ハリルホジッチさんに手紙を送り続けた結果、ご自宅の前で起きたこと。
ヴァイッド・ハリルホジッチさんを取材する機会をいただいた。
熊本地震から5年。
このタイミングにあわせて、被災地の皆さんにメッセージを。
そう申し入れると、元サッカー日本代表監督は快諾をしてくださった。
「そういえば、日本のメディアのインタビュー取材を受けるのは初めてだね。日本を離れてから」
仲介してくださったマネジメント事務所の方は、そう教えてくれた。
ハリルホジッチさんは、モロッコ代表の監督を務められている。
パリの自宅に戻ったタイミングでオンライン取材を、ということになった。
ただ、帰国便が決まっていなかった。
「4月13日以降、場合によっては16日になるけど、それでもかまいませんか」と確認された。
熊本地震の本震が起きたのは4月16日。
仮に取材できるのがその当日となったら、時差もあるから記事公開は17日になってしまうかー。
ただそれでも、話していただく価値は変わらないと思った。
ふたをあければ、13日に取材ができることになった。
おそらく最大限、日程を調整してくださったのだろう。
当日。
Zoomの画面に現れたハリルホジッチさんはまず、自宅の中を映りのいい場所を探して動き回ってくださった。
そのような姿を、僕は以前にも見た気がした。
2015年3月5日。
僕はフランス北部・リール市にあった、ハリルホジッチさんの当時のご自宅前にいた。
解任されたアギーレ氏の後任として、ハリルホジッチさんはサッカー日本代表の監督に就任することが「決定的」になっていた。
日刊スポーツはそれを2月24日の朝刊で報じた。そして同時に、僕はフランスに飛んだ。本人のコメントを取るためだった。
そこから2週間。
あてもなく捜し回った末に、僕はようやく当時のご自宅にたどり着いた。
その経緯は、以前noteにも書いた。
本人と親しい地元記者が、住所を教えてくれた。
毎日、手紙を送った。奥さまとは電話でつながった。そうやって数日かけて、お会いできそうな流れになった。
教えられたご自宅を訪れた。
何度も深呼吸をしてから、インターホンを押した。
反応がない。
ガレージにはシャッターがおりていて、庭には落ち葉1つなかった。
人の気配というものを感じないほど、すべてが片付いている。
もしかしたら、ここにはいないのか。
まさか、すでに日本に向かって出発してしまったのか。
冷たい汗が、シャツの内側ににじむのを感じた。
渡仏から2週間。"捜索"は難航を極めた。
1本の記事も書けないまま、時間だけが過ぎていった。出張費だけがかさむ。会社員としては、とにかくプレッシャーだった。
それでもようやく、ハリルホジッチさんの自宅までたどり着いた。
ようやくコメントが取れる。トンネルの出口が見えた気持ちだった。
なのに、時すでに遅し、だというのか…。
いずれにしても、ここにいても仕方がない。
後ろ髪をひかれるような思いだったが、その場を立ち去ることにした。
電子音がした。
後から考えれば、セキュリティの解除音だったのだろう。
振り返ると、ドアがゆっくりと、小さく開いた。
小さな白い塊が、すごい勢いでこちらに転がってきたように見えた。
「キャンキャンキャン!」。鳴き声でようやく、それが小型犬だと分かった。
「待ちなさい」
そう言いながら、大柄な男性が姿を現す。
ヴァイッド・ハリルホジッチ、その人だった。
小型犬はとにかく、言うことを聞かなかった。
ご主人様の足元を走り回って、なかなかつかまらない。
ついに見つけた「尋ね人」を前にしながら、僕はしばらく捕り物劇をみているしかなかった。
やがて、ハリルホジッチさんは確保を諦め、天を仰いだ。
それを見て「お話、よろしいでしょうか?」と切り出す。
ハリルホジッチさんは、静かに首を振った。
「いろんな人からメッセージをもらっています。でも、どれには答えて、どれには答えない、というような吟味をするわけにはいかないでしょう」
先ほどまでのおろおろとした様子がウソのようだ。
真っすぐと、強いまなざしでこちらを射抜きながら、はっきりと言う。
「申し訳ない。今は何も言えない」
