【評論】 「右から左へ」から、「奥へ奥へ」──映画『アンダーカレント』
アフタヌーン四季賞・大賞を受賞した豊田徹也の二〇〇三年のデビュー作「ゴーグル」は、審査員の谷口ジロー(『犬を飼う』、『孤独のグルメ』etc.)から「ほとんど完璧な作品だ」と絶賛を受けた。決してゴーグルを外さない少女と、彼女の面倒を見ることになった男。リアリズムを追求した絵とそのまま実写映画にできそうな正確な構図とコマ割り、そして漫画的な派手さのない人間ドラマは、作者が谷口ジローの影響下にあると感じられるものだった。しかし、豊田の今のところキャリア唯一の長編『アンダーカレント』(二〇〇五年)は、もう一人の物語作家の存在を強く喚起させられた。村上春樹だ。
二〇二〇年七月に単行本刊行された村上春樹の短編小説集『一人称単数』の装画を担当した際、豊田は次のようなコメントを発表している。〈村上春樹さんの小説は初期のころから大好きで繰り返し読んできましたが、まだろくに漫画を描いていなかった自分にとってあまりにも影響が強すぎると感じ、「ねじまき鳥クロニクル」以降の長篇は読まないようにしていました。それでもこれまで描いた自分の作品には、どこか村上作品の残響を感じます〉(コミックナタリーの記事より)。
詳しいあらすじは他のページに譲るが、昔ながらの銭湯・月乃湯を舞台にした『アンダーカレント』は、『ねじまき鳥クロニクル』(一九九四年〜一九九五年)でも全面的に採用されていた村上文学の根幹と言える要素が、物語の出発点となっている。かつては蒸発と称され、現在は精神病理の観点から解離性遁走と呼ばれることがある、失踪だ。
失踪と家出は、似ているようで違う。特に、残された側の心理が異なる。家出は、出て行かれる側にもある程度、当該人物がなぜ家族やコミュニティから出て行ったのかを推察することができる。失踪は、謎だ。理由が分からないからこそ、残された人々は、なぜ出て行ったのかについて終わりのない想像を働かせることとなる。相手の事情や心情を想像するのみならず、もしかしたら一緒にいた自分の言動に原因があったのではないか、と己の内面をも探り出す。その過程で、己が抱えていたアンダーカレント(水流、底流、暗流)のうごめきを知る。村上文学における「井戸」と『アンダーカレント』における「浴槽」「湖」「池」は、相似形を成していると言える。
先行する物語作家から影響を受けている、と自覚し公言できることは、自分もまた同じような表現をしたい……という心境から発言者が一歩踏み出した場所にいる証だ。自分ならば、同様のモチーフをこう表現する。描かれなかった、読みたかった「その先」の物語をこう記す。『アンダーカレント』には、そのような意思が感じられる。端的に記せばそれは、失踪者と残された者とを再会させることだ。そして、再会時の対話が、失踪者にとっても残された者にとってもその後の人生を生きていくうえでの礎となる、と感じられるようなものとして描くこと。
今泉力哉監督による映画『アンダーカレント』は、画面の隅々から原作へのリスペクトが伝わってくるものだった。ただ、例えば原作漫画は初登場の一コマに始まり、序盤は主人公のかなえが常に右向きで描かれている。右から左へと読み進める漫画というメディアは一般的に、読み手の視線の進行方向の逆側、右を向く主人公は過去を志向し、左を向く主人公は未来を志向するとされている。過去に囚われているかなえが、銭湯で働きたいとやって来た堀や胡散臭い探偵の山崎と交流することで、少しずつ未来(=左)を見るようになる。漫画ではその変化が、顔の向きによって表現されているのだ。漫画作品を実写映画化する際、撮影現場にコミックスを持ち込み、構図や人物配置を漫画に描かれているとおり忠実に再現しようとする映画監督もいると聞くが、今泉監督はその手法を選ばなかった。物語を漫画の表現空間特有の磁場から解き放ち、映画の磁場において表現し直すことを選んでいる。
そのうえで今泉監督がおこなったことは、原作の『アンダーカレント』では描かれなかった、読みたかった「その先」の物語を新たに紡ぐことだった。人は、自分のことも他人のことも分からない。人と人は、分かり合えない。それは、絶望ではなく希望だ。分かりたい、分かり合えるかもしれないという思いが、人と人を隣り合わせる。不器用ながらも自分について語り、相手が語る言葉に耳を澄ませたい、と心を動かす。「その先」の物語の中には、『アンダーカレント』のテーマが凝縮されている。
漫画の最後の一コマは、ある人物の後ろ姿の絵だった。映画ではその後ろ姿に、絶妙な距離を置きながら、もう一人の後ろ姿を伴わせている。前後に並んだ二人は、右でも左でもなく、奥へ奥へと進む。この奥へ奥へと進む運動は、漫画で表現することは極めて難しく、映画だからこそ可能となったものだ。二人が、これまでとは全く異なる方向へと人生を進めていく意思が、約四五秒の静謐なラストシーンの内側にみなぎっている。この四五秒を観るために、この映画はあった。この四五秒が表現されるために、『アンダーカレント』は映画となったのだ。
※映画公開当時、本稿について、TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の「週刊映画時評ムービーウォッチメン」で宇多丸さんに言及していただきました。光栄至極です。
https://www.tbsradio.jp/articles/76498/
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