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BUNCAの話

 そのジャズ喫茶”BUNCA”はS県はT線、S駅にあった。僕の住んでいた駅から東京方面へ2駅。その駅から歩いて5分。薬局の上、雑居ビルと言うにはちょっとハイカラで複雑な形のビルの2階だ。狭く急で緩やかに曲がる階段を登ると頑丈な木のドアがある。ドアの上にはネオンサインがあり、「Coffee」「Open」が点灯している時はお店もやっている。逆に言えば、店まで行って通りから見上げなければその日営業しているかどうかもわからないのだ。
 初めて僕がBUNCAに足を踏み入れたのは1990年代の終わり頃だろうか。当時小学生だった僕はジャズとコーヒーが大好きな両親に連れられて、ジャズとコーヒーのメッカであるジャズ喫茶というものの洗礼を受けた。濃い茶色のフローリングや煙草のヤニで汚れた壁も相待って昼なお暗い店内。カセットテープとCDの隙間に生まれ落ちた僕にはちょっと見慣れない凄まじい量のレコード。カビ臭くも懐かしい匂いのする日焼けした本。多すぎず少なすぎない装飾と、隅にあって控えめに力強く根付く観葉植物。そして甘く苦く後頭部に粘りつくようなコーヒーの香りと、不思議と子供ながら不快にならない煙草の煙、天井まで届かんとする巨大なスピーカーから爆音で流れるモダンジャズ。読書好きな僕にとって、その居心地のよい異次元世界は時間を忘れ活字の冒険に心を踊らせる絶好の空間だった。

 ジャズ喫茶は夫婦によって運営されていた。”マスター”と”奥さん”。決して本名を隠しているわけではないが、BUNCAでは二人はいつもそう呼ばれていた。二人は実に対照的な夫婦だった。奥さんは明るく爽やかで、角の丸い暖かいオレンジ色の三角形のような人だった。少し落ち着きのないショートカットがよく似合い、目にはいつも少しいたずらっ子のような光があった。握り拳を口元に当て、少し右側に顔を伏せながら笑うのを見るのが好きだった。
 対してマスター。この人について話すのは難しい。恐ろしく気難しく、しかしおしゃべりが大好きで、極度の躁鬱により一晩中語り合ったと思ったら1ヶ月店にすら来ないで自宅に引きこもる。多分、僕が小学生の時に初めてBUNCAに連れられた時には会ってすらいないだろう。ただ顔すら判別できない写真を見せられながら、父親から「一廉ならぬ人物だ」と言われたことだけ覚えている。彼についてはこれを書きながら徐々に描写することにしよう。

 人生初、とは言わないがそれに近いデートもBUNCAだった。当時僕は高校生だっただろうか。小遣いとこっそりやっていたバイトの給料で本代とCD代と煙草代をなんとかする僕にとって自分のコーヒー600円と彼女のコーラ500円はそれなりに辛い出費だったのを覚えている。会話は弾まず、奥さんの目がある以上煙草も吸えず、必死に思い出した上に不正確な聞きかじりのジャズ蘊蓄を一方的に捲し立てるだけだった。もう覚えてはいないが、きっと奥さんはお会計に手心を加えてくれていたのだろう。
 このジャズ喫茶に僕が本格的に入り浸るようになったのは、僕が大学に入った最初の年だと思う。家や図書館やそこいらのカフェと違いコーヒーと煙草が楽しめて爆音のジャズで会話などの言語情報が遮断され、お店側には申し訳ないながらそれなりに長居ができる空間は勉強には完璧だった。月に2、3回はBUNCAに足を運び、大量の課題をこなしたり合間に本を読んだりしていた。それでもまだ僕は「大勢いるお客さんのうち一人の息子さん」くらいな位置付けだったのだろう。マスターと出会うまでは。

