であるとしか言い様がない。しかしそこから出る多様なものは、西田の言う通り無限の内包を前提としなければ、説明がつかなくなる。
 これを前著では揺らぎだと表現した。それは感情的で気分的なものに重なる。前に書いた「アルケーとしての情緒」でも同じことを述べたと思う。
そしてこの世界のゼロ地点から出る揺らぎ、というのは、ブレーン理論でお馴染みの図に一致する。これは世界の始まりからの、純粋な形式なのだろう。
 私は開闢地点そのものよりも、どちらかというと、そこから多様なものが発生する仕組みに興味がある。そして西田の無限の内包を表現した、絶対無の場というのは、世界に遍在するのだが、それを考えると、一つの点すなわち世界のゼロ地点から、一つだけ世界が存在するというよりは、曼荼羅を想像して欲しい。曼荼羅の無数の線と線が重なるところ、その点が全て世界の開闢地点であり、実際はこの世界は〈 〉が重々無尽な在り方をしている。つまり、意味が重層的に在るのだが、ここで始まりに戻り、意味作用のことを思い出して欲しい。このように意味が重層的に在るという観点だけではなく、重層的な意味がそれぞれ無尽に働き合っている、意味が互いを移し、映し合っている。これを平塚さんという方からの提言を頂いて、そのまま使わせて頂くのだが、重奏的な世界だということが出来る。意味が響き渡っているのである。
 ちなみにうつるという言葉の背景には、うつろうがある。そしてうつろうというのは、虚ろを内包とする。これは絶対無のことである。
 重奏的な世界、というと音の世界だ。このことも考えていきたい。私がこの世界の象徴的な構成を考えた時に、五感から考え、嗅覚→香り→雰囲気、味覚→食べ物→言葉、聴覚→報せ→印象、視覚→映像→観念、触覚→?→今改めると志向性だろうか?ということを導き出した。触覚についてはまた考えてみたい。
 この五つの内、食べ物と香りがセットになり、それと対応し嗅覚と味覚がセットになる。そして残りの聴覚と視覚は、見聞と言葉で表される通り、セットのものだ。これも前に述べた通り、直感的なところ、その物の纏う雰囲気から、その物を言語化し、ある印象から、それを観念化する、というような図式になる。
 しかし、これはツイッターの雲の絵文字の知り合いの方の指摘通り、一方向的ではない。観念は言語から意味が規定されるし、言語も観念化されることがある。そして雰囲気は受け取ってしまえば印象である。ここらへんは理理無礙、という言葉で表した方がいいだろう。理理無礙というのは、広義の意味で、意味の世界が融通無礙であることを表す言葉である。広義の意味というのも、観念的な意味と言語的な意味がある。そしてそれらの可能態として、印象や雰囲気を考えられるのである。
 しかし、前にも考えた通り、印象というのは内的な、まだ言語化されていない、つまりはっきりしていない「感じ」のことである。それと対比的に、雰囲気というのは外的な、ものが纏う「感じ」である。
 意識と意味は同伴している。意識が濃くなるほど、強くなるほど、意味も濃く、強くなる。これは前著の「存在の濃淡」について書いたことに繋がる。印象の次元でも、雰囲気の次元でも意味はあるのだが、それはまだ薄く、淡い意味なのである。これを私たちは意識を向け、いわば〈 〉をそこに置くと、その中で印象や雰囲気の意味が濃くなり、強くなり、それと共時的に言語化や観念化が起こる。生かすということや、活力を与えるということがあるが、〈 〉をそこに置くことで、世界の中で、或る存在が中心化し、文字通り、生き、生命を与えられるのである。しかし〈 〉をどこかに置くのは、人間の得意なことであり、動物は印象や雰囲気の中で生きていることが多い。この〈 〉をどこにでも移せる、という業こそ、人間の心の自由さであり、千変万化の心の心らしさである。しかし、あくまでも〈 〉は無数に有り、世界に遍在しているので、この幽かな意味たちを、魂と呼べ、ここにアニミズムが成立する。逆に言えばこの幽かな意味、この魂を起こすことが、人間の心の業なのである。
 
