![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/72126103/rectangle_large_type_2_a7b58d5f33e47a905097ada97c4a46e7.png?width=800)
自分
以前から度々感じてたことがあります。
部活動中に、生徒をむちゃくちゃ怒る先生は、自分が思い通りに指導できない歯痒さを、怒りとして生徒にぶつけてるのではないかと。
子育てする親御さんや、介護するご家族、また旦那さんに対して怒り狂う奥さんとかをみてても同じことを感じます。
社会でも、上司が部下に、またうまく行かない経営者に対して、同じように経営してる人が厳しい指摘をしてる時も同じだと感じてます。
なぜそう思うのか。
僕自身の胸に手を当て、素直にさらけ出したらそうだからです。
人にイライラしてる時、誰かのせいにしてる時、誰かを否定してる時。僕は“誰か”にベクトルを向けながら自分に対して、「このままでいいのか?こんなもんじゃないよな」とか対峙してると感じることが多いです。
北京オリンピックをみていても、競技者は、誰かと技を競いあったりしていても、自分自身の中にある恐怖や不安と向き合いながら戦っているように感じます。
誰かと戦ったり、誰かのために戦うのではなく、競技者はそう言ったとしても、競技が終わったあとだから言えることで、やってる最中は、自分のことしか考えてない。弱くて崩れそうな自分とたえず向き合い抜くことで結果に結び付いてるように思うんです。
結局のところ、人間は生きてる以上自分と向き合い続けなければいけない孤独な生き物で、その孤独と向き合いきれなくなるときに、さびしさがからだの奥深くから滲み出てきて、「誰か」を求めるのではないかなと思うんです。
僕がさびしい時、どうして欲しいか振り返りました。
僕は理論とか理屈とか意見とか抜きにして、「うんうん。」って相槌うってただただ聞いて欲しいです。
その時話すことは、僕が自分のメモ帳とだけでは向き合いきれず、誰かに聞いてもらうことで受け止めて欲しいことで、どうなりたいかはその時話してることの中に、答えがすべて含まれてることだからです。
「うんうん。」って聞いて、「大丈夫だよ。」ってポンと背中押してもらって、その時々で支えてもらえたら有り難くて仕方ないと思います。
トレーナーとして、僕も同じように人と関わりたいなって思ってます。僕がしてもらって嬉しいことを、同じようにできるようになりたいなって思っています。
僕の活動に関心を持っていただきご支援いただける方はよろしくお願いします。一人でも多くの人が心が弾むような生活が送れるように悩み事をひとつひとつ丁寧に対応していきたいと思います。がんばります!!