 いつものように、ジャズを聴きに来るお客さんに気を使い一番音の悪い席に座り勉強をしていると、突然「お前ゲバラが好きなのか?」とえらくくぐもった声が降ってきた。見るとジーパンに白いシャツ、白いマスクをした長髪の男性が机の脇に立って僕の書類カバンを指差している。恥ずかしながら僕は当時いまだ完全なるアナキズムには目覚めてはおらず、漠然と左翼革命派周辺をうろちょろしていたので、チェ・ゲバラの映画(『チェ 28歳の革命』)を観た後ステッカーを買ってカバンに貼っていたのだ。今となっては「国家主義者めこんちくしょう!」とも言いたくなるが、この引き合わせには感謝しなければなるまい。
 「はい、好きです」と僕が答えると、男性は黙ってカウンターの中に戻って行った。数分後男性は手に小さな箱を持って帰ってきた。「BUNCA」と刻印されたオリジナルのジッポーライターだった。「これ、やる」と彼は箱をテーブルに叩きつけ、さらにジッポーのオイルを手渡してきた。すぐに使え、ということだろう。父親のジッポーをくすねて遊んでいた僕はジッポーの中身を取り出し、裏からオイルを適当に入れた。すると例の男性が横から「もっとオイルを入れろ。上が湿るくらい入れるんだ」と講釈を垂れる。逆らうこともできず僕はオイルを入れ続け、ついには溢れ出し僕の両手はオイル漬けになった。「よし、火をつけてみろ」と言うので、嫌な予感がしつつ僕はジッポーのフリントを擦った。案の定オイル漬けの両手は炎上し、僕は青い炎をあげる両手を慌てて振って火を消した。苦笑いをしながら男性の方を見ると、男性はすでに興味を他のところに移したらしくカウンターの中へ引っ込んでいくところだった。こんな風にして、僕はゲバラとジッポーという実に皮肉な組み合わせの元にマスターと出会った。
 マスターはどういうわけか僕を気に入ったらしかった。BUNCAは元々日本橋にあり、マスターは吉祥寺の育ち。生粋の都会っ子だ。まして当時は学生運動真っ只中。ジャズ喫茶と言えば学生や闘士が集い、日夜議論を戦わせる場所だったという。ボロボロの革ジャンを着て髪を逆立て、叛逆の道を進みつつある僕は「将来有望」と見えたのか、はたまた当時を懐かしく思い出す触媒だったのか。なんにせよ彼は随分と僕に気をかけてくれていて、僕の方でも(2階にありながら)まるで地下のアジトのような空間で議論を戦わせるのが楽しかった。
 議論の内容は多岐に渡ったが、主に音楽、歴史、政治の話が多かっただろうか。ジャズ喫茶のマスターでありながら彼はビートルズ直撃世代で、どちらかと言うとロックの方に話題は集まり気味だったかもしれない。彼の母親は戦後の日本共産党の活動家で、マスターは彼女に対し極度のコンプレックスを抱いているようだった。自分よりも政治活動を優先しているという憤りと、彼女の抱く理想への同調。彼女の非暴力議会主義と彼の燃え上がる革命への憧憬。マスターを語る上で、あるいはマスターと語る上で彼の母親の話は避けては通れないが、しかし中途半端に立ち入れるものでもないのでここでは置いておこう。僕は彼に当時のベ平連の話を聞き、彼は僕に中東の国際関係について質問する。議論が平行線になることも少なくなかった。アナキズムに傾倒し、ホーチミンやレーニン、毛沢東や果てはマルクスまで批判すると彼はすぐに感情的に僕の知識不足を批判し、彼らの執筆量を持って僕をねじ込めようとした。話が通じなくなると僕は皮肉や詭弁で対抗し、ついに彼を激怒させたことも一度ではなかった。奥さんがいるとコーヒーのお代わりや別の話題で助け舟を出してくれるが、奥さんがいない時は深夜まで平行線が長く引かれる。そうなると僕もしばらくは意地を張って見せていたものの、自他共に認める偏屈で頑固な彼が折れることは決してなく、結局は僕が折れるしかないのだ。
 他に常連客がいる時はマスターもそちらにかかりっきりのこともあり、僕はその客がいる間しばしの退屈な平安を得て勉学に励む。奥さんはそちらの常連客との会話に混ざりつつ、僕にコーヒーを差し入れてくれたり、時には特製のカレーを御馳走してくれる。このカレーがまた絶品で、具は形がなくなるほど煮込んだ豚バラくらいしかなく、上には素揚げしたオニオンスライスとレーズンが散らされている。付け合わせにはサラダとラッキョウがつく、なんと言うかオーソドックスかつハイカラなカレーといった具合だ。好き嫌いはあるかもしれないが僕は8時くらいになってカレーの匂いが漂うと自分の胃袋めがけて温められているのではないかとワクワクしていた。
 カレーがない時は近所のお弁当屋さんでカツ丼を御馳走してもらった。このお弁当屋さんがBUNCAのお客さんだったのか何かで、カツ丼をしっかり大盛りにしてもらっていたのを覚えている。正直味はカレーに勝るとは到底言えないが、それでもなんとなく家を避けていた僕には貴重な栄養源だった。本当に運がついている日はコーヒーゼリーやケーキも差し入れられた。どちらも自家製で、メニューのイラストまで奥さんの手描きのものだった。奥さんは愛知の山奥出身らしく、美大でテキスタイルを専攻していたそうだ。メニューの裏には茨木のり子の『惑星』という詩が書いてあった。この詩くらいコーヒー好きの革命青年の胸を熱くするものはないと今でも思う。
 常連客の中には顔見知りになった人たちもいる。最初は僕のパンクな見てくれから警戒していたようだが、マスターに紹介されるうちに話す仲になった人たちもいた。基本的には僕より年上で、みんなしっかりした仕事についている。そういう常連客がいる時は革命談義よりも音楽や建築、健康や老後の話になることが多く、知らない世界が面白くも少しだけ刺激に欠けて居心地が悪かったのを覚えている。ちょっとした例外としては、海外からのお客さんの場合だ。僕は英語ができたので、勉強中に呼び出されて通訳の真似事をすることも少なくなかった。カナダ人のお父さんは日本人のお母さんが仕事に行っている間子守もかねてBUNCAに入り浸っており、彼が来るたびに僕は通訳に駆り出された。正直英語が話せる、くらいしか共通点がない会話の入り口だったが、話せばそれなりに話も弾むものでコメディの話やバンドの話でそれなりに盛り上がっていた。もう一人、英語教師をしているアメリカ人とも知り合いになった。彼は副業で翻訳の仕事をしていたのだが、隣り合って僕は勉強、彼は仕事をしているとたまに翻訳に関して質問をしてきた。確か最初の質問は”fantastic foreplay”はどう訳せばいいか、だったはずだ。「華麗なる前戯」。彼は英語の官能小説を日本語に翻訳していたのだ。彼は珍しく政治観も僕と似たようなものを持っていた。世間、というか界隈と言うべきか、世界は狭いものだ。彼はBUNCAとは全く違うルートを経由して、数年後にTKA4のステージに立つことになる。