 土田杏村の言う通り、唯識論でいう阿頼耶識とは、意味の世界であり、その阿頼耶識はこの世界に対して超越的であり、かつ内在的である。意味はただの物質ではない、という意味で超越的であるということが出来、しかし物質と共に変容するという意味で、この世界にとって内在的であるということが出来る。この幽かな意味が、揺らぎながら、この世界に潜在している。これが前著で言った、心が眠っているということである。私たちはこれをいつも起こして生きているのであり、ここにプラトンの魂の想起説が成り立つ。全ての意味は、まだはっきりした形にはならないが、可能態として眠って存在している。全て記憶されているのであり、こうして考えることにより、アカシックレコードは有効である。しかし全ては記憶されているとは言っても、世界の創造性が滅失するわけではない。世界がただの揺らぎから始まった、という現代の宇宙観の通り、ただの〈~〉このような揺らぎが、どこまでも重層的に在ることで、そしてそれが重奏的に働くことで、外延は新しく産出されていくのである。そして〈~〉このような揺らぎに無限の内包が、すなわち全ての記憶が詰まっているのであり、それはまだ決定されていない、可能態としての記憶なのである。
 そして唯識論や、それを踏襲した井筒の考えにならえば、この可能態としての揺らぎというのは、全てそこから生まれる、種子であり、元型であるということが出来る。この元型から、例えばカバラの象徴的な分節が起こるのだが、私はこの元型の分節を感情的、或いは気分的なものだと見なしている。
 この揺らぎは、心臓の動きに合わせて波打つ映像と重なる。或る時は揺らぎというのは高まり、それは感情の高まりと重なり、或る時は落ち込み、それは感情の落ち込みと重なる。また或る時はユラユラと不安になり、また或る時はイライラと苛立ちを見せる。ここに喜怒哀楽の元型があり、この揺らぎをどこまでも重層的な意味として捉え、それが重奏的に働いていることで、私たちの心の感情まで移ってきたのである。私たちはそれを〈 〉に於いて映せる。
 全てのアルケーは情緒的であるが、それは次にどんなものに分節するのだろうか。ここで印象というものが出てくる。印象というのは報せにおいて在り、それを象徴するのは音だった。〈~〉この揺らぎというのも、波という点では音だということが出来る。そして先ほどの揺らぎにおける高まりも、落ち込みも、不安さも、爆発するような怒りも、音は表してみせる。私たちはそれを音楽という形態において、よくよく知っている。音に感情を込められるのは、そもそも音というものが、その意味において、感情的な在り方をしているからである。重層的な在り方をしていて、そこに共時的に現れる意味を、私たちは感じ取るのだ。
 さて見聞という形でセットになった、音と映像だが、私たちは音から映像を想像する。音には形はないのだが、形を惹起させるものがあるのだ。
音というのはイマージュである。例えば、低い音は男性のイマージュであり、高い音は女性のイマージュである。低い音は落ち込んだ気分を表すことが出来、それと重層的に存在する意味は低い位置である。高い音は高揚する気分を表すことが出来、それは軽やかな意味を重層的に持つ。軽やかな意味は舞うイマージュであり、空を飛ぶ妖精は、軽やかに舞う女性らしい、儚く、可憐なイマージュを持ち合わせている。これを軽快なテンポで刻めば、空中を機敏に舞う妖精が思い浮かぶ。
 反対に低い音をゆっくりと出せば、単に落ち込んだ気分を惹起させるだけではなく、マイナーコードという重奏ではなく、メジャーコードという重奏なら、堂々とした男性的なものをイメージするだろう。そこには雄大に佇む山並みを想像することが出来るかもしれない。
 このように音の意味には、映像として感じられる形になるものが内包されている。音が報せと印象を重層的に持ち合わせている時、それは形而上的にはどんな仕組みになるのだろうか。印象というものが、内的に抱く「感じ」であることは前に述べた。印象深い、という言葉遣いにおいてはっきりしているのは、印象というのはただ単なるアポステリオリなものではなく、私たちに内在している、何かと響いた時に、印象深いという言葉を使うのだ。私たちにアプリオリにあるものは、広義の意味における、つまり個人的な記憶に留まらない、世界に元々ある記憶にある元型や種子と言ったものである。
