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緊急事態宣言で誰もいないのに…レッズの練習ピッチがずっと美しかった理由



「こんなにキレイなんですか!毎日練習で使っているんですよね?」

驚きと疑問をたたえた瞳が、深緑のピッチにくぎ付けになっている。

2018年6月。さいたま市にある浦和レッズのクラブハウス駐車場に、1台のスポーツカーが滑り込んだ。
降りてきたのはゴルフの石川遼プロ。親交のある柏木陽介選手との対談番組収録のために、初めて大原サッカー場を訪れた。

案内されたクラブハウス3階のテラスからは、ピッチが一望できた。
遼プロは「うわっ!」と驚きの声を上げ、目を輝かせた。

「芝、キレイすぎるでしょ!絵の具塗ったの?みたいな。ここまでキレイなことってあります?」

言うまでもなくトップゴルファー。世界中のターフを見てきたプロの「キレイだ」は、重みが違う。

シューズ


「やっぱり、これはすごいよ」

ピッチレベルに降りた遼プロは、そう言って芝を踏むのをためらっていた。
そんな彼に「大丈夫ですよ」と声をかける人がいた。

「ゴルフ場と一緒です。グリグリ踏んでください。なんなら、アイアンショットしてくれてもいいです」

そう言って、日焼けした顔をほころばす。
大原サッカー場の芝を管理するマスダさんだ。

「むしろ、本当に打ってみてほしいんですよね。ちょっとやそっと傷ついたくらいでは…というレベルに育てあげているつもりではあるので」

話すうちに、言葉には真剣さが宿りだした。

「これは…打ちたいですよ。打ってみたい。クラブを持ってくるんだったなあ」

遼プロもつい、何も持たない手で素振りを始める。
あの木まで150ヤードくらいかな。そうつぶやく横顔から、いつの間にか笑みが消えていた。

サッカーボール


つくり上げるピッチは、芸術作品のように美しい。
だがマスダさんは、それが傷つくことをまったく気にしない。

「選手が練習するための場所ですから。キレイに仕上げているのも『これで練習の質が上がると思うから』です」

常々、そう言っている。

練習が終わるとすぐに、マスダさんは相棒のダテさんとともに、芝の修復作業に取り掛かる。
時折その足を止めて、ピッチ上の何かに見入っていることがある。

「とんでもない足跡。これは荻原選手だと思います。砲丸投げのフィールドを直す時に見かけるレベルの痕跡ですよ」

宝物を見つけたように、目を輝かせる。

サッカー選手はキックする際に、蹴る方と逆の足で強くピッチを踏みしめる。
この力が強ければ「軸」が安定し、蹴り足を鋭く振り抜ける。

つまりマスダさんは、足跡からその選手の可能性を垣間見ているのだ。歴代の名選手の足跡ならすぐに思い返せる。だから比較もできる。

「ただこの足跡は、まだ芝の根っこをやっつけるところまではいってないかな。まだこっちが勝っている」

そう言って笑う。

芝刈り機


大原サッカー場は周囲を沼地に囲まれている。

ピッチ自体も、沼を埋め立てた土地にできたものだ。
もともと水はけが悪く、あまりいいピッチ状態ではなかった。

マスダさんたち歴代の芝の管理チームは、長年の積み重ねでこれを克服してきた。
いったん芝をはがし、下地となる砂や土から水はけのよいものに入れ替えた。芝の品種、使用する肥料なども、毎年テストを重ねてきた。

蒸れない下地。適切な栄養補給。ある時から、芝の根が地中にぐいぐい伸びていくようになった。
ピッチの周囲を取り囲む舗装面と比べ、ピッチ自体が数センチ高くなった。それだけ、地中で芝の根が膨張したということだ。

これはいわば、ふかふかのクッションのようなものだ。
走る際に足腰に加わる衝撃を、地面が吸収してくれる。メディカルチームの取り組みが奏功したこととも相まって、選手たちのケガが急激に減りだした。