 BUNCAは基本的にレコードをかけるジャズ喫茶だったが、ごく稀にジャズライブを行うこともあった。留学生とつるんで後のシーシャ部の大元になる悪ガキ集団を組織していた僕は彼らを引き連れBUNCAに通い、兄貴分とライブも参加した。もちろん演奏ではなく客として、だ。あまりの客数に大忙しな奥さんと、ある意味接客には違いないがお客さんと話し込んでしまったマスターを見て僕もお手伝いに駆け回った。兄貴分が一緒になって手伝ったのか、せっせと慣れない接客をこなす僕を座って眺めていたのかはもう思い出せない。
 兄貴分筆頭の留学生悪ガキ集団が一気に帰国したのは2010年の夏。僕は一瞬で一人ぼっちになった。一人が辛かったというわけではなく、どちらかと言えばあまりにも楽しい1年間の反動が襲いかかってきたというところだろうか。何よりも寂しかったのは今まで仲がいいと思っていた日本人の友達がピタッと交流をやめてきたことだ。僕は窓でしかなかった。留学生という庭を見通せる窓。しかしそんなこと他人には情けなくて見せられない。口角を捻りあげて粘度の高い皮肉を垂らす男に憧れていた僕は、平気の平座と嘯いていた。寂しくなんかないやい。特に両親に対してはこの態度を貫いていた。物心ついた頃から僕のこの嘯く屁理屈詭弁家皮肉屋さんな態度が気に食わない二人はうっかり僕が泣こうものなら勝ち誇ったような顔で見下してきていたのだ。あるいは僕がそう感じていただけかもしれない。今となって見れば息子が正直にネガティブな感情も持ち合わせていることをきちんと確認したかったのかもしれない。とにかく僕は家にいることを避け、誰もいない大学の食堂で一人時間を潰し、夜からはBUNCAに入り浸ることがますます多くなった。平気の平座の嘯き君はどうやらBUNCAの二人にはお見通しだったようで、あるお客さんのいない晩、マスターが「これはお前にだ」と大音量で音楽をかけてきた。ボブ・ディランの『Like a Rolling Stone』だった。死ぬほど泣いた。今では立派な泣き虫な僕だが、じいちゃんの葬式でも高校の卒業式でも泣かなかった僕が他人の前で大号泣をしたのは思い出す限りこれが最初だ。この時、二人は僕の第二の両親となってくれたのかもしれない。

