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エッチに至る100の情景_005「疲れ果てた中年男性に、謎の女性が『やぁ少年』と声をかける事案が発生」

 小さい頃は自分を「ぼく」と呼んでいて、気が付けば「オレ」になり、今は「私」になった。一人称がいつ切り替わったか、具体的には覚えていない。ただ理由は覚えている。周りがそうしていたから、そうしたのだ。
 私は今年で36になる。なのに、
 「やぁ少年。さえない顔して、どうしたんだい?」
 ある日、私は彼女にそう声をかけられた。繰り返すが私は36歳だ。さらに彼女も同じくらいの年齢だった。黒のランニングシャツに、作業ズボンと安全靴。大きな胸に反し、ガッチリした二の腕は、小麦色に焼けている。
 セクシーな女性だと思ったが、不審者への恐怖感が勝った。
 「いや、私は36です。なんなんですか、あなた?」
 「私の名は桑形 阿佐美だよ。少年」
 阿佐美さんは舞台役者のように、全身をひねりながら周囲を見渡した。
 「こんな深夜の公園で、1人うなだれていたら、誰が相手でも心配になるのは当然だろう。少年、キミこそ何があったんだい?」
 「何もありませんよ」
 嘘だ、あったのだ。ある夜、普段通り残業を終えて帰宅したら、妻がいなかった。「仕事ばかりのあなたとでは、未来が見えません」。その置き手紙を読むと、私は公園に来た。何も考えたくなかった。一生懸命、妻のために、会社のために、頑張った。それだけ考えて生きてきた。その結果がこれか? だったら、もう何も考えたくない。
 「『何もありませんよ』、ね。それはウソだ」
 阿佐美さんがハッキリと言った。だから私は、思わず、
 「何で分かるんです?」
 「私がお姉さんだからさ、少年」
 阿佐美さんは「ふふんっ」と自慢げに笑い、缶ビールを差し出した。私は酔って、やがて全てを彼女に話した。

 それから数日間、私は妻と何度か話した。分かったことは、やり直すのは不可能だという事実だ。妻に怒りはなく、朗らかに笑って言った。「これが一番だよ。子供だっていないし。あたしは、自分のために人生を使いたい」
 そして離婚届を出した夜、公園で阿佐美さんが話を聞いてくれた。少し飲んだあとに、彼女のアパートでまた飲んだ。
 「妻が好きでした。だから一生懸命、働けた。心も体も、壊れそうになるほど」
 「少年、しかしキミと別れた奥さんは、幸せそうだったんだろう?」
 「……はい。あんな顔で笑う妻は、私も久しぶりに見ました」
 「だったら、それでいいと思おう。キミも彼女も、もう大人なんだから」
 その通りだと思った。未練は口にしつつ、もう諦めはついていた。
 すると阿佐美さんが――。
 「ただ、悲しいのも分かる。では特別サービスだ! お姉さんが悲しみを受けとめてあげよう! この胸に飛び込んできたまえ!」
 「け、結構です!」
 「遠慮するな! 少年、誰かに甘えたい時は甘えろ!」
 阿佐美さんは豪快に笑った。けれど――実はこの数日間で、彼女のことも調べた。服に会社のロゴが入っていたから、簡単だった。彼女の同僚らは言った。「昔は厳しい人でね。甘えを許さないタイプの。でも、それで旦那に愛想つかされて、酷い捨てられ方をして。人が変わってなあ」「仕事に支障はないけど、あのノリは痛いっスよね。イイ歳して、付き合いきれんっスわ」おおむね、そういう話を聞いてしまった。
 「どうした! 私の胸に飛び込んで来たまえ!」
 酔った阿佐美さんが待ち構える。だから私は……いや、ぼくは答える。
 「うん! 分かった!」
 今日だけは「ぼく」に戻る。ぼくの意志で、お姉さんに甘えるんだ。自分のため、それに――
 「ははは、そう来なくっちゃ! 少年、お姉さんに甘えてくれ!」
 阿佐美さんの笑い声は少しだけ涙ぐんでいて、その胸は、汗と酒と太陽の香りがした。


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