「こんなに柔らかい練習場は初めてです」

レッズに加入した選手は、決まってこう口にする。

球場


そんなマスダさんが、しばらく野球場の芝を手掛けていたことがあった。

2016年、マスダさんが所属する芝の管理会社が、同じさいたま市にある埼玉県営大宮公園野球場の芝の管理を委託された。

「ずっとやりたかったんですよ」

その年の5月。誰も使用していない県営大宮球場におじゃますると、マスダさんは外野を歩いていた。
内野は土。外野のみに芝が張られている。外野手の定位置のあたりの芝が薄い。よく見かける地方球場、といった感じだった。

「本当は全部はがして、下地から直したいですけどねえ」

そうつぶやきながら、芝の状態を念入りにチェックしている。

早朝6時から練習後の午後まで、大原サッカー場のメンテナンスをするという日課は変わらない。
それが終わった後に、大宮球場に駆け付ける。そして日が暮れるまで、芝の手入れをする。

仕事は倍。大宮球場の方はイチから手掛ける案件だけに、実際には倍以上の労力だろう。
それでいて、会社員たる身。2人分の給与がもらえるわけでもない。

なのになぜ、球場の芝にこだわるのか。

ボール②


少し昔のことだ。
マスダさんは埼玉県内の母校を応援するため、夏の高校野球埼玉県大会の会場を訪れた。

強豪・花咲徳栄との試合は接戦になった。終盤、母校が得点圏に走者を進められるピンチを迎えた。
そして、ヒットが外野の芝に転がった。得点を阻止するべく、外野手が思い切ってチャージをかける。

次の瞬間、芝で打球がイレギュラーバウンドをした。
グラブをかすめ、ボールは彼の後方へと転々と転がった。

相手校の応援団から、大歓声が上がる。
必死に打球を追う彼の姿を、マスダさんはスタンドから茫然とみていた。

サッカーボール


「ボールの弾み方ひとつで、人生が狂ってしまうようなことだって、あるんじゃないかと思うんです」

マスダさんはそう語る。
あの夏の記憶は、仕事と向き合うスタンスに、大きな影響を与えた。

サッカーでは、ボールがイレギュラーバウンドをして…というケースは多くはない。
手掛けるのが練習場だけに、1つのミスが選手生命を左右してしまう、というわけでもない。

だが、ピッチが硬ければケガの可能性は高くなる。
ボールの転がり、走りが悪く、スタジアムと同じようなパススピードが出せなければ、試合を想定した練習はできない。

毎日を過ごす練習場の芝もまた、選手の人生を左右する。
毎日を過ごすからこそ、左右する。

マスダさんはそう考えるようになった。

芝刈り機


芝の育成について、マスダさんは独自の研究をするようになった。

いい品種と聞けば、すぐに試す。
いい薬剤があると知れば、限られた経費を何とかやりくりして購入した。

「ピッチ」とひとくちで言っても、実は夏と冬とでは違う種類の芝が生えている。うまく生え変わらせるのも、大事な仕事だ。
いつ頃から冬芝を枯らしていって、その分の栄養を回す形で夏芝を伸ばすか。そういったあたりも研究し続けた。

「芝を枯らす」と口で言うのは簡単だが、相手は生き物だ。
加えて、枯れたり伸びたりに密接に関係する気温や湿度の変化も、人たる身には自由にコントロールはできない。

思うようにはいかないこともある。
そんな時、選手は何の気なしに「あんまり芝が良くない」とつぶやくかもしれない。その言葉は口にした者の意図をこえて、マスダさんの胸を深くえぐる。