 東日本大震災の後、いよいよ僕は活動に入り込んだ。反原発のデモに足繁く通い、集会やイベント、勉強会にも顔を出すようになった。両親は決して僕に道を説いたり、ましてや押し付けたりする人たちではなかったが、しかし将来のことも考えずアヤシゲなチラシばかり集める僕を扱いあぐねていたのかとにかく僕に怒鳴りつけるようになった。今思い返すとあれは二人の浄化行為だったのかもしれない。僕は両親を避けるようになり、二人が寝静まった夜中まで家に帰らないようになった。そのことを知ってか知らずかBUNCAの二人は僕に釘をさしながらも遅くまで僕を店に置いてくれていた。マスターがいない日や早めに閉まる時、逆に遅くなり終電を逃す日には僕は2駅歩いて帰った。マスターはタクシーを使えとお金を渡してきたが、常に金欠だった僕はタクシーに乗ったふりをして歩いて帰っていた。この頃になると僕はもう完全にBUNCAの店員のようなポジションになっており、奥さんがいない時は接客、掃除から洗い物までこなすようになった。普段はそこまで混み合わない店も大震災以来毎月に一度行われるようになったチャリティーライブの日は大繁盛で、僕も前日からセッティングや掃除などでお手伝いをするようになった。さらにライブで演奏される曲に歌詞がある時は翻訳までさせてもらった。スタンダードの有名曲なもので、必死に僕自身の独自性を出そうとアレコレいじくりまわしたものだ。
 チャリティーライブで集まった義援金は、色々迷っていたようだが結局直接福島に届けることになった。僕は全く別件だが福島に行ったことがあり、その時のツテを紹介したのだ。ヘビースモーカーのマスターのために喫煙車をレンタルし、一泊二日の強行軍で津波の爪痕を見て回った。どういうわけか現地でのことはあまり覚えていない。この数年後、極めて不快な客を同じルートで案内したせいで記憶が悪い方向に上書きされてしまったのかもしれない。

 僕がシーシャ部を始めた頃、マスターの血圧が上がり始めた。普段からそんなに健康的な生活を送っていたわけではないので当たり前と言えば当たり前だが、身体的な不健康は精神的な不健康にも繋がっていたのだろうか。マスターは以前にもまして不定期出勤となった。来れば血圧と安倍政権への愚痴を言い、大学に残れと激励してくれる。来ないとなると数ヶ月は最低でも篭ってしまう。マスターがおらず奥さんだけで営業している時は大抵営業時間が8時までで、僕がシーシャ部でひと暴れした後には閉店してしまっていることも少なくなかった。
 そして決定的だったのが、2015年の秋頃に僕が大学を卒業できないことが発覚したことだ。正直僕は大学を卒業できなかったことはそこまで悔やんではいないが、今まであれだけ支え、励ましてくれたBUNCAに対しては見せる顔がなかった。僕は仕事を始め、2016年に東京に引っ越した。S県方面への電車に乗る時に、ふとこのままBUNCAへ行こうかと思うこともあったが結局それからBUNCAに行くことはなかった。