仕方ないよな、と思った。
まだ、正式発表がされていないタイミング。なんでも自由に発言ができるわけではない。
「どれに答えて、どれに答えないという吟味はできない」
その言葉からは、生真面目さが伝わってきた。
それだけでも、取材として十分だと感じた。
何より「話を聞かせてほしい」と強く願っていることは、伝わったはずだ。
対応してくださったことへの感謝を伝えようと思った。
するとハリルホジッチさんが、なぜか再び口を開いた。
「今は言えないんだ。12日までは何も言えない」
ことさらに、両手を振りながら繰り返す。
「いろんな人からメッセージはもらっているけど、とにかく12日までは何も言えない。1つ1つのメッセージを吟味するなんてできない」
さっき話した内容をなぞり直し始める。ちょっと不自然だった。
「申し訳ない。12日だ。12日を待ってくれ」
そうか、12日に就任が正式発表される予定、ということか。
僕はたぶん、目を見開いていたと思う。
それを見て取って、なのか。
とにかく、ハリルホジッチさんは言葉を繰り返すのをやめた。
意図的だったのかどうかは、今も分からない。
とにかく、結果としてハリルホジッチさんは僕に、大きな手土産を持たせてくれた。
「最有力候補に浮上」の段階から「12日にも正式発表」へ。1面で報じる価値のある情報だと、すぐに感じた。
話を終えたハリルホジッチさんは手を振って、家の中に戻っていこうとする。
僕はここで、大事なことに気づいた。写真をおさえていない。
「写真を、写真を撮ってもいいでしょうか?」
せめて、ドアの向こうに消えていく横顔だけでもおさえないと。
新監督に期待する読者に、彼の「近影」をぜひ見てもらいたい。
するとハリルホジッチさんは踵を返し、再びこちらにやってきた。
そしてもう一度「今は話せない」と、ことさらに手を振ってみせた。
今度は、すぐに反応できた。
デジタル一眼レフのモニターを確認して、安どの表情を浮かべる僕を見ながら、ハリルホジッチさんは玄関に戻った。
最後に「おいで」と言って、手招きをする。
あれほど言うことを聞かなかった小型犬が、あっさりとドアの中に入っていった。
フランス時間の午後3時すぎ。
つまり、日本時間の午後10時を回っていた。それでもまだ、かなりの部数にこの記事をねじ込める。急いで日本のデスクに連絡をした。
住宅街から大通りに出たところに、カフェがあった。
ここに駆けこんで、パソコンを開く。
10分ほどで、原稿を書き上げた。
1100文字。ちょっと長くなったが、時間がない。すぐに日本に送信した。
「送りました」。
そう電話でデスクに報告をして、一息をつく。
ハリルホジッチさんのご対応自体は、せいぜい5分ほどのものだっただろう。
だが、フランス到着以来の動きが実ったものではあった。身体から一気に力が抜けていくのを感じた。
そして、ふと思う。
なぜ、ハリルホジッチさんはあのような対応をしてくださったのだろうか。
その日を迎えるまで、ハリルホジッチさんに手紙を何通も送った。
「日本のどのようなあたりに可能性を感じて、仕事を受けるのか、ぜひお聞かせ願いたい」
そんなあたりを中心に、なぜお話を伺いたいのかを重ねて伝えていた。
ボスニア・ヘルツェゴビナ出身というところに、特別なものを感じていた。
あのオシムさんと同郷、だからだ。
オシムさんは、日本の可能性を信じてくれていた。
日本サッカーの潜在能力を引き出し、代表を化けさせようとしていた。
だが、残念ながら脳梗塞のため、志半ばで日本代表の監督を退いた。
そのバトンを引き継ぎ、日本を飛躍させてくれるのではないか。
オシムさんのような、含蓄のある言葉を聞かせてもらいたい。
オシムさんに育てられた記者として、勝手ながらそんな思いがあった。
リール市の中心部へ戻る途中で、電話がかかってきた。
サッカー取材班の先輩からだった。
「おつかれさま。ついにハリルホジッチさんに会えたのか。しかも特ダネももらって。よかったな!」
僕は気遣いをありがたく思いながらも、ついついこう答えてしまった。
「聞きたかったことは、聞けてません」
