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子どもたちが勉強に取り組む"違い"はどこから生まれてくるんだろう。

学童保育「あそびのば」。前にも書いたんだけど、ぼくは企画や制作の仕事をしながらも、時々、学童保育にお手伝いに行ったり、小学生と喋りに行ったりしている。

なぜ解けないのだろうと考えても

うちの学童保育は勉強もしっかり見るんだけど、その勉強時間を僕が赤ペン先生的に手伝ってたりします。子どもたちが一生懸命解いて、僕のところに持ってきて丸付けして、また間違いを直す。もちろん学年によって違ったり、宿題がクラスによったりして違うんだけど、大体は同じ教材を解いている。

めちゃくちゃ当たり前なんだけど、人によって解くスピードも違うし正答率も理解度もぜんぜん違う。

めちゃくちゃあたり前のことかもしれないんだけど、大人となったら簡単な「5+3=?」を解くスピードがぜんぜん違う。これなんでなんだろう。大人だったらほぼ差が開かないと思うんですよねこれって。

すぐに8って答えられる子、指で数える子、9って間違えた数字を言う子。もちろんそれぞれでも解にたどり着くまでに時間が違う。これって本当に不思議すぎて言葉にしたいなとよく思う。

得意不得意で終わらせたくない。

さっきはわかりやすく「算数」を例に出しましたが、この解にたどり着くまでのスピードとか正答率って得意不得意とかで片付けられちゃうこともあると思ってて、意味ないかもだけど僕は「問い」→「解」の「→」がどんな道進んで来たのかめっちゃ気になってきた。実際に「5+3=?」っていう超基礎的な数字はいつまでも使うと思ってて、無意識でも「→」の通り方は大人になっても変わらなかったりする。

左右がすぐにわからない人

ちょっと話逸れるんだけど、この前「探偵ナイトスクープ」である情景を思い出さないと左右がわからないから人より時間がかかってしまうのを直したい。という依頼があってその映像を見てた。以来の通りで、左右どっちですか?という質問に対して、一度ある情景を思い出して、左右を判断する。っていう問いから解へ向かう「→」がちょっと人とは違ったり、時間がかかったりしてしまっていた。

もちろんこの依頼主の方は、単にすぐ判断できるようになりたいと思って、直そうとしてたんだけど、こうやってアプローチの違う道を歩んでいることを認識できているのってすごく面白いなって思った。

5+3はわかるけど500+300はわからない

ある小学生が500+300の問題が解けずにいたから、5+3はわかる?って聞いたら8って即答してた。ぼくは「ん?」ってなったんだけど、彼らには「00」がもう違う世界に見えている。

僕は先生じゃないから「?」でちゃったけど、先生はこのその子自身がどうやって「問い→解」の「→」を見ているのかってのを紐解く人なのかなと思った。これって小学生が解く、大人からしたらアタリマエのことにつまずくわけだから、めっちゃすごいよねって思う。

5+3にも悩むわけだから、あの子達にとってこのセカイは悩むこと、考えることだらけだよね。うわ。すごいなこれ本当に。

世代が絡み合う空間の可能性

いろんな世代が普段からいる空間って無いですよね。だからこそ発見がある。違いから学ぶの原点な気がしています。えーこの感覚面白いんだよなー。誰か共感してくれませんか?(笑)


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