何度も失敗した。悔しさを味わった。
思い通りにならない"自然"を前に、歯噛みすることしかできない時もあった。

それでも根気強く、芝と向き合い続けた。

今年もマスダさんは「芝の状態が悪い」といつも首をかしげている。
それでも浦和レッズの選手たちは「大原サッカー場の芝は国内トップクラス」と口をそろえる。

球場


マスダさんが、ムリをしてでも野球場の仕事を掛け持ちした。
それはやはり「原点」だと思うからだ。

芝の状態ひとつで、競技に真剣に取り組む選手の人生を狂わせたくない。
そういう気持ちを持ち続けてこそ、自分はプロで居続けられる。

大宮球場の芝の状態を丹念に調べながら、マスダさんは球児が泣いたあの夏のことを思い出していた。

「外野手がイレギュラーを怖がらずに、打球に対して突っ込んでいけたら、本塁上で走者を刺せる可能性は高まりますよね」

「可能性」のところで、いっそう語気を強める。

「それだけじゃなく、芝で打球が加速するくらいになったら、もっと刺せる。そうなったら、その選手の将来も開けるかもしれない。いずれはそういう芝をつくりあげたいです」

ボール②


県営大宮球場の芝の管理委託期間は、いろいろな事情から1年足らずで終わってしまった。

最後の試合は、高校野球の秋季大会。
大宮球場の外野部分には、プロ野球のスタジアムも顔負けの美しい芝が広がっていた。

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最後に芝刈り機を使って、チェック模様の芝目をキレイに付け終えたマスダさんは「もう少し時間があれば」と心底残念そうに言った。

「でも、本当に楽しかったです。そして、とても大事な時間を過ごさせてもらいました。初心に帰れたので」

試合開始に備えて、球児たちが外野に散ってキャッチボールを始める。
これだけ美しい芝の上で野球をする機会は、めったにない。どの選手も、明らかにテンションが高い。

みんなにとって、いい機会になるといい。
シートノックを遠めに見ながら、マスダさんは日に焼けた頬を少しだけほころばせた。

スマホ


そんな「いい機会」を、無情にもすべての人々から奪った。
それがコロナ禍だった。

2020年。浦和レッズは4月5日からチーム活動を「休止」とした。
大原サッカー場から、選手たちの姿が消えた。

当初は2週間の予定だった。
だがコロナの感染拡大、そして緊急事態宣言の発令を受けて、2度にわたって休止期間が延長された。

誰もいない、静かな練習場。
美しい芝のピッチだけが、そこに浮き上がっているようだった。

芝刈り機


疑問にお感じにならないだろうか。
なぜ、誰もこない大原のピッチが、ずっと美しいままだったのか。

それは緊急事態宣言下にあっても、マスダさんと相棒のダテさんが、ずっと手入れを続けていたからだった。

ボールやユニホームなどといった備品とは違って、芝は「生き物」だ。
メンテナンスをしなければ荒れる。冬芝から夏芝に切りかえる時期でもあったから、なおさらだ。

練習再開が決まってから整備をしても間に合わない。
だからいつ選手たちが戻ってきてもよいようにと「明日からでも練習ができる状況」を保ち続けていたのだ。

幸い、マスダさんは公共交通機関を使わずとも、自転車で大原サッカー場に通うことができた。
誰も見ていない。報われない可能性も高い。それでも手を抜くことなく、いつものように芝に手をかけ続けた。

多くを語らないマスダさんだったが、親しいスタッフにはこう明かしていたという。

「選手みんなにとって、今年は芝の上に立てる時間の重みが、いつもの年とは違うから」

サッカーボール


レッズは2016年、ペトロビッチ監督のもとで年間最多勝ち点を挙げた。
翌2017年にはアジアチャンピオンズリーグで、日本勢として9年ぶりとなる優勝を果たした。

そうした「いい時代」を支えてきたメンバーの多くが、30代半ばを迎えている。
当時の主将である阿部勇樹選手などは、練習中断の時点で38歳になっていた。

コロナ禍での特別措置として、今季のJ1は2部降格がなくなることが発表されていた。
優勝を争うクラブ以外は、思い切って世代交代に舵を切ることもできる。これはつまり、ベテランの出場機会が減ることを意味している。

ただでさえ、残された時間は少ない。
加えてコロナが、彼らから時間をむしりとっていく。

マスダさんにはそう思えた。だが、直接的には何もしてあげることはできない。
せめて、限られた時間を最高のものにしてあげたい。そのためには、常にピッチを可能な限りいい状態に保っておくしかない。