本当に日本代表の監督に就任するのか。
するとすれば、いつなのか。
それらの情報は、会社の利益にはなるから、急いで報じた。
ただ、僕があの場で聞き出さなくても、いずれは明らかになるものでもあった。
大事なのは、そこではない。
オシムさんの教えを受けた記者だからこそ、聞き出せる話を。それこそが「自分が関わる必然性のある取材」のように思えた。
3月12日。
ハリルホジッチさんの代表監督就任が、日本サッカー協会の理事会で承認された。
そのころ、リール市のご自宅の前。
サッカー協会が手配した黒塗りのワゴン車に、次々と荷物が積みこまれていた。いよいよ、出発の時だ。
ハリルホジッチさんがこちらに気づいた。
止めようとする協会のスタッフを制して、歩み寄ってくる。
「インタビューは、日本に着いて、落ち着いたころにぜひ」
そう言って、握手を求めてきてくれた。
僕の隣にいた女性に。
「やっぱり、こうなりますよね」
ハリルホジッチさんを乗せたワゴン車が走り去っていく。
それを見送りながら、僕は女性に苦笑いを向けた。
渡仏後、僕はハリルホジッチさんとの接触に備え、フランス語を勉強した。
だが当然、取材のやり取りができるほどに上達するわけもない。
ここまでつづってきた会話、そして手紙の内容はすべて、通訳さんを介したものだ。
パリ市内の飲食店で知り合った日本人。
もともとドイツの製薬会社に就職していたが、業種を変えるためにパリの大学院に通われていた。
頭の回転も速く、バランス感覚も素晴らしかった。
ハリルホジッチさんとのやり取りは、とてもスムーズだった。
自宅でお会いするお願いの電話も、この女性がかけてくださっていた。
手紙の署名「Daisuke Shiohata」が、女性なのか男性なのか。それもフランスに暮らすハリルホジッチ夫妻には、分かるはずもない。
きびきびとやりとりをする女性。
その横でカメラを持ったまま、ただただ撮影の機を逸していた僕。
ハリルホジッチさんが、女性の方を「取材者」と思うのも、無理はなかった。肩を落とす僕に、女性が声をかけてくれた。
「手紙の内容には、私も翻訳をしながら胸が熱くなりました。そのお気持ちがあったからこそ、ハリルホジッチさんは私たちに会ってくださったんじゃないでしょうか」
それから6年がたった。
オンライン取材の画面に現れたハリルホジッチさんを見ながら、僕は当時を思い出していた。
「ああ、ここだと逆光か。じゃあ、どこでやるのがいいんだ」
そう言って、ご自宅の中を歩き回ってくれている。
その様子は、玄関に戻る足を止めて撮影をさせてくれた、あの日の姿に重なった。
変わらないのだなと、しみじみ思った。
「話を聞きたい」と願う気持ち。話をする意義。それらを認めることができれば、最大限の協力をしてくださる。そういう方だ。
2018年、W杯本大会を目の前にしながら、日本代表の監督を解任された。
不本意な離日以来、日本メディアの単独インタビュー取材は受けていない。
なのに、今回の取材は快諾してくれた。
モロッコからの帰国便まで調整して、時間をつくってくださった。
仲介してくださったマネジメント事務所の方は、こう言っていた。
「すべては『熊本のために』という企画の趣旨に賛同されたからでしょう。そうでもなければ、きっと取材は受けない」
◇ ◇ ◇
「スポーツには、人を勇気づける力がある」
ハリルホジッチさんはインタビューで、そう強調された。
競技者も指導者も、それを信じている。
取材する側もその力を信じて、記事を書き続ける。
思いが同じなら、それを伝えあうことも、大事なのではないか。
今回の取材を通して、あらためて強く感じた。
きっと、取材の現場だけではない。
立場は違う。でも、目指すところは一緒。
そう伝えあう関係が増えることで、あらゆる仕事の可能性は広がるように思う。
たしかに今は、コロナがそれを難しくさせている。
だがきっと、大事なことは変わらない。
ハリルホジッチさんの変わらぬお姿から、学んだことだ。
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