 2017年、7月4日夕方。僕は当時働いていた仕事場がある新橋駅前の喫煙所で、仕事前の最後の一服をしていた。聞いている音楽に混じってチャットの着信音が聞こえる。大したことではなかろうと携帯を取り出すと、BUNCAの常連さんの名前が表示される。今でこそ普通だが僕がBUNCAに出入りしていた当時はちょうどいい歳をした大人もSNSをやり出した頃で、僕も何人かのお客さんに登録の仕方や使い方を教えていた。その時試しにフレンドになった人からの連絡で、もちろん直接やりとりをするのはこの時が初めてだ。さては乗っ取りスパムメッセージか?などと思って開くと、SNSを始めたいい歳をした大人に特徴的な極めて簡素な文章で、BUNCAの奥さんの訃報が記されていた。
 葬儀は暑い夏の日だった。川遊びをする子供を横目に葬儀場へ歩き、懐かしい人たちと久しぶりに顔を合わせた。式場には奥さんが学生時代に染めたテキスタイルが飾られ、華やかで爽やかで暖かいカラフルな角の丸い三角形のようだった。棺を遠目に眺めていると、不意に肩を掴まれる。振り返るといつも通りのジーパンに白いシャツ、白いマスクで長髪のマスターが立っていた。「よう、最近どうだ?」長年の煙草で白目まで濁った目が僕を覗き込んでいる。僕は少し言葉につまってから、「どうやらなんとか生きていますよ」と返事をした。マスターは笑って「君は相変わらずだな」と嬉しそうに吐き捨てるように言った。相変わらず僕は平気の平座君、嘯きの皮肉屋天邪鬼だった。
 僕はなんとなくBUNCAの身内でいる資格がないような気がしていて、葬儀が済んだらすぐに帰るつもりだった。しかしバスに乗り込んだマスターに呼び出され、結局焼き場まで付き添い骨まで拾い、BUNCAで一息入れるところまで付き添うことになった。きっと僕が変わったのだろう。常連さんでかつてのように僕に話しかける人はいなかった。ただマスターだけがことあるごとに僕を呼びつけ、奥さんの思い出話や安倍政権への憤りを僕にぶつけてきた。僕も相変わらずならマスターも相変わらずだったのだ。
 それから実家に用がある時はBUNCAの脇も通ったが、開いていて入れたのは恐らく一度きりだったと思う。その時はマスターはカウンターにこもり、もう激論を飛ばすこともなくなっていた。僕は2時間噛み続けたガムのような味を味わいながらきっちりとコーヒー1杯分の会計を済ませ、東京へと帰った。TKA4を始め、仕事も変えて僕はS県どころか電車移動すらしない生活を始めた。ふと思い立ってBUNCAに向かおうかと考えることもなくなった。ただ色々な噂は聞こえてきた。お弟子さんがついた。しばらく閉めていたがまた始めるから掃除を手伝いに来い(これは実際にS駅まで行ったのだが、ちょうど駅についたところでマスター欠席により中止になったと聞かされた)。マスターが渡したいものがあると言っていた。結局、僕はBUNCAに行くことはなかった。

