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「勉強をして知識を得れば分かり合える」は本当なのか

以前、環境問題で意見を書いた時に「まさにそうです。あなたはよく勉強していますね」と褒められたことがありました。一方で、別の方から「普通に考えればそんな結論に至らない。もう少し勉強してください」とお叱りも受けました。これは、一歩引いてみるととても興味深いことではないかと思います。

この二つの意見には暗黙の前提があります。それは

「意見が違うのは勉強の不足の問題だ。すなわち問題を解決するには勉強をすればいい」

ということです。両者ともに、人は勉強をすれば自分と同じ結論に至るはずだ、またはそこまで行かなくても勉強をすれば意見の違いを超えてわかりあえるはずだという前提で話をしています。
このような前提に立つならば意見の分断は、社会の側としては情報提供の不足と教育環境の不足、個人の側としては学ぶ姿勢の不足と情報リテラシーの不足、が原因ということになります。問題解決には情報提供を充実させ、教育環境を充実させ、個人にきちんと勉強する意欲を持たせることが大事になります。しかしこれは事実でしょうか。

マイケル・サンデル氏の新書では、学歴が高いほど、科学的知識が高まるほど環境問題に対し意見(党派性)が分かれることが指摘されています。つまり、環境問題に関して意見が違うのは、知識や学力が不足しているからではなく、むしろ知識や学力があるからこそより意見が違っているということです。

ここから先は私の考えですが、学歴が高く科学的知識が増え、そのことを自覚している人は少なからず自分の意見に自信を持っているはずです。それは「私はわかっている側だ」という意識を持たせるのではないでしょうか。わかっているのだとしたら、意見が違う場合の話し合いにおいて情報の不足を埋めるというアプローチを選びがちです。言葉を言い換えれば「教える」というアプローチです。

しかし、これでは「わかっている側である」という意識を持つ人の間で意見の対立が起きた時に「教える」アプローチで向き合うことになります。おたがい自分はわかっていると思っていて相手に教えているわけですから、教えても教えても意見が変わりません。次第に相手は十分に考える力がない、または何か別の意図があって(例えば個人的な利益を持つポジショントークなど)意見に固執していると結論づけるようになります。同じ情報を手に入れて同じ程度の知性でも、少し価値観が違えば全く違う結論に至る可能性があるにもかかわらず。

社会の分断は「私たち(国民)よりももっと小さいグループの私たちの方が強くなっている状態」とも定義づけられると思います。向こう側のグループを勉強不足と切り捨てることもできますが、その分断が進めば全体の私たち(国民)としては不利益の方が大きくなってしまいます。個別最適にこだわりすぎて、全体最適が損なわれている状態です。

分断を防ぎ全体の利益を損なわないようにするためには、結局のところもっと大きな私たちという共同体の意識を持つことしかないのではないでしょうか。そして何より大切なことは、意見が違うのは勉強の不足の問題ではなく価値観の違いの問題だという前提に立つことではないかと思います。

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