たとえ、明日も選手がピッチにあらわれず、費やした労力が無駄になったとしても…。
手を抜くことはできなかった。手を抜けば、絶対に後悔する。

イレギュラーに泣き、一生に一度の夏をふいにした球児の姿が、この時も脳裏に浮かんだ。

芝刈り機


コロナ禍の中、マスダさんは大宮アルディージャの練習場まで自転車を走らせたことがあった。
そして1時間ほど、クラブから芝の管理を任されている女性グラウンドキーパーの作業を手伝った。

みな、同じような状況で、同じように葛藤していた。
同じ立場の人間にしか分からない悩み。自分が励まさないと、と思った。同時に、他のグラウンドキーパーの頑張る姿に励まされるところもあった。

そうやって励まし合いながら、マスダさんたちは辛抱強くピッチに選手たちが戻ってくるのを待った。
5月27日。ついに大原サッカー場で、チームの活動が再開された。

緑のピッチに、選手が立つ。
それだけのことが、とても尊いことのように思えた。


サッカーボール


やがて、リーグ戦も再開された。

そうやって、サッカーが少しずつ日常を取り戻してきた9月30日。
埼玉スタジアム2002のグラウンドキーパーであるワジマさんが、定年退職を迎えた。

「修羅場もくぐられた方です。いろいろなお話を聞かせてもらいました」

マスダさんはポツリと言う。

2002年のサッカーワールドカップ日韓大会の直前。ワジマさんは「スタジアムの芝の根付きが悪い」として、メディアからたたかれまくった。

国を挙げたビッグイベントで、矢面に立つ。計り知れないほどの重圧があった。
そこを経験したからこそ、ワジマさんたち管理チームの仕事はいつも緻密だった。

やがて、批判していたメディアさえもうならせるピッチをつくりあげた。
そして、日本代表が常にホーム戦を行うようになった。

芝刈り機


埼玉スタジアムは「パスが高速で走るピッチ」として定評がある。
その理由として、芝そのものの質はもちろん「試合直前に撒いている水の量が多い」というのもある。

マスダさんはこの点について、控えめながらもレッズのスタッフに意見を言ったことがある。

「埼スタの芝は寒冷地型なので、湿気に弱い。冬場はさておき、湿度の高い夏場まで水を撒いたら、管理が本当に大変になります」

チームスタッフもマスダさんの助言を素直に受け入れ、ワジマさんへの注文を控えめにしようとした。
だが、ワジマさんはかまわず、今まで通りにチームのために水を撒いてくれた。

「あれができるのは、ワジマさんたち管理チームのみなさんの、普段からの努力のたまものだと思うんですよね」

マスダさんはしみじみと言う。

チームのために、ピッチはある。
ワジマさんが背中でみせてくれていた「哲学」を、自分も次世代に引き継がなければ。あらためて、そう思った。

サッカーボール


コロナがピッチに落とす影は、今も色濃い。

試合への入場者数が制限されたことによって、チケットの売り上げは大きく落ちた。
特定の親会社が巨額の資金を投下してくれるクラブと比べると、入場料収入を中心に"自活"しているレッズが受けた打撃は大きかった。

マスダさんが練習場の管理にかけられる経費にも、制限がかかろうとしている。
例年よりもむしろ、経費がかさんでいるにもかかわらず、だ。コロナ対策で、練習場各所や用具を頻繁に消毒しなければならない。

「何とか理解を得て、芝の状態は守っていきたいです。チームのためにピッチはありますから」

◇   ◇   ◇



ある日の練習終了後。

機材を運転して、芝の通気性を良くする作業をしていたマスダさんの視界に、大きな影が走った。

振り向くと、大きなシラサギがピッチに舞い降りていた。

日韓ワールドカップの年に見て以来かな。ふと、そう思った。

もう一度、機材のアクセルを踏み込む。
誰もいなくなった静かなピッチに、エンジン音がいつまでも響いていた。




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