 今年(2020年)の9月、父親から電話が入った。僕の父親は随分と極端な人で、極めて重要なことか極めてどうでもいいことがある時にだけ電話をかけてくる。出かける準備をしていた僕は少しめんどくさくなりながらも、前者の可能性を捨てきれずに電話に出た。「今BUNCAにいるんだ。マスターが代われって言うから代わるね」開口一番父親は言ってきた。すぐに懐かしいくぐもった声が聞こえてくる。「おお、BUNCAな、閉めることにしたんだ。だから本、取りに来い」向こうに用件がある時のマスターはとても話が早い。「え、引き払うんですか?いつですか?」と聞けば、9月いっぱいだと言う。「えーと、9月中だと僕の予定は.....」「いやそんなことよりニュース、ニュース見てるか?」こちらが用件がある時のマスターはとにかく話が通じない。なんとか相槌でかわし、父親に電話を返してもらった。僕の父親は用件があるなしに関わらず話が早い。すぐに具体的かつ効率的な話の進め方をするのは、僕たち親子の共通するところかもしれない。
 結局僕は9月中の予定が合わず、10月最初の週にずれ込むこととなった。10月3日、曇り空の下、僕はS県への電車に乗った。感染症がこれだけの広がりを見せていると、東京から出るだけでなんだか大冒険をしている気分になってくる。T線のサビれ具合に改めて驚きつつ、川を越えればここいらへんで国境警備隊が乗り込んできて....と妄想する。S駅には思っていたよりずっと早くついた。たった数年だが、S駅の駅前はびっくりするほど変わっていた。僕の大学時代を通して行われていた工事がようやく終わったらしく、綺麗に整ったグロテスクなアーケードができている。モダンでハイカラな1階が薬局の雑居ビルは天気のせいもあるのか逆に色彩が褪せて見える。緩やかに曲がる急な階段を登り、木の扉を開くとそこには静寂が待っていた。
 「お久しぶりです」と僕が入っていくと、マスターは一瞬戸惑って「おー、お前か来たかあ」と言った。僕がサングラスを外しフードを脱ぐとアイメイクとモヒカンに目を丸くし、それでも「変わらないなあ」と言った具合に笑っていた。かつては綺麗に掃除され、奥さんが世話をする花が置かれていたテーブルの上は全て本で埋め尽くされている。一番音がよいということで常連さんが占拠していたソファー席も本の山だ。「よしこれ、全部持っていってくれ」とマスターが無茶なことを言いだした。なんでもTKA4を古本屋と勘違いしていたらしい。僕は改めてTKA4について説明をしながら、本の物色を始めた。小説、論集、エッセイ、詩集。魯迅。ラテンアメリカの抵抗運動。ドイツの革命。青白い馬。茨木のり子。欲しい本、読みたい本をピックアップして脇へどけていく。対して興味のない本はそのまま山にして元の場所に戻す。横でマスターが僕が作った山を物色し、「お前これは読んでおかないとダメだぞ」とピックアップした本の山にねじ込んでいく。マスターは落ち着かなげに立ったり座ったりして、火をつけた煙草をすぐに灰皿に捻り込んでいる。僕はニヤリと笑って手に取った一冊を彼に突きつけ、「マスター、カミュとサルトルならマスターはどっちですか?」とかつてのように議論を吹っかけてみる。マスターはキョトンとして、しばらく沈黙した後よかったら飲め、とノーブランドのお茶のペットボトルを僕に差し出す。僕の口の中にあのガムの味が広がる。でもこのガムを吐き出さず、新しいガムを口に入れずに同じガムをずっと噛み続けてきたのは僕なのだ。
 BUNCAにある本の物色を終えて、僕は手伝いと挨拶に来てくれた父親の車でマスターの家に向かった。マスターの家は以前、福島に行った時にピックアップのため来たきりだった。マスターの家からは、かつて僕が幼稚園のころ住んでいた団地がよく見える。こんなに近くに住んでいたのだ。大昔から、大昔から。マスターの家の玄関には出前寿司の桶が積んであった。玄関を入るとBUNCAから移動した大量のレコードが入った段ボールがそこら中に積んである。そのうちの一つの上にはコンビニの袋に入ったままのペヤングが置かれていた。家の奥の仏間にはさらに本の山があった。エンクルマ伝を僕がピックアップした時、微かにマスターの声に数年前の響きが戻った気がした。「やっぱりエンクルマだよな、読まなきゃいけないよな」「はい、エンクルマですからね、これは読みたい」。大江健三郎を僕が弾くと「なんでだよ、大江は読んでおけよ」「いやでもこれ結構新しいやつじゃないですか、そっちはいいですよ僕は」「いいから読んでおけよ」。「お、安部公房じゃないですか。友達に安部公房狂いがいるんですよ。なんでもカフカと比較研究してるとかいう」「じゃあそいつのために持っていってやれ」。ガムから苦い後味が染み出す。でもそれだって、味がしないよりマシじゃないか?
 本を荷台に積み込み、父親の運転する車の助手席に乗り込むと、マスターが挨拶に出てきた。窓を開けて挨拶をする。お世話になりました。血圧気をつけてくださいね。じゃあ失礼します。出発の直前、マスターが身を乗り出し、僕ごしに父親に吐き出すように言い放った。「先生、やっぱこいつ、おもしろいわ」

終わり。

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