ここで遺伝子というものを思い起こす必要がある。しかし私がここで言いたいのは、生物学的な遺伝子ではなく、意味における遺伝子、言うならば意味遺伝子である。例えば、火山から、その付近にある意味が移る現象、これを意味遺伝子という言葉によって説明しよう。私たちは単に身体的な遺伝子を親から受け継ぐだけではなく、その身体に染み付いた意味を受け継いでいるはずである。
 このように何かの物に意味が染み付くことを、唯識論では薫習と呼ぶ。何かの物に意味が染み付き、その物に何らかの意味が纏われたもの、それを雰囲気という言葉で指すことが出来る。
 つまり私たちは食べ物によって身体が作られるのだが、それに伴うように、言葉によっても血肉が作られ、それを反復することにより、そこに意味が薫習されるのである。凡そ第一印象というものは、この原理から成り立っている。私たちが吞み込んだ言葉(経験)、そこには甘味や苦味、辛味や酸味、と言った気分に対応するものがある。それが反復されることで、その意味(気分)が染み付き、それは私たちの身体に雰囲気として纏わりつく。特に意味を受け取る器官が結集している、顔にはその意味が映されている。それを知覚することで第一印象が成り立っているのだ。この第一印象というのは、ごくごく通俗的な意味で理解してもらって良い。よくあるビジネス書とかに書かれている第一印象の意味だ。背景を辿ると、このような哲学的な事態がある、
 このような事態は、経験した気分が阿頼耶識に薫習され、種子となって溜まっていく、記憶の機構なのだが、この経験したことで溜まるもの、その対象は印象というものなのだ。井筒によると、種子と元型は同列に扱っていいもので、印象深いものというのは、まさにこの種子や元型に強く作用するものである。したがって印象深いものが種子として強く留まるのである。
 そして私たちの身体には、親から受け継いだ意味遺伝子がある。それは例えば体癖論のように、身体の骨格が重層的に持ち合わせている意味だとも言える。しかし私はただ身体的なものが受け継がれているだけだとは思えず、薫習されたもの、そのものが意味遺伝子となって受け継がれているように思う。
 これは私の経験からだが、ただ身体的で物理的なものだけを親から受け継いでいるだけではなく、その言葉遣いも受け継ぐことがあるのだ。全く意図せずして出た言葉で、私はむしろ毛嫌いしていた言葉なのだが、私の父は妻を「かわいこちゃん」と呼んでいた。ある日私は全く意図せずして、自分の妻に同じことを言おうとしてしまったのだ。こんな真面目な文章に、こんな冗談みたいな挿話をするのは気が退けるが、事実あったデータとして出してみよう。その他にも、意味遺伝子は受け継がれていて、ふとした時の感性など、ただの体癖論的な骨格からだけでは説明がつかないことがある。これは各々で観察してみるのが手っ取り早いと思うので、詳論はしないでおこうと思う。
 さて、気を取り直して、このような意味遺伝子に響くことで、印象深いということが発生する。それは魂に響くような意味と言ったらいいだろう。もちろん、私はただの親のコピーではなく、創造的な自己があると思うので、私の個性的な魂に響く意味というものもあるのだろう。
印象というのはアプリオリなものに響きながら、それ自体アポステリオリでもある。経験した印象は特に意識しなくとも、記憶に種子となって残る。そして私の記憶にある意味は、重奏的に相互作用しているのであり、その意味が相互作用しているということが、或る経験を私の記憶に繋ぎとめておくための原理だろう。
 ある物体が他からの物理的な作用により、その存在を維持しているように、私の記憶は他の意味から作用を受けてその存在を維持しているのだ。繰り返しになるかもしれないが、そうして持続している意味に、響く意味を印象深いと呼ぶのだろう。
 象徴というのも、この意味作用があるからこそ成り立っているのだろう。意味が重奏的に響く世界で、私たちは抽象的な意味を具体的なものに映し出すことが出来るのだ。

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